変化とは、常に勇気を必要とするもの。――2
哀愁が漂っているだろう背中をしながら、とぼとぼと夜道を歩き、俺は自宅に帰ってきた。築五〇年超えの格安アパートだ。
サビだらけの階段は、一段上るたびにギシギシと軋みを上げる。
階段を上りきった俺は通路を奥まで進み、端っこの部屋のドアを開けた。
「……ただいま」
まだクビになったショックから立ち直れていないのか、発した自分が驚くほど暗い声だった。
玄関で靴を脱いでいると、パタパタとスリッパを鳴らす音が聞こえ、小柄な少女がひょっこりと顔を覗かせた。
「お帰り、おにぃ!」
水色のワンピースの上にピンクのエプロンを羽織ったその少女は、フライ返しを手にしている。
ブラウンのミディアムヘアと、クリクリとした黒い目を持つこの少女は、小学六年生の俺の妹――優衣だ。
「お夕飯できてるよ。今日は牛肉が特売だったから、半年ぶりに牛丼を作ってみました!」
ニパッと優衣が笑う。
ヒマワリみたいに明るい笑顔。この笑顔を曇らせたくはない。
だから俺は、抱えている憂鬱を無理矢理引っ込め、努めて明るく振る舞った。
「そっか。本当にひさしぶりだなぁ。楽しみだよ」
「けど、まずはうがいと手洗いだからね!」
「はいはい」
眉を上げ、優衣がビシッと指さしてくる。相変わらずしっかり者な妹だ。
靴を脱いだ俺は洗面所に向かい、優衣の言うとおり、しっかりとうがい・手洗いをする。
風邪予防を終えてダイニングに向かうと、俺と優衣の母親である勝地麻里奈がダイニングチェアに腰掛けていた。
俺はギョッとする。
「母さん!? 起きていて大丈夫なの!?」
「お帰りなさい、真。大丈夫よ。今日は体の具合がいいから」
母さんが俺を安心させるように目を細めた。
まだ三〇代にもかかわらず、母さんの頭は白髪交じりで、ブラウスの袖から覗く両手は見るからにやつれている。とある事情から、母さんは虚弱体質になってしまったのだ。
そんな母さんの姿を目にして、優衣の前では引っ込めていた憂鬱が、再び這い上がってきた。
虚弱体質の母さんは、一日のほとんどをベッドで過ごしている。働くことなんてとてもじゃないけどできない。
小学六年生の優衣ももちろん働けない。いや、仮に働けたとしても、勝地家の家事をすべてこなしてくれているのだから、これ以上働かせるわけにはいかない。
俺と優衣の父親は、母さんと離婚してから音信不通になっており、頼ることはできない。まあ、あんな父親に頼るなんて死んでもしたくないけれど。
つまり、俺たち三人家族のなかで生活費を稼げるのは、稼がなくてはいけないのは、俺なのだ。
けれど、バスタードから追い出された俺には、Eランクダンジョンを攻略する術さえもない。ダンジョン攻略のほかに、家族三人を養えるだけのお金を稼ぐ手段も思いつかない。
現状でも貯金を切り崩し、なんとか生活しているのに、これからどうなってしまうのだろう? これからどうすればいいのだろう?
「真? 暗い顔をしているけど、大丈夫?」
悩んでいた俺は、母さんに声をかけられてハッとした。
母さんは眉を『八』の字にして、心配そうに俺を見つめている。
母さんを心配させたくない。これまでたくさん苦労をかけてきたんだ。もう、母さんにはつらい思いをさせたくない。
だから、俺は笑顔を取り繕った。母さんを安心させるために。
「大丈夫。なんともないよ」
「……本当?」
それでも母さんの表情は晴れなかった。俺の笑顔は下手くそだったらしい。
慌てて俺は嘘を重ねる。
「本当に大丈夫だよ。ダンジョン探索でちょっと疲れただけだから」
「無理はしないでね、真。ダンジョン探索は危険なんでしょう? なによりも、あなたの命が大切なんだからね?」
いまだ不安そうにしながらも、母さんはそれ以上なにも言わなかった。
もしかしたら、母さんは俺の嘘を見抜いているのかもしれない。見抜いたうえで、深く追求しないでいてくれたのかもしれない。母さんを心配させたくないという、俺の意をくんで。
母さんに『ありがとう』と言うべきだろうか? 『ごめんね』と言うべきだろうか? 黙っているべきだろうか? 俺にはわからない。
ただひとつ、『バスタードを追い出されたんだ』と、真実を口にしてはいけないことだけは、わかった。
ひさしぶりに優衣が作ってくれた牛丼は、しかし、味がよくわからなかった。
味わう余裕がなかったからだ。
味わうどころじゃなかったからだ。