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エピローグ・後

 咥えた煙草の先にライターを近付けながら、ガラリと窓を開ける。

 ベランダに出て、火を付けながら手摺りに寄り掛かると、視界の端に動く人影があった。

 空き部屋を挟んで向こう、三〇三号室の住人だろう。いつもそうだった。俺が煙草を吸いに出ると、引っ込んでいく。向こうも煙草を吸っているらしいから、臭いが嫌なわけじゃなくて顔を合わせるのが嫌なのだろう。

 分からないではない。

 三〇三号室の主はいつも辛気臭い顔をしている三十絡みの女で、夕方に出掛けて朝に帰ってくる人種だ。同じアパートの住人といえど、愛想良くご近所付き合いしようというタイプではない。

 だからまぁ、慣れたは慣れた。

 それに頼んだわけでもないのに一人にしてくれるのは、正直言って有り難い。

 あの夏から、早くも一年が過ぎようとしていた。

 この一年で誤解されることにも慣れたが、他ならぬハルに疑いの目を向けられるのは辛い。

 示し合わせたわけでもないのに二人並んで煙草を吸うよりは、片方が出てきたら示し合わせたようにもう片方が引っ込む、という方が気も楽だ。

 ふぅ、と一息つく。

 木造三階建てのボロアパートの、三階の角部屋。

 それが今の我が家だ。築年数がかなり嵩んだお陰で家賃は安いが、築年数相応なのは家賃だけじゃない。風呂とトイレは狭いし、壁は薄いし、夏は暑く春先は寒かった。

 これで月に何万も取っていくんだから、不動産とは儲かるのかもしれない。

 あるいは、儲からないからこそ限られたカモから分捕らなければならないのか。

 まぁ、後悔はしちゃいない。この先もしないだろう。

 大学の四年生になった今春、俺はハルとともに引っ越してきた。

 不動産屋も大家も男子大学生の二人暮らしには怪訝な顔を見せたが、背に腹は代えられぬと知っているのか、はたまた貧乏学生の苦衷を汲み取ってくれたのか、手続きは手早く済んだ。

 初めて家を出る理由が幼馴染の男との同棲とは、我ながら呆れてしまう。

 だが、繰り返そう。

 後悔はなかった。

 高さだけは唯一実家に優るベランダから街を見下ろす。

 といっても、見渡せるわけではない。細い道を挟んですぐ前には雑居ビルが立っていて、見えるものといえば常にカーテンが閉め切られた窓か、窓に張り出されたテナント募集の広告くらいだ。

 空気はどこも変わらないと思うのだが、そんな景色のせいか淀んで感じる。

 それでも不満はない。

 壁は薄いが、隣も下も空き部屋だから騒音を気にすることはないし、トイレなんて広くても困る。風呂が狭いのは少し不便だが……、広かったら広々と入れるのかといえば、そうではないだろう。

 一人でのんびり入るつもりだったのに、なんて日常茶飯事だ。

 別に不満はない。それでいいんじゃないかと、なんとなく思う。

 幸せと言えば大袈裟だろう。

 しかし、満足はしていた。

 開けっ放しにしていた窓の向こうで、ガチャリとドアノブが回る。

 薄っぺらいドアを開けたのは、言うまでもなく我が家のもう一人の主、ハルだ。

「ただいまー」

 間延びした声に小さく笑い「おかえり」と口で言う代わりに片手を上げてみせる。

「あ、また外で吸ってる! 気にしなくていいって言ってるのに!」

「何度言えば分かる。お前が気にしなくても大家が気にする」

 部屋をヤニ臭くしては後々厄介だ。

 何度も言っているのだが、どうもハルは納得してくれない。特に夜に一人で吸おうとすると……いや、やめておこう。今はまだ日も高い。

「で、大学行ってたんじゃないのか」

 頭を切り替え、適当な話題を引っ張り出す。ハルは頬を膨らませた。

「僕が言うのもなんなんだけどさ、そんな言い訳が通じると思う?」

「少なくとも俺には通じたぞ。お前が出ていって三十分くらいは、マジで大学なんだと思ってた」

 ハルは今年、ピカピカの大学一年生だ。

 同じ部屋に暮らしてはいるが、毎朝向かう方向は違う。

 今日出ていったのは昼過ぎだったが、夏休み中にも講義か何かあるのだろうと、ほんの三十分ばかしは本当に信じていたのだ。

 勿論、その後すぐに思い出したが。

「……まぁ、思い出したんなら許してあげるけど」

「優しいなぁ、ハルは」

「フユがそういうとこルーズなのは知ってるもん。そりゃ慣れるよ」

 ルーズ、か。

 まぁ返す言葉はない。なにせ――、

「あれから、ちょうど一年か」

「そうだよ! フユはそういうの気にしないかもしれないけど、僕は気にするんだから」

 今日はあの日から一年だ。

 青臭い言い方をすれば、付き合い始めた記念日ということになるのだろう。

 記念の品とか、用意してないけど。

 そもそも思い出したのが何時間か前だ。

 しかしハルが大学を理由に出ていった先にも心当たりがあったから、俺まで出掛けて入れ違いになるわけにもいかず、こうして煙草を吹かして待っていた次第である。

「というわけで、……はいっ!」

 暑さとは違う何かで頬をほんのりと染め、ハルがそれを差し出してくる。

 可愛らしいラッピングが施された、片手で持てるサイズの包み。

 煙草は……、諦めよう。首に下げた携帯灰皿に押し付け、両手を空ける。包みを受け取ると、重心が少し偏っているのが分かった。

 開けていいか、と視線で確かめ、包みを解く。

 中から出てきたのは、更に小さな二つの箱。ただし、こちらは商品そのままだったから、中身が分からないということはない。

 ライターと携帯灰皿。

 俺がいつも持ち歩く三点セットのうちの二つ。

「高かったろ」

「その前に言うことないんですか」

「あぁ、ありがとう。嬉しいよ、正直。大切に使う。……で」

「ちょっと高かったけど、出せない額じゃなかったから」

「そっか。ありがとな」

「うん」

 ハルはもじもじと頷いた。

 どうしよう。

 解いた包みをポケットに押し込んで、空いた片手でハルの身体を引き寄せる。

「……んっ」

「変な声出すな」

「だってっ!」

 まぁ、いいけど。

 嫌いではない。というか、むしろ…………。

 背後は確かめるまでもなかった。空きテナントと、いつもカーテンが閉まっている事務所か何か。アパートの隣室は空き部屋で、その向こうの住人は俺がベランダに出ると同時に引っ込んだ。

 周りの目を気にすることはない。

 それが何より気に入っている、新しい我が家の特徴だ。

 意識を眼前に戻すと、ハルは目を閉じて待っていた。

 気が早い。

 まぁ、いいけど。

 ……うん、いいか。

 軽く唇に触れ、すぐに離す。ハルの不機嫌そうな瞳が至近距離にあった。

 もう一度キスする。

 今度は、もっと強引に。貪るように。

 ハルは嫌がらない。お互い様か。ハルもハルで遠慮がない。

 思考が溶けていく。

 一分か、五分か、十分か、それ以上か。

 よくもまぁ飽きないな、と他人事のように思っていた。

 不意に顔が離れる。

 乱れた呼吸を恥じるようにハルが顔を背けたから、引き戻す。

「ちょっ……もう!」

 よくもまぁ飽きないな。

 それに熱い。

 暫く、そうしていた。

 どちらからともなく唇を離し、それでもまだ近い距離で互いを見据える。

 いつまででも、そうしていられたかもしれない。

「そういや、特にプレゼントとか用意してなかったんだけど」

 恥ずかしさを誤魔化して笑うと、ハルも笑った。

「知ってる」

「何か食べたいものはあるか」

「フユ」

「……真剣に聞いたんだけど」

「真剣に答えたんだよ?」

「そうかよ」

 ほんの数瞬、考える。

 なんでもいいか。

 辺りの地図を脳内で開き、適当な店を探す。四ヶ月も暮らしていれば、大抵の通りは頭に入るものだ。男二人ということもあって、外食も多い。

「じゃあ、焼き肉にしよう」

「やだ」

「なんで」

「臭いとか……フユはそういうの、気にしないかもしれないけど」

「気にしないな。ハルは気にするのか?」

「…………いいですよ、気にしないですよ」

 なんでそこで拗ねる。

 よく分からんやつだな。わしゃわしゃと力任せに頭を撫でて、もう一度抱き寄せる。

「そんなんじゃ誤魔化されないから」

「別に、誤魔化すわけじゃねえよ」

 言いながら服の下に手を伸ばすと、ひゃんっ、と女みたいな声が上がる。

「フユ」

「なんだよ」

「……流石に、窓くらい閉めて」

「誰も見てないと思うけど」

「そういう問題じゃないから!」

 でも、暑いぞ。

 まぁいいか。

 離したら離したで寂しそうな顔をするハルを横目に窓とカーテンを閉め、また向き直る。

「やっぱり、ちょっと暑いね」

「はは。汗臭いかもな」

「うぅ……、またそういうこと言う!」

 でも、嫌じゃない。

 ハルはまだ少し気にした様子だったけど、それも最初のうちだけだ。

 何度目かも分からないキスをして、服を脱がす。ハルが手を伸ばして、電気を消した。部屋が薄暗くなる。いつの間にそんな時間になっていたのか。煙草を吸おうとベランダに出た時は、まだまだ明るかったはずだが。

 ハルが目を細める。

 はいはい、お前のことだけ考えるよ、と無言で笑う。

 布団は出さなかった。畳んで部屋の脇に追いやったそのままのところに押し倒す。

「優しくしてね?」

「やだよ」

 何か言おうとした唇を塞ぐ。

 熱い。

 脳が溶けて、頭が空っぽになるようだった。

 何も考えられない。

 夏の夕日が、瞬く間に沈んでいく。

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