町のパン屋さん
街での用事を済ませて日暮れの電車に揺られるままいつしか月もやさしく輝き始めた駅からの帰り道、人通りのまばらな線路沿いをぶらぶら歩んでいると、右手の道路脇にぽつんとひとつ、馴染みのパン屋の看板がちょうど街灯に照らされて目にはいる。
雑踏する繁華街やデパート、大きな駅に隣接するパン屋にくらべてこぢんまりした店の造りで、近くに大学もひとつあるものの、そこの学生を顧客層にしている様子でもなく、どちらかというと駅周辺に昔から住んでいる人向けの品揃えで、街ではなく、町のパン屋さんといった趣が一人暮らしの彼女を落ち着かせる。
今日はもともとパンを買うつもりもなく、アパートに程近いスーパーへ寄るままに今日から三日間くらいの食材を買ってしまおうと思っていたところ、看板が目につけば仕方がないと思うともなく歩みは自然に目的地を変えて、両足はすたすた跳ねるように進んでいった。
木のドアを引くまえにそっと中を覗くと客は誰もいないようなので、ゆっくりとドアを引いた瞬間の鈴の音がおとといあたりに寄ったはずの街のパン屋のそれよりも一層高く長く響くのを聞きながら、店内を改めて見回してみるとやっぱり自分のほか客はひとりもいない。普段寄るときも決まって他の客には出会わないのだが、でもそれはこういうお店の常で、自分がここで一人暮らしを始めてお店を見つけてからずっと潰れずにいるのだから、時間が違えばにぎわっているのだろうと、閉店間際で売り切れや残りの少なくなっている店内を眺めながらときおり思ったりもするのだけれど、今もさらっと見回したところ売り切れがいくつも出ている。
と、仕切りをまたいでひとつながりの調理場にいたのだろう年の頃三十代前半くらい、パンをこねるというには華奢にも見える色白の女性が音を聞きつけてようやく「いらっしゃいませ」
彼女は一年以上も十日とあけずに通ってはいるものの、店の商品についてたまに質問するほかほとんどお店の人と喋ったことがない。ただしそれは別に気兼ねしているわけではなくて、話さなくともよい空気感、ゆったりした無言の共感とでもいうべき雰囲気がお店に漂っているような気がして落ち着くためで、今日もいつものひとときをやはり求めていた。女性はこちらが尋ねさえしなければ、本日のおすすめなどもむやみに示したりはしない。それにもなぜかしら癒やされて、商業的な振る舞いを必要とせずに店が成り立っているようで羨ましくもあった。
回るほどもない店内をひとまわりしたあと、彼女はちょうどひとつずつ残っていたミニサイズのバゲットとカンパーニュをトレイに載せて、ちょっとのあいだ、ほかの商品のまえで前屈みになって、紙に書かれたパンの名前を心でとなえてみてから、いざ立ってレジへ行きトレイを手渡すと、相手はささっと紙袋に分けて包んでくれたのをビニールへ一緒にしてくれる。彼女はその様子を見るともなく見つめながら、会計を済ませ袋を受け取ると、鈴の音を背にして店を出た。
家に着くとすぐに紙袋を開けて、顔を出したカンパーニュをひと口ちぎる。バターを塗ってぱくり、とする頃には、スーパーのことはもう、頭から消えていた。
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