現実逃避
葵視点です。
やっと会えた明日香の父親。
本当にずっと怯え、この部屋に籠っていたんだな。
酷い顔だ。
「な、な……」
「窓ガラスはまた後程、弁償致しますね。それと、お部屋に土足で、失礼致しました」
「い、いや……土足とか、それ以前の問題なんだが……」
「失礼、ガラスは片付けておきます」
こんな危ない物が散らかっていては、何が起こるか分からない。
早々に片付けておかないと。
「スノーフレークというのは、随分無茶をするのですね」
「そうですね、わりと無茶ばかりしています」
「……肩、血が出ていますよ」
「部屋には垂れていないはずですから、ご安心下さい」
「そんな心配はしていませんよ」
「そうでしたか」
窓ガラスの破片で肩を少し切ってしまったとはいえ、その事に気づいて指摘できるとは……
意外と冷静になるのが早いな。
それに、もっと荒れるかと思ったのに……
本当にとても優しい人なんだろう。
「では、お話しましょうか」
「ここまでしていただいて、申し訳ありませんが、あなたとお話する事はありません」
「私にはあります」
「……聞く気はありません」
「まぁそう仰らずに。あなたが情報を知りたくないのだという事は分かっています。その事を無理に話すつもりはありませんから」
「……お帰り下さい」
やっぱり聞く耳もたずか。
とはいえ、無理に情報を話して刺激するのは危険だ。
「シュレーディンガーの猫的発想ですね」
「はい?」
「ご存知ありませんか? 箱に猫が死んでしまう可能性がある仕掛けを作り、その箱の中に猫を入れて箱を閉めるんです。その状態で一定時間が経過した時、箱の中には猫が生きている可能性と、死んでしまっている可能性がありますよね? 箱を開けさえしなければ、その2つの可能性は重ね合わせで存在している事になります」
「……知っていますよ。その思考実験については」
「あなたには知りたくない事がある。それを知りさえしなければ、今のこの現状は、あなたの望まぬ出来事が起きてしまっている世界と、まだ起きていない世界が、重ね合わせで存在している事になりますからね」
「……」
「でも、どれだけ情報を得ないように気を付けていたとしても、情報を箱に閉じ込める事は出来ません。だからあなた自ら箱に入った」
私の話を聞いて、どんどん頭が項垂れていく。
私は真や紅葉のように、人の感情に敏感なわけではないし、伊吹のように、何人もの引きこもりを部屋から出したという実績があるわけじゃない。
だから正直にいうと、黙ってしまったこの人とこれ以上どう会話をするのが正解なのかは分からない。
話してくれない限りは、どうしようもない。
何か興味を持ってくれる話を出来れば……と、考えていると、
「私の行動は、シュレーディンガーの猫とは違いますよ」
と、言ってくれた。
私の話には、ちゃんと興味を持ってくれていたみたいだ。
「どう違うのでしょうか?」
「私が箱に入ったのは、ただの現実逃避だということですよ」
「なるほど?」
自分で自分が現実逃避をしていると分かっているのなら十分だ。
逆に言えば、それだけ説得が難しいという事でもあるけど。
「私は知っているんですよ。箱を開けずとも、猫が既に死んでしまっているという事を。その猫の死体を見たくなくて、逃げているんです」
「それで、いつまで逃げるおつもりですか?」
「……」
「猫が既に死んでしまっているのなら、早く埋葬してあげるべきではありませんか?」
「……」
これだけ冷静な人ならば、こんな事は私に言われずとも分かっているはずだ。
それでもなお現実から目を背け続けるのは、何故なんだろうか?
この人のいう猫の死体というのは、一体何の事なんだろう?
でも、それに向き合ってもらうしかない。
「このまま放っておいては、その死体は腐敗し、周りにも悪影響をもたらしますよ。現に明日香は授業をサボり、部活にも行けなくなった」
「それはっ!」
「そうですね、私が強引にさせた事です。ですが、明日香に確認はしました。授業と部活とあなたの何が一番大切なのかを」
「……」
「あなたにとってはどうですか? 家族が一番ではありませんか? その現実を受け入れない限り、奥様も明日香も、どんどん悪い方へと向かってしまいますよ?」
「一番に決まっているっ! だが、現実を受け入れた時の方が悪くなる事もあるんだ……」
この人がその情報を手に入れてしまった時、それは家族へも悪影響を与える事になるみたいだ。
だからこそ、余計に閉じ籠っているんだな。
でも、閉じ籠っていても何も変わらない。
「私には、あなたが怯える情報がなんなのかは分かりません。だから現実逃避を止めた方が絶対にいい未来になるなんていう、無責任な事は言えません」
「……」
「ですが、現実から逃げていても、受け入れても、どちらも悪い方へと向かってしまうのなら、せめてご家族に事情を話すべきではありませんか? ちゃんと話して、その上でどうするのかを皆で考えましょう? ご家族が無関係というわけではないのですから」
この人は自分を守りたくて、閉じ籠っているわけじゃない。
だからこれだけ冷静でいられるんだ。
ただ自分が現実逃避をしたくて逃げているだけではないのなら、関係者と共に考えなければいけないと思う。
「家族を巻き込みたくは……」
「はっ、何をおかしな事を」
「そうですね、既にこれだけ巻き込んでいるというのに……」
「ご理解が早くて助かります。では、行きましょうか。明日香が待ってますよ」
「……」
「どれだけ悪い結果になるのかは分かりませんが、どんな結果であろうと、我々スノーフレークは依頼されれば解決致しますよ」
「……それなら、先に依頼をいいですか? 私がいなくなってからも、妻と明日香を守って下さい。お願いします」
いなくなる可能性があるのか。
この人の中では、それは確実な未来なのかもしれないけど……
「それを今お約束する事はできませんね。その時々にお客様に合った依頼をお受けするのがスノーフレークですから」
「……あなたは変わった方ですね」
「そうですか?」
「優しくも厳しくもあり、私を諭しているようでバカにもする……そして、実に素直だ」
「かなり強引だというのも付け加えておいて下さい」
「自覚がおありのようで何よりです」
肩を支え、扉のカギを開けさせてもらう。
そして背中を押すようにして、ほぼ無理やりともいえる方法で、閉じ籠っていた箱から出てもらった。
読んでいただきありがとうございます(*^^*)




