吸血鬼と呼ばれた女
私は彼に愛情を抱いていましたが、彼はどうだったのでしょうか。私は彼の理解者であろうと思っていましたし、実際に理解できていたと思っています。私達は似たもの同士だったのです。
彼は死にたがっていました。もう長いこと憂鬱な時を過ごしてきたのです。生きていくためとは言え、元人間が人間を殺すのは辛いものがあったのでしょう。牛や豚を食べるのとは違います。リブステーキを食べるとき、牛や豚の生涯に思いを馳せる人はいないでしょう。彼は血を吸うときにその人の生涯が見えるのだと言っていました。血には、愛し愛された記憶や、悲しむ遺族の顔や、彼に殺されなければあったであろう未来の映像や、そういったいろんなものが混じっているのだそうです。血は決して美味しいものではないのです。唯一血のみが空腹を満たすものであっても、彼にとっては食事そのものが苦痛でしかなかったのです。
吸血鬼というのは、簡単に死ぬことができるのだそうです。ただ陽の光を浴びればいい。それだけで全身が燃え盛って、灰になって消えることができるのだとか。でもその勇気が出ないのだと言っていました。希死念慮を抱いている私には、その気持ちが痛いほどわかりました。死にたい。だけれども死ねないのです。死への恐怖を簡単に拭えないのは、生物に備わっている本能なのでしょうか。
彼はずっと血を断っていました。そうやって餓死できたなら良かったのでしょうけれど、吸血鬼という種族は餓死しないのだそうです。血を吸わない限り、永遠と空腹感に悩まされるのです。いえ、悩まされるなどという生易しいものではないと思います。胃袋を内側から少しずつスプーンで削られているような、そんな感覚かもしれません。
私が彼と出会ったのは、トーマスズキッチンという小さなレストランでした。素材そのものの味を活かすと言えば、聞こえはいいですが、極端に薄味の、つまり人気のないお店です。仕事帰りに自宅近くのその店で食事をするのが私の日課でした。美味しいと感じたことは一度もありません。客が少なく、食事中に他所のテーブルから会話が聞こえてこないところが気に入っていたのです。
その店の一番奥のボックス席に彼はいました。彼はサラダを食べていました。いえ、正確に言えば、食べてはいませんでした。ひたすらフォークでサラダをかき混ぜていたのです。後日、そうやって空腹を紛らすことができないか試していたのだと彼は言っていました。その翌日もそのまた翌日も、ずっと毎日、彼はそうしていましたから、少しは効果があったのかと思いましたが、彼曰く、まったく効果はなかったのだそうです。
彼と私の関係が変化したのは、ジェシカが失恋をした日です。閑古鳥が鳴くトーマスズキッチンのどこに人を雇う余裕や必要があったのか、今でも疑問に思いますが、ジェシカはそこのウェイトレスでした。年の割に物静かでおっとりとしていて、うるさくないので、私は好きでした。しかしその日の彼女は荒れていました。仕事中だと言うのに、ビールを飲んでいて、すでに出来上がった状態にありました。聞こえよがしに別れた恋人の悪口を言っていました。使い物にならない彼女の代わりに、私の注文を訊きにきたのは、店主のトーマスでした。今日だけは勘弁してやってくれと言われたので、私は頷きました。
私が食事を終える頃には、ジェシカは酔いつぶれてしまっていて、カウンター席に突っ伏すようにして寝ていました。会計のためにトーマスを呼ぶと、代金はいらないと言われました。その代り、ジェシカを家まで送ってやって欲しいと頼まれました。トーマスは、彼にも手伝ってやって欲しいと声をかけました。彼のボウルにはサラダがまだ残っていましたが、食べないのはいつものことだったのでしょう。
ジェシカを揺すって起こし、私達は三人で店を出ました。しばらく歩いていると、急にジェシカはうずくまり、そのまま建物の壁に寄りかかって眠ってしまいました。仕方なく、彼がジェシカをおぶいましたが、ジェシカの住むアパートメントの正確な場所がわかりませんでした。店に引き返すことも考えましたが、店よりも私の家のほうが近くにあったため、ひとまずジェシカを私の家で預かることにしたのです。
ジェシカをソファに下ろすと彼はすぐに帰ろうとしました。私はコーヒーを淹れるからと言って、彼を引き止めました。お湯を沸かしていると、ジェシカが目を覚ましたので、私の家だと伝えました。酔い覚ましの水を渡して、再びキッチンに戻ると、ガラスの割れる音が響きました。ジェシカが手を滑らせ、グラスを割ってしまったのです。ごめんなさい。ジェシカはそう言って、破片を拾おうとしました。しかし酔っていたからでしょうか、誤って指を切ってしまいました。やっちゃったと呟いて、ジェシカが切った指先を私に見せようとしたそのとき、私は彼の本性を知りました。
最初は何が起こったのか理解できませんでした。瞬きをした僅かな隙に、彼はジェシカをソファに押し倒していました。そして血の滲む指先を口に含んでいました。かと思うと、今度はジェシカの首筋に唇を這わせていました。いやらしいとは感じませんでした。私は何が起きているのかわからずに、ただ固まっていたのです。すべてを理解したのは、ジェシカから離れた彼の唇が血に塗れているのを見たときです。
吸血鬼は本当にいたのだと知りました。じわじわと恐怖心が芽生えてきました。漠然と死にたい、死にたいと思いながら生きていましたが、いざ死の恐怖に直面すると、やはり尻込みをしてしまうものです。私のことも殺すのかと、彼に訊きました。彼は首を横に振りました。おぞましい光景を今しがた私に見せつけた化物とは思えぬほどに、彼はしょんぼりと萎れていました。
ぽつりぽつりと、彼は食事の苦痛を語りました。罪悪感に抗うか、空腹感を耐え抜くか。彼の生活にはその二つしかありませんでした。灰になって消えてしまいたい、でもそれができそうでできない。そう言って頭を抱える彼の姿に、気づけば私は涙をこぼしていました。彼は私と同じでした。
私は笑わない人生を送っていました。笑顔は子供の頃に捨てたのです。家庭に原因があったとは思っています。でもそれがすべてではないでしょう。不仲な両親の元で育った子供が皆、笑顔を失くすわけではありません。私がおかしいのです。
私の母は小学校の教師をしていました。面倒見がよいと評判の先生でした。私のクラスを受け持ったことはありませんでしたが、学校で見かける母はいつもにこやかにしていました。私はそれを見て、本気で母には双子の姉か妹がいるのではないかと考えたことがありました。そのくらい、家にいるときの母は難しい顔をしていました。
父のせいであったかもしれません。父は定職を持たず、一家の生活費の大半は母が稼いでいました。両親が口喧嘩をしているところを見た記憶はありません。そもそも両親が口を利いているところをあまり見たことがありませんでした。
父は無口な人ではありませんでした。母と話すことはなくても、私にはよくくだらない冗談を言っていました。ひょっとしたら父は家庭内の空気を少しでも和やなものにしたかったのかもしれません。くだらない冗談を発端にして、夫婦仲の修復を試みていたのかもしれません。思い返してもれば、父が私に冗談を言うのは、決まって母も同じ部屋にいるときでした。でも私が父の冗談を笑うと、母は不機嫌になるので、私には眉根ひとつ動かさない癖がつきました。アイリッシュダンサーのように無表情で、時には父に飄々と軽口を返すこともありましたが、父が私の軽口を笑っても、私は笑い返したりはしませんでした。
両親から離れれば、私の人生は変わるのだと信じていました。高校を卒業して、就職して親元を離れました。しかし私の笑うための回路はもう修復不可能なまでにいかれてしまっていたようです。私の人生は、子供の頃、笑えなくなったとき、すでに終わっていたのだと思い知りました。目が覚めなければいいのにと思いながら眠りにつき、朝の光にため息を漏らす。仕事をして帰宅して、目覚めぬように願いながらまた目を閉じる。そんな日々の繰り返しでした。
私は、口元を血で濡らし、陰惨に嘆息する彼の姿に自分を重ねました。しかし同時に希望を覚えたのです。彼の笑顔を見られたなら、私もつられて笑えるのではないかと思ったのです。
私が彼の共犯者になったのは、そうした理由です。罪の共有をすることで、彼の罪の意識の半分を私が背負ってあげられたならと思ったのです。ほんの少し罪悪感が薄れ、身軽になった彼には、ふっと笑える瞬間が訪れるはずです。その横で私も微笑んでいたいと思いました。
彼は嫌がりましたが、私は強引に事を進めました。一人、人気のない暗がりに車を止め、女性が通りかかるのを待ちました。抵抗にあったときのことを考えると、やはりターゲットは女性でした。女性が現れ、いざというときになりました。しかし私はすぐには動けませんでした。無意識に私は体を震わせていたのです。これが罪悪感なのだと思いました。
私は意を決して、車を降り、足早に女性の背中を追いました。そして女性の首筋にスタンガンを押し当てたのです。女性はふにゃりと崩れ落ちました。私は女性を車に押し込めると、廃工場へと走らせました。
彼とどうやって落ち合うか、約束はしていませんでした。電話をかけようにも連絡先を知りません。それでも彼はやってくるものだと信じていました。実際、彼はどうやって知ったのか、少しして廃工場に現れました。
私は女性を車から引きずりおろしました。ううんと呻いて、目を覚ましそうになったので、再び女性にスタンガンを押し当てました。彼は血を吸うことを拒みましたが、私は彼の食欲を掻き立てるために、ナイフで女性の指先を傷つけました。彼は本能に抗えず、女性に飛びかかりました。彼が血を吸っている間、私は彼の背中を撫でていました。生きるために食事をしているだけ、何も悪いことはしていない。そう言って、私は背中を撫で続けました。
遺体の処理は二人で行いました。ジェシカを死なせたとき、持ち去ったジェシカの遺体を彼がどうしたのかは知りません。でもこれからは私も処理に手を貸すべきだと思いました。私は共犯者として、罪悪感を共有しなければならないのです。
遺体は町外れの森に運び、二人で埋めました。わずかでも彼の罪の意識が薄れるようにと思って、私は死者に祈りを捧げました。私に倣って、彼も祈りを捧げました。森が墓地になった瞬間でした。それ故、当たり前のように、以降の死者も森に埋葬してきました。でもそのせいで、すべての遺体が一度に発見されてしまったのですね。埋葬場所を散らしていたら、私の逮捕にはもう少し時間を要したでしょうか。もう少し時間があったなら、彼と私は笑えたでしょうか。
私は彼と約束していました。法の裁きによって死ぬよりも、彼の一部となって死にたいと。だから私が逮捕されたなら、私の血を吸いに来て欲しいと。彼は頷いてくれましたが、いつまで経っても彼は私の目の前に現れてくれません。
結局、私は彼を余計に苦しめていただけだったのでしょうね。




