散歩
古町沙苗の数少ない趣味のひとつ。
雨上がりのコンクリート道から香る雨の匂いを堪能しながら、帰路に着く学生やサラリーマンと思しき人々とすれ違う。大きな流れに逆らっているようで、どこか言い知れない高揚感を覚える。
暮れには少しだけ早く、しかし世界の大半は薄い青に染まった時間。雲が疎らに漂う空は未だ鮮明な青をお覗かせてはいるが、それも危うい。あと少しも経てばすっかり夜の装いに代わり映えてしまうに違いない。
横を抜けて行く人々と沙苗との歩速は気にして見なければ分からない程度ではあるが、確実に差が存在する。家路を急ぐ、などの言葉が生まれる程だ。どんな事情を抱えた人間であったとしても、そこに自分の居場所が少なからず担保されている以上、誰の物でもない外の世界に居るよりかは、幾分かそこへ至りたいと気持ちが急くのだろう。
駅前の通りを越し、駅裏の住宅街方面へと向かう。
戸建ての多いこちら側を行く人々は、先ほどの道に比べたらずいぶんと少ない。スーツ姿の中年男性か、近所をぶらつく程度の油断し切った服装で歩く中年女性が殆ど。
時折に見かける犬らに吠えられたり、人懐っこそうな表情で尻尾を振られながらして歩き進めると、家々が立ち並ぶ端々に見えていた坂になっている脇道の何れかに沙苗は進路を変える。ここらを歩き慣れている人間であれば何という事もない話ではあるものの、初めてこの道を歩く人間にとっては、ここらの住宅街の入り組み方はさながら迷路そのものであろう。
緩やかながらもそれなりの長さを誇る坂を下ると、世界はすっかりと夜一色に支配されていた。陽が陰って間もないはずが、世界で一番に明るい光源を失ってしまった世界はとても肌寒く思えてしまう。沙苗はいつも着ているネズミ色のパーカーの袖を戻し、対面の坂を上り始めた。
青が群青に近しい色味を醸し出した坂道は下って来た所よりも僅かに険しく、視線を上向けなければその先が良く見えない。何を思って歩き進める訳でもなく、沙苗はただひたすらにその先を目指す。
幾らか上ると、坂の終わりを感じ始めた。
暗がりに浮かび上がる妖艶な満月は、家来の星々を引き連れて空を独占しようと試みる。が、捻くれ者の雲たちがそれを拒むと言わんばかりに彼ら彼女らの前に漂う。そんな光景が可笑しく思え、目的地を目前にした沙苗は小さく笑った。
沙苗の目的地でもある小さな公園は、戸建ての家々と狭い道路を挟むようにして囲われている。黄色い金属製の柵が入り口に陣取り、来る者を選別しているようにも見える。中に在る遊具と呼べるような物はブランコと小規模な砂場程度しか存在していない。
芝生とも呼べないような雑多に草たちが好き放題に集会を開いている横を過ぎ、沙苗はブランコへと赴く。まるでそこが大層に神聖な場所であるかのように、ゆっくりと粛々とした足取りで。
初めは意地の悪そうに見えた月も、ブランコに揺られながら眺め直して見ると、その優し気に気付かされる。主張が強かったのではなく、自ら目立とうとしない彼女を太陽が陰ながら照らし出していたのだ。星々はそんな引っ込み思案の彼女を応援しようと光を放っていたのである。そう思うと、沙苗は少しだけ涙ぐむ。
肩から下げていたバッグからスマートフォンを取り出すと、雲や星たちに祝福されて嬉しそうに笑っている月の姿を写真に撮り、その画像をSNSアプリを使ってとある友人へ送った。
――ごめんね。