第9話
時は少し遡り、許龍峨が草むらに身を潜めたところから話を続ける事にする。
張載風の有無を言わせぬ真剣な様子に、しばらくは大人しく草むらに隠れて様子を伺っていた許龍峨だったが、戯れている二人の姿から次第に目を逸らすようになった。
辺りに何か面白そうなものでもないかと見渡してみると、先ほど張載風が放り投げた饅頭が道端に転がっている。詳しい理由も告げずに処分されてしまい、随分と勿体無い事をすると思っていた許龍峨であったが、さすがに今更拾って食べる訳にもいかない。
そうこうしている間にも、どこからか集まってきた野犬が三匹、饅頭に群がり始めた。先ほど店で見かけた野良犬の姿もそこにあった。
野良犬は野犬と比べると一回り程小さく、すっかり痩せこけていた。元々は白かったはずの毛並みも泥にまみれて薄汚れており、随分とみすぼらしい姿をしている。近づいてくる野犬に向かってしきりに吠えているのは、久しぶりに手に入れた食事を横取りされないように守るためなのだろう。
対する野犬の方はというと、どれも見るからに獰猛そうな顔つきをしており、とても野良犬の敵いそうな相手ではない。案の定、纏わりつく邪魔物を簡単に突き飛ばすや、饅頭を貪り始めた。
それでもしつこく吠え立ててくる野良犬の様子に、しばらくの間は無視を決めていた様子の野犬であったが、とうとう業を煮やして三匹で一斉に襲い掛かり始めた。
草むらからその一部始終を眺めていた許龍峨は、野良犬があまりにも不憫に思えてしかたがなかった。そのため、近くにあった小石を拾い集めると、それで野犬を追っ払おうと考えた。
許龍峨が小石を手にしたその時、彼のすぐ側で誰かの呼びかける声がした。
「小僧、その石を使って何をやらかすつもりだ。まさかそれで野犬を追っ払おうなんて考えているんじゃないだろうな?」
声のした方を見てみると、埃や泥にまみれた布の塊がこちらを向いていた。髪の毛は油じみて絡まりあい、黒光りしている。顔一面を覆っている髭と濃い眉に隠れて表情は分からなかったが、眼光鋭い瞳が許龍峨の方を見つめていた。
男は右手で頭を支えた姿勢のまま、なおも許龍峨に向かって話し続けた。
「お前さんが石を投げるのは勝手だが、そのせいで野犬の群れに襲われたらかなわん。余計な事はするな。」
「あんな小さな犬に三匹で襲い掛かるなんて、卑怯だとは思いませんか?」
「誰だって食事や昼寝の邪魔をされたら腹が立つだろう。この辺りじゃよくある光景だ、ほっとけ。」
「しかし・・・」
「いいか、小僧。あの野良犬も野犬も、真剣に生き延びようとしている事に変わりは無い。お前さんが義憤を覚えて野良犬を助けるのは勝手だ。しかし、お前さんの投げた石で野犬が命を落とす可能性もある。お前さんが野良犬に代わって野犬に食われてやるっていうんだったら話は別だが、そんなつもりはないんだろう?だったら余計な手出しはするな。あの野良犬も自分自身の力でこの状況を乗り越えられないようなら、遅かれ早かれどこかで死ぬ。それだけだ。」
「随分と冷たい言い方ですね。」
「どちらか一方に肩入れするっていうのは、野に生きている物に対して礼儀を欠く行為だと思わんか?お前さんの正義と奴らの正義は違う。まあ、最終的には強い方が生き残る。それだけの事さ。」
そう言うと、浮浪者は寝返りをうった。
「例えあなたの言われることが真実であっても、私は自分の正義を曲げてまで見過ごす事は出来ません。あなたには迷惑がかからないようにします。それなら構いませんね。」
「せいぜい野犬の群れに食い殺されんよう、気をつけろよ。」
許龍峨の背に向かって浮浪者の激励の声が飛ぶのだったが、やはり手助けするつもりはないらしい。許龍峨は持てる限りの石を拾い集めると、単身野犬の群れに向かって投げつけるのだった。
石礫を浴びせられた野犬の群れは、突然の乱入者である許龍峨の方を振り返ると、唸り声を上げ始めた。許龍峨はこれまで、街中をうろついている野良犬を見る機会はあったのだが、こうして野生の犬と対面するのは初めての経験だった。しかも三匹を相手に戦わなければならない。
凶暴性を宿した眼は決して獲物から逸らされることはなく、開かれた口元から覗く牙は容易く肉を切り裂く鋭さを持ち、激しい息遣いは相手に飛び掛る機会を伺っている。石礫の何個かは野犬の群れに命中したのだが、致命的な傷を負わすには至っておらず、むしろ彼らの憎悪を高めるだけの効果しかなかったようだ。
思わぬ攻撃に警戒を強めた様子の野犬の群れは、許龍峨を取り囲むような位置に移動し始めた。そして、徐々にこちらとの距離を縮めてくる。
やがて、その中の一匹が許龍峨に向かって飛び掛ってきた。その瞬間、許龍峨の脳裏に先ほどの浮浪者の言葉が浮かんできた。こんな所で死にたくはなかったが、三匹の野犬を相手に自分が勝てる見込みは少なかった。用意していた小石も、残りは僅かとなっていた。他に方法が無い許龍峨は、ただひたすら野犬の群れに向かって石礫を投げ続けていた。
気がつくと、許龍峨の手前数歩の場所に先ほどの野犬が倒れていた。他の二匹に至っては、先ほどいた場所から一歩も動いてもいない様子だった。
「小僧、命拾いしたな。まったくもってお前さんは運がいい。まあ、野に生きていくからには力だけじゃなくて、運の良さっていうのも重要なんだが。」
草むらから先ほどの浮浪者が現れると、許龍峨に向かってそう言った。
「あなたが助けてくれたんですか。ありがとうございます。」
「お礼に飯でもご馳走しろ!と言いたいところだが、そうじゃない。野犬の様子をよく見てみろ。」
三匹の様子は、いずれも様子がおかしかった。四肢が硬直したような状態となっており、僅かではあったが痙攣している物もいた。
「まるで毒にでも当たったかのような・・・・・・。」
「さしずめ、そこにある饅頭に仕込まれていたんだろうよ。お前さんの連れの判断は的確だった訳だ。」
「・・・そうだったんですね。じゃあ、野良犬は野犬のおかげで助かったのですね。」
「そうでもないんじゃないか?一歩間違えれば間違いなく野犬の餌食になっていた訳だし、単に運が良かったんだろうな。それよりも、気をつけないと今度はこっちが襲われるぞ。」
浮浪者に言われて野良犬の方を見ると、許龍峨に向けて唸り声を上げているのだった。
「まあ、せっかく恩義をかけてやっても所詮は獣だな。こいつにとってみれば野犬からお前さんに敵が変わっただけだ。さて、どうする?」
尋ねられた許龍峨は、慌てることなく懐から干し肉を取り出すと、野良犬に差し出した。野良犬は干し肉には見向きもせずに、許龍峨の右手に噛み付いて放さなかった。傷口から真っ赤な血が滴り落ちて地面を濡らしていく。
「何をやっているんだ、お前。野良犬が人に懐くとでも思っているのか?とんだ甘ちゃんだな。蹴っ飛ばすなり、棒で叩くなりして追っ払うのが常套手段だろうが。」
そう言うと、浮浪者が野良犬に近づいて蹴飛ばそうとする。
「待ってください。しばらく、このまま様子を見させてください。」
両者の睨み合いはしばらく続いていた。しかし、やがて野良犬は許龍峨の右手から離れると、自らがつけた傷口を舌で舐め始めるのだった。それが終わると、許龍峨の差し出した干し肉を美味しそうに食べ始めた。
「野良犬を手懐けちまうとは大した奴だな。どれ、その右手を貸してみろ。傷の具合を見てやる。」
浮浪者はそう言うと、垢にまみれた手を差し出してきた。浮浪者の手は元の肌の色が分からないくらい真っ黒になっており、どのくらいの期間風呂に入っていないか想像もつかなかった。それでも、許龍峨は戸惑う事無く浮浪者に自らの右手を預けた。
「傷の具合はどうですかね。やっぱり医者に見てもらった方が良いのでしょうか。」
「これくらいなら大した傷ではないだろう。これでも塗っておけ。」
浮浪者はそういうと、何やら塗り薬を取り出し、許龍峨に渡した。許龍峨は言われるままにその薬を傷口に塗りこんだ。
「私の名前は許龍峨といいます。あなたの事は何とお呼びしたら良いでしょうか。」
「俺の名前は・・・そうだな、“風来坊”とでも呼んでおいてくれ。」
「そうですか。それでは風来坊さん、どうもありがとうございました。」
そう言うと、許龍峨は風来坊に向けて深々と頭を下げるのだった。