第4話
次の日の朝早く、話し声で目を覚ました許龍峨。こんなに朝早くから客が来るなんて珍しい出来事だと思いながらも、一体誰だろうと覗いてみると、部屋の中には許尤施と張載風の姿があった。二人は机を挟んで向かい合って座っており、それぞれの前にはお茶が置いてあった。さすがの張載風も、今日はまだ酒を飲んではいないようだった。
許龍峨に気がついた二人は会話を中断すると、こちらを向いた。
「やあ、おはよう。どうやら起こしてしまったようだね。」
「悪いな、龍峨。朝から邪魔してしまって。」
「父上、おはようございます。載風兄さんも。今日は早いですね。一体どうしたんです?」
「これから錦香に向けて出発しようと思ってな、尤施殿に出立の挨拶に来たわけだ。」
「錦香ですか。そう言えば管東洛殿も錦香に向かうって言っていましたが、一体どんなところなのですか?」
許龍峨のこの発言に、許尤施と張載風がお互いに顔を見合わせる。
「何だ、龍峨。お前、錦香に行った事がないのか?」
そう聞いてきたのは、張載風であった。
「はい。産まれてから、栄邑の街を離れたことがないので・・・。」
「そうか、それじゃあお前もついてくるか?一人、荷物持ちが欲しいと思っていたんだ。」「それはいいね。是非連れて行ってもらいなさい、龍峨。」
許尤施も異存はないようだ。
「しかし、父上。畑仕事とか家の事とか、色々ありますし・・・。」
「そう言って、一晩中山を彷徨っていて家を留守にしていたのは誰だったかな?それに、私の事は気にしなくてもいいよ。外の世界を見て周るのもいい経験になるだろうし、載風が一緒なら安心だ。」
「よし、そうと決まったら祝杯をあげるぞ。龍峨、ひと足先に酒家に行って場所を取っておいてくれ。頼んだぞ!」
「・・・“嫌です”って選択肢はないんですよね、きっと。」
「そこまで分かっているなら、ほら早く行かんかい!」
張載風に追い立てられるようにして家を飛び出した許龍峨であったが、内心では初めて栄邑の街の外に出られる事が嬉しくて仕方がなかった。
「・・・こんな感じで良かったんですかね。」
「申し訳ないね、載風。君まで巻き込んでしまって。」
「近いうちに行こうと思っていましたから構いませんよ。それにしても一体どうしたんです、急に。」
「ちょっと気になる事があってね。私の思い過ごしならいいんだが・・・。」
「例の白凰双龍佩ですか。俺としては、そんな古臭い玉佩よりも孟家の方が気になりますがね。」
「孟宗徳は滅多な事では表に出てこないから大丈夫だよ。」
「そんなもんですかね。」
「ところで載風。これは少ないんだが、旅の路銀にでも使ってくれないか。こんな時代だからね、何かと必要になる事もあるだろう。」
そう言うと、部屋の奥から布に包まれた金子を取り出して張載風に手渡そうとした。
「尤施殿、私の通り名はご存知ですよね。それに、こう見えても金には困っていませんよ。」
「・・・そうだったね。よし、龍峨も待っていることだろうから、我々もそろそろ祝杯を挙げに行こうか!今日はしっかり注がせてもらうよ。」
「それじゃあ行きましょうか!」
こうして急遽、栄邑の酒家にて盛大な送別会が催される事となった。朝早くから叩き起こされた酒家の亭主は一瞬不機嫌な顔をしていたのであるが、客が「栄邑の酒徒」と知るや、一変して愛想良くなるのであった。もちろん、張載風の気前の良さを知っていたからである。
「亭主、今日はここにいる許龍峨の門出の日だからな、盛大に頼むぞ。」
この一言に亭主の眼の色が変わったのは言うまでもない。店の奥からは次から次へと酒と料理が運ばれて、三人の目の前の机をみるみる埋め尽くしていくのだった。
「龍峨、今日はお前のお祝いだからな、好きなものを頼んで良いぞ。これから先は長旅になる。ここでしっかり栄養をつけておけよ。」
「そうだよ、龍峨。遠慮はいらないから今日はお前の欲しいものを頼みなさい。錦香に着くまでは色々と大変だからね。」
「ありがとう、載風兄さん、父上。」
「それにしても魚料理がないな。おい亭主、魚は無いのか?」
「旦那、申し訳ありません。今朝はまだ、仕入れてきておりませんで・・・。」
「じゃあ悪いんだが、これで買って来てくれないか。釣りはお前にやるから、出来るだけ生きの良いのを見繕ってきてくれ。」
「分かりました。すぐに戻ってきますんで、帰らず待っていてくださいよ。」
喜び勇んで店を後にした亭主。篭を手にしばらく川沿いに歩いていると、橋の袂で老人が釣りをしているのに出会った。白い着物に瓢箪を腰にぶら提げた老人だったが、この辺りでは見かけない顔だった。
(この爺さんから買ったほうが安く上がりそうだな。)
そう考えた亭主は、老人に声を掛けてみることにした。
「爺さん。何か釣った魚があれば、少し分けてもらえないかな。急なお客でね。」
「嫌じゃ。儂は自分が気に入った相手にしか魚をやらん主義でな。お主にやるわけにはいかん。」
そう言って、腰にぶら提げていた瓢箪に口を付けて飲み始めるのだった。
亭主が老人の側に置いてあった篭を覗いてみると、中にはたくさんの魚が入っていた。
「こんなにあっても一人じゃ食べきれないだろ。お礼ははずむから分けてくれないか?」
「儂の釣った魚をどうしようと儂の勝手じゃ。魚が欲しけりゃ自分で釣ればいい。」
「頼むよ、爺さん。大事な客なんだ。栄邑酒徒の張載風だろ。それに許尤施と龍峨親子。」
「おい、亭主。今、龍峨と言ったか。」
「そうだよ、“許龍峨”。許尤施の息子さ。今、うちの店にいるよ。」
「・・・そうか。」
それだけ言うと、老人は自らの篭に入った魚を亭主の篭に移し変えてこう言った。
「この鯉だけは儂に残しておいてくれ。それ以外はくれてやる。お代もいらん。」
老人の篭の中には見事な鯉が一匹残っていた。
(まあ、これだけあれば十分だろう。釣ったばかりだから生きも良いし、儲けたわい。)
「助かったよ、爺さん。今度、うちの店に来るときは声をかけてくれ。何か御馳走するからさ。」
「用が済んだのなら、さっさと何処かへ行け。うるさくて魚が逃げるわ。」
魚が手に入った亭主は、喜び勇んで酒家に戻るのだった。