第2話
牡鹿を追いかけていた時は山の中を何時間も歩いたように思っていたのだが、管東洛の言われたとおり進んでいくと、しばらく行かないうちに山道に出た。後は道伝いに歩いて行けば栄邑に到着するはずである。こうしてみると、牡鹿の跡をつけて森の中を彷徨っていただけで、実際は街からそれ程離れていなかったのかもしれない。そう思い、許龍峨がしばらく歩いていると、向こうから誰かが馬に乗って駆けてくるのが見えた。地面を伝わってくる音からすると随分先を急いでいる様子である。許龍峨は、進行の妨げにならぬよう脇へと避けた。
砂塵を舞わせながら、目の前を黒毛の駿馬が駆け抜けていった。馬上に目をやると、白い着物を着た少女の姿があった。一瞬の出来事ではあったが、許龍峨の見たところ、少女は自分と同じくらいの年頃のようだった。
「早く帰らないとみんな心配しているだろうな。それにしても、一体誰だろう?こんなに急いで。」
そんな疑問を残したまま、馬と少女は遥か彼方へと遠ざかり、既に姿を消してしまった。しかし余程慌てていたのだろう、少女が通り過ぎた跡には白い佩玉(※玉製の装身具)が残されていた。中央の鳳凰を囲むように二匹の龍の装飾が施された見事なつくりであったが、長らく手入れをされていなかったのか、すっかり薄汚れて本来の輝きは失われていた。それに加え、落ちた衝撃のためだろうか、所々欠け落ちた箇所があり、既に佩玉としての価値は無くなっていた。
「この佩玉を持っていれば、彼女の素性も分かるかもしれない・・・。」
そう想い、佩玉を手に取ると大切に懐にしまうのだった。
しばらくして、少女が現れたのと同じ方角から別の馬の蹄の音が聞こえてきた。まだ姿が見えぬうちから身体に地響きが伝わってくる。集団で馬を駆けているのだろう、ここからでも濛々と砂埃が巻き上がっているのが目に入った。余計なまき添いを食わぬようにと、山道から外れて木の陰に身を潜めて様子を伺う。
やがて騎馬の一団が現れた。先頭を走っていた男が、許龍峨の目の前まで来ると手を上げる。それを合図に後続の者も馬を止める。全員が革の鎧に身を包み、十分に統制が取れているところから見ても、ただの山賊や物盗りの類ではなさそうだ。その中から一人の男が進み出ると、地面に屈みこんで蹄の跡を確認し始めた。
「これは最近つけられた跡のようです。乗り手が少女である事も考え合わせると、まず間違いないかと。もっとも、あの名馬不影が相手ですから追いつけるかどうか・・・。」
「くそっ、子供と思って甘く見ておったわ。あの白凰双龍佩が、誰かの手に渡ったら・・・。」
「誰が聞いておるか分からんのに、余計な無駄口は叩くな!この事が外に漏れてみろ。我々もタダでは済まんのだぞ。おい、いつまでそうやっている。」
「・・・・・・はっ、申し訳ありません。」
「不影といえども、操るのは子供。まだそう遠くまではいっておるまい。先を急ぐぞ!」
そう言うと、再び馬を走らせて立ち去るのであった。
許龍峨は一団が走り去ったのを確認すると、ほっと胸を撫で下ろすのだった。一瞬ではあったが、地面に屈みこんでいた男がこちらに視線を送ったような気がしたからだ。先ほど拾った佩玉を懐から取り出す。
「もしかして、これが白凰双龍佩なんだろうか。どうしたものか・・・。」
山道には無数の蹄の跡と、何かを足で消したような跡だけが残されていた。
栄邑は街とは名ばかりの小さな集落であった。中央を流れる川に沿って家屋が立ち並び、住民の多くは農業を生業としていた。許龍峨の父である許尤施は、若くして学問を修め官吏の職についていたのだが、今は郷里に戻り畑を耕して暮らしていた。
「龍峨、昨日はどうしたんだい?心配したよ。」
「遅くなってすみません、父上。森の中で迷っていたものですから。」
「しばらくそこで待っていてくれないか。もう少しで終わるから。」
許尤施は畑仕事を一段落させると、こちらにやって来る。許龍峨は昨日からの出来事を話して聞かせるのであった。
「森の中で管東洛と名乗る方と出会い、お世話になりました。」
「ほう、それは珍しい方と出会えたね。良かったじゃないか。」
「父上もご存知の方なのですか?」
「実際にお会いした事はないけれど、凄腕の占師と評判の人物だよ。先王が崩御されるのを予言したって事で華都を追われたというもっぱらの噂だけどね。」
「その方に私の将来について指摘されたのです。ただ、それが少し気になる内容だったのですが・・・。」
「何を言われたのかは、この際聞かないでおこうか。お前の将来にどんな事が待っているのか、知らないほうが私も楽しみだしね。」
そう言って笑う許尤施だった。管東洛との約束もあったので、許龍峨もそれ以上口にはしなかった。
「ところで父上、これを見ていただいて良いですか。」
懐から佩玉を取り出すと、許尤施に見せる。
「白凰双龍佩と呼ぶらしいのですが、何かご存知ですか?」
許龍峨から佩玉を受け取ると、手にとって眺めるのだった。
「これは見事な装飾だね。しかし、白凰双龍佩というのは今まで聞いた事がないな。一体何処で手に入れたんだい?」
「山道で見知らぬ少女が落として行ったんです。不影と呼ばれる黒い馬に乗っていました。」
「そうか。馬の事なら私よりも載風の方が詳しいだろうから、彼に聞いてみるといいかもしれないよ。ちょうど今、街に戻ってきているから。」
「分かりました。それじゃあ、ちょっと挨拶してきます。夕飯までには戻りますので。」
そう言って、許尤施と分かれて載風と呼ばれる人物を探し始める許龍峨であった。
栄邑の街を流れる川沿いに、街で唯一の酒家があった。店の中には陽がまだ高いというのに、大勢の客が席に座っている。その中で一人、弁舌を振るっている人物がいた。
「今、華都で持ちきりの話題が何かご存知か?あの天眼通の管東洛が、自らの予言が原因で都を追われたって話なのだが。」
「それがどうした。管東洛が先王の死を予言したって話だろ。早耳の者なら既に聞き知っておるわ。さすがの天眼通でも、まさか自分の発言で都を追われる事になろうとは思いもよらなかっただろうよ。」
「話題になっているのは彼が追放された事ではないぞ!そんな話をわざわざするために皆に集まってもらった訳じゃない。話題になっているのは、彼が予言したその内容の方だというのだ。“微王が亡くなられる”ではなく、“微王が殺される”と予言したそうだ。」
「それじゃあ何か、微王は誰かに暗殺されたって事か?」
「いや、なに。あくまでも噂に過ぎんが・・・。そうなってくると色々と事情が複雑になってくるって訳だ。こうなると世も末だな。」
「お話中のところすみません、許龍峨です。」
「おお龍峨、久しぶりだな。元気にしていたか?しかし、よくここが分かったな。」
「えぇ。栄邑の酒徒と呼ばれる張載風を探すのに、ここより他にどこを探すと言うのです。」
先ほどから酒家で弁舌を振るっていたこの人物。これこそ許龍峨が探していた張載風その人だった。