第16話
空に星が瞬いては消えていくように、月が形を変えながら夜空を巡るように、穆陽過の屋敷での一夜は、そうと気付かない間にも、確実に過ぎ去っていくのだった。それが証拠に、皿に盛られていた筈の食事は、少しずつではあっても確実に姿を消しており、甕に満たされていた筈の酒に至っては、まるで底に穴でも開いていたのではないかと疑いたくなるほどに、速やかに無くなっていた。部屋に残されていくのは、何も乗っていない空の皿と空っぽになった酒甕だけであった。
夜も次第に更けていこうというのに、張載風の勢いはなおも衰えるところを知らなかった。その向かいでは、潘蓮玉がほんのりと頬を赤らめていたが、その振る舞いには常と異なるところは見られなかったので、まだ幾分余力を残していると思われる。その中でただ一人、穆陽過だけが下戸ではないにしても酒量において遠く二人に及ばず、並々と酒が注がれたままの杯はいつまでたっても減る気配を見せなかった。
「申し訳ありませんが、今宵は少々飲みすぎたようです。構わずそのまま続けて下さい。」
やおら穆陽過は席を立つと、二人に向って挨拶をした。
「墨郎、何処に行くのだ?」
「しばらく外の風に当たって、酔いを醒ましてきます。何かあれば下男に命じてください。」
酔いの回った身体を引き摺って屋敷の外に出た穆陽過。熱った身体に吹き付けてくる夜風が心地よく感じられ、遠方に聳える九陽楼を何とはなしに眺めていた。張載風は許龍峨を救いに単身、九陽楼に乗り込むことだろう。管東洛が言ったとおり、その生死は分からない。もしかしたら今宵、この時が永久の別れとなるのかもしれない。そう考えると、張載風をこのまま見送って良いのだろうかと悩まないでもなかった。
「お主、何をそんなに悲しんでおるのじゃ。何をそんなに思い悩んでおる。」
暗がりの中から誰とも知れぬ声が聞こえたかと思うと、程なくして月明かりが一人の老人の姿を映し出した。この辺りでは見かけない顔だったが、穆陽過の視線の先にある九陽楼が悩みの原因であると勘違いした老人は、こう付け加えるのだった。
「九陽楼から望む月は素晴らしいと聞き及んでいるが、儂に言わせればあそこは少しばかり騒々しいわい。九陽楼に登ったところで、月に手が届く訳でもなし、眼下に広がっているのは高い城壁に囲まれた代わり映えのしない街並みばかりじゃ。それよりも、春の夜に相応しく、散り行く花を愛でながら月見酒とするが上等と思うが、どうじゃ?」
草むらに腰を下ろした老人の傍らには酒甕があり、手には杯を手にしていた。
「悲しむ事があるとすれば、満開の花びらがこうして儚く散っていく様を、ただ黙って見ているだけしかないという事でしょうね。思い悩む事があるとすれば、それを惜しんでいる自分がありながらも、その姿を留めておく事が出来ないという事でしょうね。」
老人の側に腰を下ろして、穆陽過がそう答える。
「花が咲くのも散っていくのも、全ては己の為であり、誰か他の者を喜ばせるためではない。それが証拠に、誰に頼まれた訳でもないのに、花はこうして毎年咲いては散っていくではないか。それが“自然”の有様であれば、何を悲しみ、思い悩む事があろうか。」
「ご老人にあっては、この世に悲しむ事や思い悩む事などないと言われるのか?」
穆陽過の問いに、老人は立ち上がって答えた。
「悲しむ事があるとすれば、こんな夜に月と影を相手にただ独り酒を飲んでいる事くらいじゃ。思い悩む事があるとすれば、月は酒を飲みはせんし、影は儂に従うだけという事くらいじゃ。」
そう言って老人は、花びらを浮かべたままの杯を干す。
「それでも、春が過ぎ去っていくその時までは、こうして酒を飲んで楽しむ事にするわい。儂が歌えば月は夜空に舞うじゃろうし、儂が舞えば影は地に踊るじゃろうからの。」
妙な事を言う老人だとは思ったのだが、一方でその言動に些かの興味を覚えた穆陽過は、しばらくこの老人の相手をする事にしたのだった。張載風と潘蓮玉の二人については放っておいても構いはしないにしても、こんな見ず知らずの老人の相手をするなどまったくもって酔狂な話である。穆陽過自身はその事を、酒のせいにしたようだった。
「私で良ければお相手いたしましょう。歌や踊りは出来ませんが・・・話し相手くらいにはなれるでしょうから。」
「それならば、お主に尋ねよう。夜空に輝くあの月と暁の都“華都”ではどちらが遠いと思われる?」
普通であればもちろん、“夜空に輝くあの月の方が遠いでしょう”と答えるところである。何故なら、華都を訪れた者はいても、月を訪れた者などいないからだ。しかし、この老人をからかってやろうと考えた穆陽過は、こう答える事にしたのだった。
「華都の方が遠いでしょうね。月は何処にいても見る事が出来ますが、華都はここからでは見えませんからね。」
穆陽過の答えを聞いて、老人は大いに満足したように頷くのだった。
「そうとも、そうとも。月など華都に行く事を思えば近いものだ。儂などはこれまでに何度も足を運んだ事がある。」
思いもかけぬ老人の答えを意外に思った穆陽過であったが、相手は酔っ払いだと思って話を合わせることにした。
「そうですか。聞くところによると月には“月宮”と呼ばれる場所があり、不老不死の薬を持った仙女が住まうとか。是非ともお目にかかりたいものですな。」
「そんな事など容易い話だ。」
老人はそう言うと、懐から紙と筆を取り出して橋の画を描き始めた。そして、画が完成するや息を吹きかけて地面に放ると、紙の中から月まで伸びる銀色の架け橋が現れるのだった。突然の出来事に穆陽過が訳も分からず驚いているのを尻目に、老人はまるで自分の後について来いと言わんばかりにその橋を昇っていくので、穆陽過もそれに従って橋を昇っていく事にした。
しばらく行くと、鮮やかな光と共に寒気が身に染みてきた。やがて、目の前に銀色の建物が見え始めると、前を進んでいた老人が突如立ち止まり、穆陽過の方を向いてこう告げるのだった。
「あれが月宮じゃ。あの中にお主が言っておった仙女が住んでおる。しかし、仙女は人に姿を見られるのを極端に嫌っておるから、ここから先は一切口を利いてはならぬ。よいな。」
そう老人に念押しされるので、穆陽過は同意の印に頷いて見せるのだった。
老人に導かれるままに月宮に赴くと、中では酒宴の最中で、白い絹の着物を身に纏った数百人の仙女が、これまでに耳にした事がないような音楽に合わせて舞い踊っている姿が目に入った。彼女達はいずれも目を見張るような美人揃いであったが、一段高い場所からその舞を眺めている一人の女性の美しさの前には、それすらも霞んで見えるほどだった。穆陽過が内心、彼女こそが月に住まうと伝え聞く仙女であろうと思い、その美しさに思わず溜息を吐いた途端、それまで聞こえていた音楽が止んだかと思うと、辺りが急に暗くなり、穆陽過の足元が崩れ落ちた。
「墨郎、おい墨郎。こんな所で寝ていたら風邪引くぞ。いい加減に目を覚ませ。」
穆陽過が目を開けると、側には張載風と潘蓮玉の姿があった。
「ここは一体・・・。月宮は?月の仙女は?」
「何を寝惚けた事を言っているんだ。ここはお前の屋敷の庭だぞ。いつから月宮になったんだ?」
「そうだよ。あんたの帰りが遅いんで、気になって様子を見に来たんじゃないか。」
そう言われて穆陽過が辺りを見渡してみると、確かに自分の屋敷の庭の中で、空には未だに月が出ていた。
「私は夜風に当たるつもりで外に出て、それから見知らぬ老人に会って・・・・。」
今までの記憶を辿りながら、穆陽過がこれまでの出来事を二人に語って聞かせるのだが、二人とも笑っているだけだった。
「大方、酔っ払って夢でも見たんじゃないのか?俺達が来た時には老人なんていなかったぞ。」
「そうだよ、春とはいえ外で寝るにはまだ早いよ。風邪でもひいたらどうするんだい?」
「それもそうですね。今日は普段とは違って美女にお目にかかったせいで、そんな夢を見たのでしょう。それでは改めて、屋敷の中で飲みなおすとしましょうか。」
張載風と潘蓮玉を連れて屋敷へと戻る穆陽過であったが、何処からか聞こえる老人の笑い声を耳にしたような気がして、一瞬だけ後ろを振り返るのだった。その瞬間、暗闇に溶けて消えていく銀色の架け橋を見たように思ったが、月光に照らされた庭にはそのような物など何も残されてはおらず、全ては酒に酔った挙句の幻であったかと、自分自身でもそう考えるのだった。