第13話
黄昏時に特有の薄暗さが辺りを包み込み始めるようになると、城壁の上には等間隔に篝火が焚かれ始めた。錦香の街は四方を堅牢な城壁に囲まれており、街それ自体が一つの要塞をなしている。街に出入りするための城門は、数えて東西南北の四門あり、それぞれに呼び名がついていた。張載風と潘蓮玉が立っているのはちょうど北門に当たっており、“黒武門”と呼ばれていた。
「さて、黒武門に到着した事だし、早いところ兄さんの知り合いっていうのに会いに行こうじゃないか。この街にいるんだろ?一体、何処に住んでいるんだい。」
黒武門を目の前にするや否や、潘蓮玉は張載風の方を向いてそう詰め寄った。それには答えずに、張載風は潘蓮玉を残して黒武門とは異なる方向へと足を向ける。
「ちょいと、一体何処に向うつもりだい。黒武門はこっちだよ。」
潘蓮玉の疑問に、張載風は振り返ってこう答えるだけだった。
「城壁沿いに少しばかり行った場所に、馴染みの宿屋があるんだ。今夜はそこに泊まる事にする。なに、錦香の宿屋に引けを取らないくらいにしっかりした場所だから、安心していいぞ。どっちにしろ、今日はもう随分と遅いから訪れるのは明日だな。」
「冗談じゃないよ。錦香の街に入れば宿屋なんて幾らでもあるじゃないか。幾ら馴染みの宿屋だからって、何も好き好んでそんな場所に泊まる必要ないじゃないのさ。」
潘蓮玉の疑問は至極尤もなものであったが、張載風の回答は更に理に適ったものだった。
「一体、その宿代を誰が支払っていると思っているんだい?金は自然に湧いてくる物じゃなし、嫌なら姐さんには野宿してもらうしかないかな。」
これには潘蓮玉も返す言葉がなく、黙って張載風に従うのだった。
黒武門から僅かに離れた場所に張載風のいう宿屋はあった。看板すら掲げていないその宿屋は、そうと知っていなければ誰もが気付かずに通り過ぎてしまうような、随分と寂れた建物だった。内心の不満を隠すつもりもないらしい潘蓮玉は、その外観を目にした途端に益々機嫌を損ねた様子で、一向に口を開こうとしなかった。そんな連れの思いなどまったく意にも介さぬ風で、張載風は一足先に建物へと足を踏み入れるのだった。
外観とは異なり、中は随分と綺麗に片付けられている様子だった。店の中では子供が一人で掃除していたが、新たにやって来た客の姿を見ると、その手を止めてこう答えるのだった。
「宿をお探しでしょうか?それでしたら、ここからもうしばらく城壁伝いに歩いて頂くと、“華翠亭”というお店が御座います。そちらでしたら設備も整っておりますし、黒武門からの距離もそれ程離れておりません。よろしければご案内しましょうか?」
随分と慇懃な対応には違いないが、宿屋の店員らしからぬ申し出である。
「こちらの主人に用があって来たんだ。これを渡してもらえれば分かるだろう。」
張載風は子供の言う事には構わず、懐から『至心丹』の包みを取り出すと、それを手渡して頼むのだった。
「お好きな場所にお座りになって、少々お待ち下さい。今、主人に確認してきますので。」
子供は包みを手にすると、部屋の奥へと姿を消していった。潘蓮玉は言われるまでもなく既に席へと腰を下ろしており、頬杖をついた姿勢のままで何事が始まるものかと様子を伺っているようだった。その向かい側に腰掛けるようにして張載風も席を取った。
「いい加減に機嫌を直してくれよ、姐さん。見てくれは悪いが思ったより綺麗な所だろう?それに、こうしていると、姐さんと最初に会った時の事を思い出すよ。」
「私にしてみれば、あの日兄さんに出会ったのが運の尽きさ。人生最悪の一日だったよ。」
「そう言うなって。ここにこうして美男と美女が一人ずついるんだ。何の不足があるものか。もしも足りないモノがあるとするならば、この場に相応しい美酒ぐらいのものさ!」
「ハッハッハ。相変わらずですね、“栄邑の酒徒”。そろそろやって来る頃だと思って、ちゃんと目当てのモノは用意しておきましたよ。」
そう言うと、奥から一人の男が姿を現した。宿屋の主人らしからぬ書生風の格好をしたその男は、荒縄を括りつけた甕を手土産に二人の元へとやってきた。主人の後ろからは、先ほどの子供が盆と杯を手に従っている。
「久しぶりだな、墨郎。相変わらず隠棲生活を満喫しているのか。そろそろこんな襤褸宿なんか辞めちまって、外に出たらどうなんだ。」
「そっくりそのまま貴方にお返しますよ、載風。いい加減に怪しげな薬を売るのは辞めて、表舞台に出たらどうなのです?」
墨郎と呼ばれた主人は席につくと、子供に何やら指示をして奥に引き取らせた。しばらくしないうちに、奥から三人分の食事が用意され、机の上に並べられていった。
「姐さん、こいつは穆陽過。宿屋の主人のくせに、家業そっちのけで水墨画を嗜んでいるような奴なんだ。そのせいで周りからは“墨酔家”と呼ばれている変人だ。墨郎、こちらは潘蓮玉。縁あって一緒に旅している仲間さ。」
張載風がお互いを紹介している間も、穆陽過は懐から半紙を取り出して、なにやらさらさらっと筆を動かしていた。
「潘蓮玉殿、お近づきの印にどうぞ。」
そこには、墨で描かれた潘蓮玉の姿画があった。それは非常に上手く描けていたが、描かれた彼女の背中には、蛾の翅を模した飾りが添えられていた。
この国では、蛾は美人の形容として用いられているため、潘蓮玉の容姿を蛾に擬える事自体は問題ではない。しかし、女性の姿画を描く時に花や蝶を書き添える事はあっても、蛾を書き添える事はしない。ましてや翅の生えた人など、それは既に人であって人ではない。そういった人ならぬ物を描く事は、妖を招き寄せるとして不吉な行為とされてきていたのだ。
また、蛾の翅というのは、その派手な紋様と翅に含まれる猛毒によって忌み嫌われる場合があり、加えて“金翅”を意味する隠語でもあった。殊更に翅だけを取り上げて描いたのは、穆陽過から潘蓮玉に向けての挑発であると疑わざるを得ない。
「野に咲き乱れる満開の花や、そこに舞い集う色鮮やかな蝶よりも、月光を浴びて光輝く鱗粉を舞い散らす蛾・・・そうですね“月蛾”とでも言いましょうか・・・その方が貴方の印象に相応しいように思います。如何でしょうか。」
穆陽過は涼しい顔で潘蓮玉に尋ねるのだったが、一方の潘蓮玉も特段に機嫌を損ねた様子も見せず、むしろ楽しそうに笑うのだった。
「“月蛾”だって?まあ、私には似合いの名前かもしれないね。それにしてもあんた、噂どおりの変人のようだね。この画は有難く頂戴するにしても・・・。」
潘蓮玉は素直に半紙を受け取ると、丁寧に折畳んで懐にしまい張載風の方を向いた。
「兄さんのいう知り合いっていうのは、この人の事かい?だったら早いところ頼むよ。」
その問いには答える様子もなく、張載風は席を立つと、壁に掛けられた水墨画の方に目をやった。
「墨郎、これは何だ?角の生えた黒馬の様にも見えるが・・・。まったく可笑しな画だな。」
目立った家具調度のない室内において、壁一面に飾られたそれは一際目を惹くのだった。張載風が指摘したとおり、中央には角の生えた馬の様な生き物が描かれており、その周りでは大勢の人々が跪いて平伏していた。空には太陽が描かれており、遥か彼方には九陽楼と思しき建物があった。
「この画を見た人は皆そう言うのですが、馬には角なんて生えていませんよ。私としては白鹿を描いたつもりなのですけれども、中々思うように描けなくてね。何度も手を加えているうちに、だんだん今の様な姿になってしまったという訳ですよ。これこそ、本当の“馬鹿”と言うんでしょうね。」
穆陽過は画を眺めている張載風の側に近づくと、本気とも冗談ともつかぬ口調でそう説明するのだった。
「そうか。しかし、この画には少し足りないモノがあるな。俺が書き足してやるから筆を貸してくれ。」
張載風は、空に月を、平伏している人々の周りに影を足していき、生き物の角と思しき部分には、筆を加えて冠に描き変えてしまった。
「水墨画なんだから、昼でも夜でも構わないだろう?九陽楼には太陽よりも月が似合いだ。ついでだったら、月も描いておくべきだな。そうなると、天空に太陽と月が輝いているっていうのに、周りに影がないと可笑しいな。それに馬には角はない。冠でも被せておけば十分だろう。ついでに署名もしてやるか。」
そう言うと、張載風は“栄邑の酒徒”と最後に署名するのだった。
「成程、お陰で随分と良い画になりました。しかし、“栄邑の酒徒”が画を描いたとなると、悪い冗談にしか聞こえないですね。」
張載風の手から筆を取り返した穆陽過は“栄邑の哂徒”と書き直してやるのだった。
説明するまでもなく、鹿は王を、冠を被った黒馬は不影、即ち孟宗徳を表しているのである。天上に輝く丸い物体は、水墨画である以上、太陽とも月とも判別がつかないため、見ようによっては二つの太陽が空に輝いているようにも受け取れる。しかし、空に輝く太陽が権威の象徴であるならば、これは随分と意味深な画であると言わざるを得ない。
一目見てその画が何を表しているのかに気がついた張載風は、穆陽過に害が及ばないようにと自らの署名を書き加えたのだったが、そこは穆陽過も心得たもので、咄嗟に“哂徒”と書き直したのだった。
「私に言わせれば、あんた達二人の方がよっぽど“馬鹿”だね。錦香から離れた場所ならともかく、こんな目と鼻の先でそんな画を描いて、反逆の罪にでも問われたらどうするんだい。面倒事は御免だよ。」
二人の遣り取りを黙って見ていた潘蓮玉であったが、やれやれといった様子で溜息を吐くのだった。