第10話
そんな許龍峨に向かって、風来坊は黙って右手を差し出した。
「俺に対して礼などいらんし、頭を下げる必要もない。そんな事よりも、さっきお前に渡した塗り薬の代金を払ってもらおうか。」
風来坊の表情からは冗談を言っているような様子は窺えなかった。突然の申し出に戸惑いを隠せない許龍峨。
「どうした?まさか俺が善意でお前に薬をやったと思っているんじゃないだろうな。最初に言ったはずだ、“お前さんの正義と奴らの正義は違う”ってな。お前と俺では住んでいる世界が違う。俺はどちらかというとあの野良犬と同じさ。そう簡単に手懐けられるつもりはないが。」
二人の近くで干し肉を食べている野良犬を指差しながら、風来坊は冷笑してこう告げるのだった。
許龍峨は風来坊の行動を思い返してみるのであったが、これまで彼が自分の味方をしてくれた事など一度も無かった事に思い至るのだった。それどころか、この得体の知れない男は、自分の側でただ面白そうに眺めていたのではなかったか。それを自分が勝手に信用してしまっていただけなのだ。店で注文した饅頭にすら毒が仕込まれていたくらいだ。この男が先ほどの女の仲間だった場合、薬に毒が仕込まれていないという保証がどこにあろう。何の疑いも無く風来坊の差し出した塗り薬を使用してしまった事自体、そもそもの間違いではなかったのだろうか。
急にこの風来坊という男の存在が不気味に思えてきた許龍峨は、何とかこの場を逃れようとこう言うのだった。
「あなたの動機はともかく、薬の代金はお支払いします。ただ、私はお金を持ち合わせておりませんので、連れにお願いして立て替えてもらうことにします。」
そう答えると、張載風がいる店の方へ向かって歩きだそうとし始めた。しかし、風来坊はそんな許龍峨の行動を阻むかのように腕を掴む。
「お前が言っているのはこの事か。」
風来坊の手には、許龍峨の懐にしまってあったハズの財布が握られていた。先ほど傷の具合を見る振りをして懐を探られたのだろう。その中には優に一月くらいは遊んで暮らせる程の大金が入れられており、手に取るだけで分かるくらいにずっしりと重かった。
それにも関わらず、風来坊はそれを許龍峨に放り投げてよこした。中のお金には一切手をつけられた様子はなかった。
「俺が欲しいのは金じゃない。そんなもの無くても生活には困らん。それよりも俺が欲しいのは中央の鳳凰を囲むように二匹の龍の装飾が施された白い佩玉だ。どこに隠した。」
「白い佩玉?さて、何のことでしょうか。もしかしたら連れが何か知っているかもしれません。やはり、ちょっと呼んで来ましょう。」
そう言って、風来坊に掴まれた腕を振り払おうとする許龍峨であったが、その手は緩められるどころかますます力が込められ、締め付けられるのだった。
「惚けても無駄だが、まあ良い。お前には張載風を誘き寄せる人質になってもらおう。白凰双龍佩はその後ゆっくりと探すことにするさ。」
風来坊は許龍峨に手早く点穴(※)を施すと、許龍峨を連れてこの場を立ち去るのだった。
そうとは知らぬ張載風。許龍峨の隠れている草むらに声を掛けてみるが、既にそこに人影はなかった。辺りに残っているのは、三匹の野犬の死骸と一匹の野良犬の姿だけであり、空一面には死骸の臭いを嗅ぎつけた烏の群れが集まっていた。
許龍峨の姿が見えないと分かった張載風は、店に戻り潘蓮玉に問いただす。
「一つ確認したい。許龍峨を連れ去ったのは、お前の仲間か?それとも別のヤツか。」
床に倒れたままの状態で思うように体を動かすことが出来ない潘蓮玉は、憎らしげな表情で張載風の方を見返す。
「何でもお見通しの張載風様も、自分の連れが攫われるとは思わなかったみたいだね。ふん、いい気味さ。」
「もう一度尋ねる。許龍峨を連れ去ったヤツに心当たりがあるならすぐに教えろ。さもなければ女でも容赦はしない。」
その表情からは窺い知ることの出来なかったが、張載風の語気を強めた言い方に、身動きの取れない潘蓮玉としては自分の知っている事を話すしかなかった。
「私はあんたを殺してくれって、ある人に頼まれただけさ。あんたに連れがいるなんて話は聞いちゃいないよ。あの毒薬だって、本当はその人に貰ったものなのさ。随分とあんたの事を憎んでいるみたいだったけど、何か心当たりでもあるんじゃないのかい?」
潘蓮玉はそこまで言うと、自分の言葉が張載風にどのような影響を与えるのか、しばらく様子を窺っていた。先程までの張載風の表情が少しだけ曇るのを潘蓮玉は見逃さなかった。
「私よりも随分と年上のようだったけど、十分に綺麗な人だったよ。女の私が見ても嫉妬するくらいにね。あの瞳には人を惹き付けるような魔力でも秘められているのかね。じっと見つめられると、どんな無理難題でも断われないような、そんな気分にさせられたよ。元々あまり感情を表に出さない人みたいだけどさ、あんたの事となると随分と様子が奇怪しかったからね、何か知っているんだろ?だからさ、私の事は許しておくれよ。」
体が痺れて思うように動けない状態の潘蓮玉であったが、出来る限りの愛嬌を振りまいて張載風に懇願するのだった。
「別にお前に危害を加えるつもりはない。今は許龍峨を捜す方が先だ。他に何も知らないのなら、俺は先に行く。」
潘蓮玉を置いてその場を立ち去ろうとする張載風の所へ、汚い身形をした少年が近づいてきた。
「おじさん、張載風かい?」
突然自分の名前を呼ばれて、少年の方を向いた張載風。
「ああ。そうだが。何か用か。」
「これをおじさんに渡してくれって、さっき通りすがりの変な人に頼まれたんだ。」
少年は手にした手紙を張載風に手渡した。一通り目を通した張載風は、少年に尋ねる。
「坊や、その手紙を渡した人について何か覚えていることがあれば教えてくれないか?」
張載風は財布の中から小銭を取り出すと、少年にもよく見えるように目の前に掲げた。
「そうだな。浮浪者みたいな格好をしていたけど、あれはきっと偽物だね。」
「ほお、どうしてそう思うんだ?」
「だって、ちっとも臭くなかったんだもん。」
それだけ言うと、少年は張載風の手から小銭をひったくり、どこかに行ってしまった。
※点穴・・・全身に存在する特定の経穴を衝いて、経脈を遮断する技。各種の身体機能を封じたり、命を奪う作用があったりする。