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鏡獅子

作者: rainvibration

狙ってはいませんが、老人と海みたいな感じになりました。

 大蔵はマロの首輪付近からどくどくと流れ出る血を見てもうこれは助からないと思った。

 頭を撫でる大蔵に、頭を横たえたまま視線だけを向けてヒューン、ヒューンと甘えるように鼻を鳴らす。

 こちらに向けられた目玉に釣られて盛り上がったマロの丸い眉毛が徐々に落ち、マロ

は視線を空ろにした。他の二頭の勢子も帰って来ない。おそらく生きてはいないだろう。

 大蔵は昔見た光景を思い出して顔をゆがめた。


 もうすぐ日が暮れるし、パートナーを全て失った。だがめったに人に姿を見せず、寝屋のわからない

神出鬼没の鏡獅子をやっとの事で追い詰めた。大蔵が野営を選ぶのにそう時間はかからなかった。


 大蔵は暗闇の中で木に寄り添って座り、毛のついたフードを深く被った。そしてたすきにかけた小さな鞄の中から

ウィスキーの小瓶と非常食のチョコレートを取り出すと、チョコレートを少し齧りながらちびりちびりと酒で

唇を濡らした。左腕に抱えたライフルは夜露を避けるために銃口と機関部分にはビニール袋を被せてあるが、銃身の大半は

露出していて、手を動かすたびに銃身が顎についてひやりとする。大蔵はライフルを自分の左側に立てかけた。

 酒で少し体温が上がったのだろうか、先ほどより息が白くなった気がした大蔵は。煙草の煙をふうっと吐くように息をした。

 猟では煙草は厳禁だ、吸っても所持していても匂いで感づかれる。大蔵は今朝早くから煙草を我慢していた。軽い禁断症状

を我慢しながら大蔵は目を瞑った。「雄一……」


 大蔵と鏡獅子の出会いは2年ほど前になる。いや正確には存在を確認したと言ったほうがいいだろう。地面に刻まれた見た事も

ないような大きな猪の爪痕に、仲間達は色めきたった。それぞれ仲間達が尾根ごとに別れ、犬を連れて登り、猪の寝屋山を見切って

撃ちの場所を決める。無線で連絡を撮りあい、一斉に犬を放った後、足元の落ち葉や小枝を払い、重要な局面で体重移動しても音が

出ないように足を置く。猪が走ってくる方向を予想してじっと待つ。ほどなく犬たちがやかましく騒ぎ始めた。よし、見切りが正し

かったと、大蔵は口角を上げてほくそえんだ。こっちへ来い。所がしばらくすると犬達が静かになった。静寂が続き、大蔵はおかし

いなと思いながら、無線で仲間と連絡を取る事を我慢した。耳につけられたスピーカーの音で走ってきた猪が人間に気づく事がある

からだ。すると無線から意外な声が聞こえてきた。

『た…助けてくれ ブツッ』

 雄一の声だ、何か困った事になって泣きが入ったような声に大蔵はあきれ気味に言った。

「どないした、今無線鳴らしたらあかんやろ」 

 無線のスイッチから手を離して回答を待ったが返事がない。足を滑らせて谷にでも落ちたか。と思った大蔵は急に不安になった。

「今から行くよって撃つなよ!」

 大蔵はそういうとライフルを持ったまま谷へ駆け下りた。雄一のいる尾根は隣だ。谷底まで来ると急峻な斜面を一気に登る。

 一気に登るといってももう70歳になろうかという年、よっこらしょ、よっこらしょと膝を上げては体を押し上げる動作を

繰り返した。息を切らして雄一を発見した大蔵は息を呑んだ。ぼろ雑巾のようになって木によりかかり、両足を投げ出した雄一の又の間は血溜まりに

なっていた。雄一の顔自体も擦過痕や打撲で修羅場になっており、辺りには広範囲に渡って靴や装備品が散らばっていた。

「どないしたんや!」

 大蔵はライフルを捨てて駆け寄り、雄一の傍でしゃがみこんだ。

「や…やられた、あいつ後ろからきよった」

「なんでや!なんでこんな事なったんや!」

 雄一の右足の大腿部は内側が縦に一尺ほども裂けており、既に大量に出血していた。大蔵は急いで雄一のベルトを外すと足の付け根を締め上げた。

 しかし大蔵が発見した時には出血は止まりつつあった。望みは薄いがしかし、諦めるわけにはいかなかった。携帯を取り出し電波を確認する。

 電話は圏外になってる。大蔵は胸元にクリップで止めてある無線のスイッチを押して叫んだ。

「みんなこっち来てるんやったら立ち止まって今すぐ携帯見てくれ!」

『ああ?どないしたんや ブツッ』

「ええから!雄一がえらいこっちゃ!救急車呼んでくれ!」

 雄一は真っ青な顔で震えながらうわごとのようにつぶやいていた。

「お…恐ろしい、あれは悪魔や、鏡獅子や…」

「何ゆうてんねんそんなもんおるかい、大丈夫や雄一、わいが助けたるよってな!まだまだいけるでえ!」

 大蔵が雄一の左脇に右肩を滑り込ませてぐっと力を入れると、雄一の左腕は手首から10㎝ほどの所でぐにゃりと垂れたが

構わず大蔵はそのままヨロヨロと立ち上がった。

『救急車呼ぶんか?雄一怪我したんか?銃声は聞こえんかったけど ブツッ』

「ええから呼べやあ!」


 雄一は山を降りる前に事切れた。「悪魔や、悪魔やぁ、あんなん反則や…」雄一は大蔵に担がれながらそう何度も呟いた。

 結局犬も内臓を引きずって帰ってきた1頭以外は、現場で死んでいるのが見つかるか、行方不明になった。あの日雄一は彼の

言う所の悪魔に背後から襲われた。付近に深く刻まれた巨大な雄の猪の爪痕。大蔵の推理はこうだ。雄一は背後から巨大な猪に

牙でしゃくり上げられ、腿がぱっくりと裂けたが牙にズボンの生地が絡まり、そのまま振り回されてボロボロになった。

 死因は失血死だが体中の骨が折れて悲惨な有様だったようだ。雄一は大蔵の40年来の猟仲間だ、大蔵は復讐を誓ったが、鏡獅子は

それ以来現れる事はなかった。


 大蔵は雄一がやられた現場を何度も調査した。鏡獅子の足跡を石膏を使って型を取り、自宅近くの野山のあらゆる場所にスタンプして

時間の経過と共にどういう変化をするか見守った。普通のサイズの足跡なら、一目でつけられてからの時間の経過がわかるが、この特大サイズの足跡

に関してはどういう変化をするのか想像がつかなかったからだ。石膏が固まるのを待って掘り出した蹄はまるでいびつな形の一升瓶のようだった。

北海道土産のアイヌ人形を頭から泥に突っ込んで型を取ればこういう風になるのかと想像した。ずっしりと手に収まっている蹄は大蔵の闘志にめらめらと火をつけた。

石膏で出来た蹄の上の切断面からから伸び上がって体を体現させた猪は大蔵の頭の中でふくらみ、経験した事のない興奮がよわい70の老体に充満していた。

 盟友の復讐というのは単なる名文かもしれないと大蔵は思い始めていた。しかしそこはどうでもいい、自分は鏡獅子を撃って降伏させる。血まみれで

哀れに自分を見上げる鏡獅子の姿をこの目で見るのだ。


 大蔵は毎日雄一の足を半ば引きずるようにして斜面を降りる夢を見た。

『役場の村西がジープでこっちむこてるて! ブツッ』『へりこぷたー飛んだけど降りる所が坂上さんとこの田んぼしかあれへんわ! ブツッ』

『救急車どないなっとんねん ブツッ』『ほんなもん山口の橋でド詰まっとるわ!わかり切った事やろがい! ブツッ』

 無線から聞こえる無情な会話を雄一に聞かせたくはなかったが情報は重要だった。あくまで希望的観測の元に動いていた大蔵の

 右耳から聞こえてきたものは絶望的な台詞だった。

[…とうな」

「あ?なんて?」

「ありがとうな、わいもうあかん」

「しょもない事言うな黙っとれ!」

「わいかてシシの首なんぼも切って来た、あの血の量はあかん量や」

 足が砕けそうなほどに絶望的な状況で大蔵を動かしていたものは雄一のわずかな生存確率だけだった。

 それを本人に否定された大蔵は目の前が暗くなったが持ち前のご都合主義でそれを一蹴した。

「シシに輸血したことないやろがあほんだらボケカス!」

「血ぃ抜けたもんの調子を知らんやろ、大ちゃん、俺今わかるわ」

 蝋人形のように血色を失った雄一の言葉に大蔵は思わず黙った。

「よー聞いてや大ちゃん、あいつに関わったらあかん、死んでまうで、わい大ちゃんが心配や……」

 その言葉を最後にぐったりと眠ってしまった雄一はヘリに乗る頃にはすっかり冷たくなってしまっていた。

 ただの肉塊となった友人。未だにその冷たい感触を感じながら時々目が覚める。


 大蔵はまた雄一の冷たい体を思いだしてふと目を開けた。眠ってしまっていたようだ。体がすっかり冷えていて大蔵は膝を抱えなおすと、ぶるぶると

身震いした。気がつくと月が出ているようだ。見上げると真っ黒な木々の間から群青色の空が見える。大蔵の位置から月は見えないが、10mほど先に

樹冠にぽっかり穴が開いている場所があるらしく、その周囲だけは月光が差し込んで、まるでステージのように明るくなっていた。光に乱反射した薄靄が

ゆっくりと流れている。ぼんやりとその様子を見ていた大蔵は光の中に違和感を感じた。やけに白い植物のような物が数本生えている。下の部分は

地味な色で芽だけが月光に浮かび上がっているのか、人の腰ほどの所にある。靄が複雑にうごめくそのステージに立つ植物を見つめていた大蔵は

ギクリとして左側に立てかけてあったライフルに手を伸ばした。

 白い植物の背後に毛に覆われた壁がある。靄の形が変わり、それが露わになった。猪だ。艶々とした灰色の毛が覆う絨毯のような眉間。背中から頭頂部にかけて

ふさふさとした白銀のたてがみが覆い、目のあたりまで垂れている。白い植物に見えていたものは牙だった。天を突くように下顎から三日月型に伸びる牙はゆうに

一尺を超え上顎犬歯はやや短いものの、下顎の牙と交差するように上側45度の角度で左右に広がっている。猪はこの上下の牙を擦り合わせる事で牙の鋭利さを保つ。

 しかし大蔵が最も驚いたのはその体躯の大きさだ。予想を遙かに超える大きさだ。

 肩の高さは立った大蔵の肩を超えているかもしれない。巨大な牙の根元に押し上げられている頬の肉のおかげで目の下に深い皺ができ

これが隈取りに見えなくもない。

 鏡獅子だ、間違いない。あの白いたてがみを振り乱して暴れれば、歌舞伎の演目、鏡獅子に登場する連獅子のようになるに違いない。大蔵は震えた。恐ろしい

しかしあの美しさはなんだ。大蔵は葛藤した。ライフルに手を伸ばしてみたものの、弾丸は弾倉の中だ。発射準備をするには一度ボルトレバーを起こして手前に引き

競り上がった弾丸を薬室に押し込んでボルトレバーを固定しなくてはならない。いつでも襲いかかれるぞと言わんばかりの鏡獅子の姿を大蔵はそのままじっと

観察した。黒い瞳が月光を反射して光沢を放っている。

 額から一筋の汗が流れ落ちた。その時靄が少し濃くなり、鏡獅子の姿が見えなくなった。言いしれぬ恐怖に大蔵はおののいた。

銃の機関部にビニール袋をかけてなければ手元に引き寄せて一気に弾丸を装填して撃つことも出来たのだろう。大蔵の左手は銃に

掛かったままだが、もしも奴が全力で襲って来た場合は銃は役に立たない。


そのままどれぐらいの時間がたったろう。徐々に靄は晴れていき

やがて何も無い月光のステージだけが残されていた。

 大蔵は跳ね起きるとガタガタと震える手でライフルからビニール袋を外し、ボルトを起こして引くと弾丸を押し込んでライフルを水平に構えた。

「悪魔や、ほんまや、雄一のゆうてた事はほんまやった」

 そうつぶやきながら大蔵は2年前に負傷した雄一が最初に言った言葉を思い出した。

『後ろからきよった』

 大蔵はガバッっとライフルの銃身ごと後ろに振り返って耳をすましたが気配はない。

 すると今度はさきほど鏡獅子がいた方が気になる。大蔵はまた慌てて向き直り、ライフルの先端の照準の向こうに広がる風景に目を凝らした。

 ふう、ふうという自分の息の音と共に、吐き出された白い息が銃身に絡みついては空中に消えていく様を見ながら目だけを動かしていると、突然右側から

聞こえてきた「ギャッ」というゴイサギの鳴き声に驚いてまた銃身の方向を変える。大蔵は半時間ほども鏡獅子の影に怯え続けた。


 

 朝靄の中を出来るだけ気配を消して大蔵は歩いた。昨夜は結局あれから一睡もできなかった。冷静に

考えれば奴はこちらの存在に気づいていて姿を現している。昨日犬をけしかけた本人である事は鉄や

火薬の臭いで明白なはずだが襲ってこなかった。何を考えている。大蔵は時々立ち止まって山芋の

蔓からムカゴの実をもぎ取ってもぐもぐと食べながら考えていた。2年前に現れた峰とは違う峰で

猟犬がほぼ壊滅させられ、大きな足跡が残った話をききつけて様子見にはるばるやってきた大蔵

だったが、思いの外簡単に見つかった鏡獅子らしき足跡につい深追いをしてしまい、その上いとも

簡単に最初の犬掛けで勢子を全て失った。奴は逃げずにわざと猟犬を殺しているのではないか。

 あの体躯では犬が5,6匹で襲った所でどうということはない。大蔵は想像した。噛み止め猟でもない

限り犬の役割は獲物を追い立てる事で、接触する事はない。犬とて馬鹿はないし、それなりに素早い。

 猪の牙に捕まる犬は時々いるがそう多くはない。奴は逃げずに留まり、仕事が出来ずに焦って接近

した犬をあの牙で引っかけているのではないか。首の付け根から鼻の先まで1mはありそうな勢い

だった。あの宝刀を左右に振れば犬達がかつて経験した事のない射程距離で攻撃ができるのではないだろうか。

 大蔵はライフルの薬室に弾を装填したまま歩いた。これは危険な行為であり、猟師のセオリーからは

逸脱していたが、やむを得なかった。相手は知能が高いようだ。昨夜のは警告だ。おとなしく帰らなければ

殺すという意味だ。大蔵はそう思い込み始めていた。しかし大蔵は思い出しても身震いするような鏡獅子に魅了され

ていた。魅入られたといった方が正確だろうか。雄一の警告は大蔵の性格をよく知っての事だった。

『あいつに関わったらあかん、死んでまうで、わい大ちゃんが心配や』

 今際の際で自分の事を心配した雄一の為にも、大蔵はスゴスゴと引き下がるわけにはいかなかった。


 大蔵は明るくなってほどなく見つけた鏡獅子の足跡を、注意深く観察しながら辿った。足跡は寄り道する事なく

また、立ち止まる事もなくまっすぐと山頂に向かって続いていた。この先に寝屋があるのか、そもそも決まった

寝屋を持っているのかさえ謎だった。しばらくすると左側の谷底から沢の音が聞こえてきた。上を見上げると

視界を流れる樹冠の隙間からちらりちらりと露岩の絶壁が見える。やがて獣道に平行して谷底を流れていた沢が

近づいて来て水辺を歩く形となった。50mほど先に、沢を中心としてトンネルの出口のように明るい場所が見え

沢の音とは別のザーという水音が聞こえてきた。石がごろごろとした開けた場所に出た大蔵は先刻から見えていた

崖を見上げた。崖の頂上から落ちる白い水の糸が岩に当たって複雑に別れ、滝となって直径20mほどの滝壺に

落ちている。すっかり高くなった日の光に照らされて虹を作っている。しかしこのごつごつとした岩場では足跡

を辿る事ができない。右側は崖が斜面全体を取り囲むように続いている。大蔵は平坦な左側へと進む事にした。

 沢のほとりまで行き、空になった水筒に水を汲むとごくごくと飲んだ。よく冷えたビールのような冷たい水が

少し背中に汗をかいた体に心地よい。息を吐いて空を見上げると、煙草を吸いたい衝動にかられる。大蔵は

ポケットにぱんぱんに詰まったムカゴを取り出し、もそもそと食べた。


 氷のように冷たい沢を渡り、崖沿いの平場をひたすら進む。右側は岩の壁、左側は急峻な岩場で、隙間のない枝つきの

低木がびっしりとはびこっている。時々巨大な落石が行く手を阻み、斜面に降りながら大きく迂回しなければならなかった。

 やがて木々が無くなり、一枚岩で出来た崖の先端のような所に出た。予想が外れたか。右を見ても左を見ても、こんな所

を進めるのはカモシカしかいないといった険しい崖だ。大蔵はきびすを返すと来た道を戻りはじめた。おかしい。滝のある

場所に出るまでは確かに真新しい足跡があった。滝の右側に続く崖の途中に獣なら歩ける程度の道があったのだろうか。

 ぼーっと考えながらごつごつとした岩の道を、足元を見ながら歩いていた大蔵は、視界の上の方に何かが見えて顔を上げた。

 目に映った物を見て硬直した大蔵だったが、やがて膝がカタカタと震え始めた。鏡獅子だ。10mほど先に静かに立って

こちらを見ている。灰色の毛並み、白銀のたてがみ、そして凶暴にそそり立つ牙に交差するように横に伸びた上顎犬歯。

しまった、はめられた。どうするか考えた大蔵だが昨夜と違って今は立っていて、銃は左肩に担いでいる。鏡獅子の隈取された

黒い目がこちらをじっと見ている。大蔵は勝負に出た。腰を落とすと素早く銃床を振り回すように右肩につけ

ボルトレバーを引いた。ガチャリと銃弾が排出されてキーンと岩に跳ねた。しまった、焦りのあまり装填済みである

事を忘れていた。鏡獅子はおよそ猪の物とは思えないブオォォというほら貝のような低音で吼えると、猛牛のようにこちらに

向かって跳ねた。大蔵が慌てて次弾を押し込むと。もう相手は目の前だった。銃口から破裂音が響く。狙いをつける事もできずに

放った弾は鏡獅子のはるか後方で岩に当たって白煙を上げた。もう次弾を装填する暇などない。大蔵は目前に迫った

白い牙を見据えながら横っ飛びの体制に入った。美しい白銀のたてがみがふわりふわりと波打っている。わずかに右

に重心を移動した時、左半身に激しい衝撃を感じて大蔵の体は空中に投げ出された。上も下もわからず風景がぐるぐると

流れた後、右脇腹に激しい衝撃を感じた。痛がる暇もなく体は転げ、やっと止まった時には、大蔵は深さ1mほどの

岩の裂け目にはまっていた。銃は?体を捻って銃を探そうとしたが脇腹に激痛が走る。フゥッフウッと荒々しい息使いが

聞こえ、上を見上げるとぬうっと鏡獅子が顔を出した。青い空に逆光になった鏡獅子の下顎の向こうから右目をこちらに

傾けてじっと見ている。陽光に乱反射しているたてがみの毛先が、風でちろちろと揺れた。大蔵は腰に差した刃渡り30㎝ほどの

剣鉈をシャっと音を立てて抜いた。それにしてもでかい。頭だけで若い猪1頭分ほどもありそうだ。興奮しているのか

相変わらず荒い息遣いの奴との睨みあいが続く。どれほどの時間が経っただろうか、やがて鏡獅子の頭はすうっと引っ込んだ。

「ぷはっ、ふうっ、ふう、ふう」

 大蔵は自分が息を止めていた事に気づいた。呼吸を荒くしながら恐怖と緊張を吐き出すように息をすると、右脇腹

がズキズキと痛む。大蔵は鉈を握ったまま左手で体中をまさぐった。裂傷や大量出血の感触は無い。どうやらギリギリ

であの白い凶刃はかわしたようだ。しかし最悪の状況は変わらない。大蔵は岩の裂け目に寝転がったまま出る事が

できなかった。


 1時間ほど過ぎた頃だろうか、大蔵は恐る恐る裂け目から顔を出して周りを見渡した。比較的ゆるい岩の斜面が見える。

 あそこを転げ落ちてきたのだろうか。大蔵は裂け目の両側に手をついて抜け出すと鉈を握り締めたまま、音を立てないように

匍匐前進で斜面を登り、ゆっくりと平場に顔を出した。やはり鏡獅子の姿は見えない。大蔵はしばらく様子を見守った後、立ち上がった。

 地面を見回すと、大蔵が吹っ飛ばされた所から4、5mの所に銃は落ちていた。歩いていき、銃を拾い上げると剣鉈鞘に収めた。

 そしてボルトレバーをゆっくり引っ張り、押し出されてきた薬莢をつまむと、ポケットに入れて次弾を押し込んだ。

 大蔵は銃を水平に構えて、回りを機銃掃射するような動きで歩き始めた。弾はあと三発。バッグの中に予備の五発装填子があるが

弾倉を開いて込めなおす勇気がない。脇腹がズキズキする。骨が折れているかもしれない。肘や脛や他にも痛い所はあるが構って

いられない。日が暮れる前に山を降りなければ確実にやられる。

 大蔵は警戒しながら森の入り口の沢まで戻ってきた。そして周りをぐるりと回るように銃を向けた後、森に向かって走りだした。

 森の中なら木がある、もし突進されても木の裏側に回れば鏡獅子の軌道から逃れる事ができる。今年70になる老体に鞭を打って

大蔵は走りに走った。足を地面に着けるたびに脇腹に激痛が走る。しばらくすると、大蔵がマロを埋めた場所が見えた。ここから

歩いて20分で人里に出る。大蔵はポケットに手を突っ込んで携帯電話を握った。その時、大蔵が踏んだ木の枝の反対側がピンと跳ね上がった。

 大蔵は枝に足を絡ませ、派手に転んでザザザと滑った。

「ううううううう」

 大蔵は脇腹の痛さに唸りながら身を起こして周りを見回した。バランスを崩した時に電話を握ったまま手を出して体を庇おうとしたが

結局ヘッドスライディングのようになってしまい、電話を手放してしまったのだ。よろよろと立った大蔵は足首ほどの草が生えている

周りを見渡した。しかし大蔵は焦っていた。こんな事をしている場合ではない。大蔵は銃の肩紐を持ってしっかりと掛けなおすと

また走りだした。ずっと奴の気配を感じる、見られている。


 あと5分ほど走れば、ゆるやかな段々になった水田がある場所に出る。しかし大蔵はここで走れなくなった。大蔵は大きめのクヌギの木

に身を寄せて座り込んだ。水を飲み、銃床を右脇に抱えていつでも構えられる体制で息が落ち着くのを待った。大蔵は目の前の木々のどこという

事の無い場所を見つめながら自分を見下ろす鏡獅子の目を思い出した。忌々しい、どうやって仕留めてくれようか。大蔵は既に逆襲のプランを

練りはじめた。その時だった、大蔵の斜め前方でガサっと物音がした。大蔵は驚いて音のした方に銃を向けた。じっと息を殺して耳を澄ます。

 先ほどから額を濡らしていた汗がひと筋、眉毛の上に垂れてきた。サクッサクッ、サクサク。間違いない、獣の足音だ。じっと目を凝らすと

眉毛の上に溜まった汗がポトリと落ちたその瞬間、茂っている低木の葉の隙間からチラリと毛に覆われた何かが見えた。パアン!

「ギィィイイイイ、ギィィイイイイイ」

「やったか!」

 大蔵は跳ねるように立ち上がると、低木をかき分けて声のする方に向かった。地面に転がってバタバタと足を動かしていたのは1歳ほどの

雌の猪だった。大蔵は額の汗を腕でぬぐって期待が外れたように息を吐いた。勘で撃ったため、急所には当たっていなかったが、背中の肉が

手のひらほどの範囲で吹っ飛んでいる。もうじき死ぬだろう。すっかり息も落ち着いていた大蔵が先を急ごうと足を踏み出したその時。

「ブォォォオオオオオ ォ ォ ォ……」

 聞き覚えのある咆哮に大蔵の魂は凍りついた。かなり離れてはいるが、山の中での獣の足は人間とは比べ物にならない。大蔵は慌てて

弾を装填すると脱兎の如く走り出した。しまった、いらぬ事をして怒らせた。ずっと気配は感じていたが、奴は頭がいい。このまま出て行く

なら何もすまいと思っていたのかもしれない。失敗した。大蔵は死に物狂いで走って森を抜け、ススキが覆っている原野に出た。100mほど先

に水田が見える。あそこを下れば軽トラックが置いてある。逃げ込めばこっちのものだ。そう思って後ろを振り返って見たものに大蔵は

口から心臓が飛びぬけた。鏡獅子がたてがみを振り乱して走ってくる。大蔵は心が折れていた。この期に及んであの怪物に振り返って銃を向ける

勇気が無かったのだ。大蔵が前を向いて最初に目に飛び込んできたのは道ばたにある2畳ほどの農機具をしまう倉庫。ドアをバンと押し開けて

中に駆け込み、手近にあったクワを立てかけてロックした。大蔵はガタガタと震える手を押さえてドアの対面にしゃがみこみ、銃を構えた。

「来るなら来いアホンダラ!」

 そう叫んだ大蔵だったが予想に反して何もおこらない。あのスピードならもう到達してもいい頃だがしかし、あたりはしんとしていた。そして唐突に

大蔵は思い出した。今薬室に入っている弾を含めてあと2発。なんとも心もとない。1発でも当てられたとしてあの巨体を沈められるだろうか。

 奴は自分の事を見失っているのかもしれない、今のうちに弾を装填しておこう。そう考えた大蔵はバッグから五発装填子を取り出してボルトレバーを引き

薬室から排出されてきた弾を受け取ると、装填子から外した3発とともに手作業で込めようとした。その時、バァン!バリバリという音と共に左腕が

吹っ飛ばされ、弾がバラバラに吹っ飛んでキーンキーンと弾ける音がした。轟音と舞い上がった埃に驚いて顔を背けた大蔵だが、視線を戻してみると

大蔵の背後の壁左側から鏡獅子が顔を出していた。

「あっ…はぁっ…はああああ」

 声にならない声をあげる大蔵の目に映るのは白く光りながら後ろ向きに反り返っている上顎犬歯。そしてその向こうにある目がギロリと大蔵見た。

「ブォォオオ!」

 鏡獅子は吼えながら頭を振り、バリバリと壁材の板が音を立てて建物が揺れる。右側の壁ぎりぎりまで逃げて銃を横に持って防御している大蔵だったが

まるで岩に包丁をつけたような鏡獅子の牙は容赦なく大蔵の腕や胴体をざくざくと刺した。このままでは確実に死ぬ。大蔵は一か八か

立ち上がって鏡獅子の眉間に跳び蹴りするようにして横っ飛びにドアを目指した。しかし不運にもズボンの裾が牙に引っかかってビタンと床に落ちた。

 鏡獅子がまた頭を振った事で少し引きずられたが、ズボンが破れて大蔵は解放された。這々の体で立ち上がってドアを開けて外に飛び出し

車を目指して走った。50mほど走って後ろを振り返ると、小屋がメリメリと音を立てて平行四辺形に傾いている所だった。ある程度の所

まで傾くと小屋は一気にぺしゃりと潰れて中から鏡獅子が躍り出た。まずい、もう隠れる場所が無い上、車はまだ100mほど先だ。

 ブーツの中がクッチャクッチャと音を立て始めた。血が溜まっているのだ。大蔵の体は複数の銃弾を浴びたように赤い斑点だらけだった。

 右腕を見ると袖が裂けて15㎝ほどの裂傷が見え、傷の奥に骨のような物が見えている。もう俺は駄目だ、こうなれば鏡獅子と刺し違えるしかない。

 覚悟を決めた大蔵は立ち止まって振り返り、ライフルのボルトレバーを引いた。競り上がって来たのはたった一発の銃弾。大蔵はフッと笑った後

眉間の深い皺を寄せて眉をつり上げ、弾を薬室に押し込んだ。鏡獅子は潰れた小屋の基礎部分に前足をかけ、こちらを睨んでいる。

「ブォオオオオオオ!」

 鏡獅子の雄叫びに負けじと大蔵は叫んだ。

「来いやあああああ!」

 鏡獅子は軽快な速歩でトントンと跳ねながら道に出てくると、方向をこちらに向けてすぐさま加速を開始した。大蔵は血でぬるぬるする手を

ズボンで拭うと銃を構え、ぴたりと頬をつけた。

「冷静に考えたら相手はこっちに向かって来よるんや!よう引きつけたら外しようがないで!」

 鏡獅子があと20mほどに迫った。なおも加速し続けている。

「ブォオオオオオ!」

「うおおおおおお!」

 鏡獅子が目前に迫った時、地面に根が生えたように動かない大蔵が引き金を引いた。耳をつんざく破裂音が響く。

 そして鏡獅子の後頭部付近にパッと赤い花が咲いた直後、ドカっと大蔵は鏡獅子の直撃を受けた。大蔵は吹っ飛ばされたが、鏡獅子もまた

前足から崩れて倒れた。大蔵は糸の切れた操り人形のように道の上を転がり、その後を倒れた鏡獅子の体がザザザと追いかけてきて

大蔵の体にトンと当たって止まった。

 静寂の時が流れた後、大蔵がよろよろと手を上げた。そして鏡獅子の白銀の背中に手をぱたりと置いてつぶやいた。

「ど…どや…わいの勝ちや…」

 大蔵は青い空を見上げた。

 一羽のノスリがはるか上空で、ピーと鳴きながらゆっくりと舞っている。

「雄一…」

 大蔵は目を瞑ってふうーと長いため息を吐いた。

 

 大ちゃん


 大ちゃん


 大蔵は目を開けた。

「おいこっちや!大ちゃんえらい事なっとる!」

 信二の顔が見える。

「信二…」

「大ちゃん!気ぃついたか!」

「信二…わいやったで、鏡獅子やったった…」

「てんご言うとらんで黙っとき!もうこない血まみれで足もいがんでもて、何やっとってん、佳枝はんが昨日から帰ってないぃ言うから

まさかとは思たけど」

「ほんまやて…」

「なんぼ大ちゃんの腕が達者ゆうてもほんなやにこい相手ちゃうやろが、案の定やんけ」

 大蔵は手を伸ばして鏡獅子の体に触れようとしたが、手はパサリと草むらに落ちた。大蔵が鏡獅子の倒れていた場所に顔を向けると

一本の白い糸のようなものが草に絡みついてふわふわと風に揺れていた。大蔵はニヤリとしてそれを掴んだ。

「ふふふふ、っくっくっく」

「あかん、大ちゃんが逝ってもた」


 大蔵は作業台から手入れの終わった銃を手に取って眺めた。そしてさっと構えると壁にかかっている時計を狙った、そして銃を下ろし

右側の車輪を回して向きを変え、さっと構えて壁にかけられた額縁を狙った。

「もう、お父ちゃん何やっとんの、まさか治ったらまた猟に出かけよおもてんちゃうやろな」

 縁側に座って洗濯物を畳んでいた佳枝が、さきほどから顰め面でチラリチラリと大蔵の様子を見ていたが、しびれを切らして言った。

「いやおもてへんおもてへん」

 大蔵はポケットから一つの薬莢を取り出して眺めた。

「ほんまやろな、毎日毎日鉄砲ばっかりいろてからに」

 まるで信用していない様子で横目に大蔵を見る佳枝にはまるで目もくれず、大蔵は言った。

「ほんまやでー」

 そして薬莢を再びポケットに仕舞うと銃を膝に乗せて車椅子を動かして額縁に近づいた。そして額縁にピンと張って貼り付けられた白銀

の糸をなぞった後、その横に型にはめ込まれている白いかけらに指を滑らせた。大蔵は目を閉じた。あの山の風景が広がって風の音が聞こえる。

 空に舞うノスリのピーという鳴き声。白銀のたてがみをなびかせて雄々しく立つ鏡獅子とその咆吼。大蔵は膝が震えた。

「お父ちゃんまたなっとんで!」

 大蔵はフッと現実に引き戻された。大蔵の指の震えで額縁がガタガタと音を立てていた。

「ほんまによー言わんわ、骨盤めがれといて、ほの骨盤から出てきた猪の牙を後生大事に額縁に入れとくやなんて」

 大蔵は額縁から手を離し、座卓の所まで車椅子を動かして行くと、煙草を手にとって一本抜いて咥えた。そしてライターを手に取ると

肘掛けに手を置いたままカチカチとライターを鳴らせながら少し考えた後、ライターを置いて煙草を箱に戻した。そして佳枝の方を向くと言った。

「お母ちゃん」

「なんや!」

「わい煙草止めるわ」

「ほらまた殊勝なこって、お医者はんから止めなはれって言われて大分なりますけどな」

「この前の旭龍山と若東の取り組み、勝負つかんかったなぁ」

「なんや急に、まあ珍しかったなぁ、両方とも筋痛めるやなんて」

 忙しく手を動かす佳枝が素っ気なく答えた。

「どうにもすっきりせん」

 自分に目を向けながらながらにこにこと笑う大蔵に、佳枝は訝しげな顔をした後、知ったことかと顔を背けた。

 大蔵は再び作業台まで行くと、再び銃を分解し始めた。

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