1.本日は異世界転移ですか? 転生ですか?
青々とした草の匂いを感じて、芳目 トシキは目を開けた。
気付けばトシキは広い広い麦畑に立っていた。あたり一面に、重そうに頭を垂れる麦が見える。
麦はまるで海のように風にそよいで波打っていた。いつかみた動画の海と重なる。空を見ればはるか高く。一匹の小さな鳥が飛んでいるのが見えた。
「ここ、どこだろう?」
トシキにはどうして自分がここにいるかわからなかった。
最後の記憶は、多くの医者に囲まれて様々な生命維持装置につながれていたところだ。治る見込みのない難病のせいで、立つこともできなくなった末の終焉がそこにはあったはずだ。
それがどうだ。弱っていたはずの心臓は動いており、弱っていたはずの手足はこうしてトシキを支えて立っている。トシキの恰好もその時の病院着のままだ。薄いモスグリーンのズボンとシャツ。気候はよく、この薄着でも過ごしやすいくらいの暖かさ。
トシキは踏み出した。裸足の足裏を、土の感触がくすぐったい。
「立ってる……。歩いてる……。何年ぶりかなぁ……」
寝たきりの生活が長かった。忘れそうになっていた感覚が、今、全身によみがえる。
トシキは歩き方を忘れていなかったことに嬉しくなった。そのままあたりをかけまわり始める。しばらく自由な身体を堪能した後に、トシキはやわらかな土の上に倒れ込んだ。激しく脈打つ心臓も、今のトシキには心地よく感じられた。
「おぉーい。おめさん、誰だぁ?」
麦畑に倒れ込むトシキに、声がかかったのはそんな時だった。トシキは走りつかれた身体を起こす。
見れば、麦わら帽子をかぶった農夫らしき人が近付いてくるところだった。
麦わら帽子をかぶった人は、とても小さな人だった。手足は太く短く、筋肉がしっかりついている。その顔は、ほとんど髭でおおわれていた。背の高さが十七歳のトシキの半分くらいしかない。まるで小説の中に出てくるドワーフみたいだ。
「あ、ごめんなさい。おじさんの畑ですか?」
「そうだぁ。朝の様子見に来たんだや。そんで、おめさん、そんな軽装でどっから来たんだ?」
「死んだと思ったんです。気付いたらここにいました。ここはどこでしょう」
「ふぅむ……。そりゃあ、おめさん」
おじさんはそこまで言うと腰に提げていた小さな樽を呷った。どうやら中は葡萄酒らしい。葡萄の匂いとアルコールの匂いが漂ってくる。
「別の世界から来たってやつだな」
「…………へ?」
トシキは思わず間抜けな声を出した。おじさんが何を言っているのかわからなかったからだ。
◆
ドメリと名乗った髭のおじさんは、親切にこの建物まで連れてきてくれた。靴までくれたのだから本当に優しい人だ。
数時間後、トシキは円筒形をした大きな建物の前に居た。
別の世界から来た人間は、まずここに来ることになっているらしい。お礼を言おうとしたら、すでに去っていくところで、背中を向けたまま手だけ振ってくれた。
「行ってみましょう」
トシキは自分自身に声をかけた。
扉を開いた先にあったのは、相談所だった。何人もの人が職員さんらしき人に相談をしている。
トシキは目が点になった。どうみても人間じゃないモノたちがそこに交じっていたからだ。
半分以上身体が植物になっている人。頭から耳が生えている人。ドメリみたいな小さな人もたくさんいる。なかには、肌の色が緑色をした、どうみてもゴブリンとしか思えないモンスターも交じっている。
そんな存在達が、待合所よろしく並べられた長椅子に座って順番を待っているのだ。
ここはどこなんだろう。そんな疑問が再び浮上してきた。
「えーと、あの……」
「そこの方、こちらへどうぞ」
決して大きな声ではないが、よく通る低い声がトシキの耳に届いた。
見れば、空いた机の先で一人の男性が手招きをしている。
(待っている人より先に行ってもいいのでしょうか?)
そうは思うが、誰も動かないのでトシキはおずおずとその机についた。意外に椅子の座り心地がよい。
目の前には、四十代だと思われる男性が座っていた。厳格そうな顔にはべっこうぶちの眼鏡。しかも眼鏡には紐がついている。カッターシャツに紐ネクタイ。腕には事務員がよくつけるような腕カバーをつけていた。どう見ても事務員だ。
事務員はトシキに向かって深々と頭を下げる。
「ようこそいらしゃいました。世界転移・転生担当の片岡と言います」
机の上に『片岡・キミヒコ』というネームプレートが立てられているのが目に入る。耳慣れた名前と、落ち着いた声音にトシキのざわついた気持ちも落ち着いてきた。
「本日は異世界転移ですか? 異世界転生ですか?」
言ってることがわからない。
「ええと、その二つはどう違うのです?」
「異世界転移は、生活途中でいきなり異世界に転移することを言います。対して、異世界転生は前の世界で亡くなられた結果こちらの世界に来た方を言います」
「じゃあ、たぶん、異世界転生だと思います」
トシキが言うと、片岡は近くの棚から書類を一枚取り出す。
「では、ここにお名前を……。トシキさんですね。ありがとうございます」
トシキが名前を書いた書類には、『転生届』と書かれていた。
「転生は初めてですか?」
「えと、はい。そうです」
「なるほど……。稀に何度も転生される方もいますからね」
「し、質問してもいいですか!?」
トシキは勢いづいて机に乗り出した。そのトシキを片岡はやんわりと抑える。
「まずは『転生届』を作ってしまいましょう。この世界で暮らしていくのに必要な書類ですからね」
てきぱきと質問を進めていく片岡に、トシキはどんどん答えていく。やがて書類が埋まると、ようやくトシキは一息ついた。
「はい、これで書類は以上です。何か質問があればお答えしますが」
「あ、あります!」
「どうぞ」
「伝説の剣はありますか!?」
「……は?」
片岡の目が点になった。予想外の質問だったのだ。
「ここがいわゆる魔法や剣の世界で、ファンタジーの世界だということはなんとなくわかりました。僕にとって大事なのは、伝説の武器があるかどうかなのです」
トシキはずいっと身を乗り出す。
「ええ。きっとあるのでしょう。あるはずです。僕は期待しています。火は出ますか? 風は出ますか? 大地を裂いたり空間を穿ったり必ず命中したり雷を起こしたりしますか? どこにありますか? 誰が持ってますか? 手に入れられますか売ってますか手に入りますか手に入りますね? ください! 僕にください!」
「ま、待ってください!」
もはやトシキの体勢は机を乗り越えんばかりのものになっていた。のけぞった片岡の姿勢が無理のあるものになっている。トシキの目はギラギラと光り、いまにも片岡に掴みかからんとしていた。
無理もない。ここはトシキにとって夢の場所だ。
剣と魔法、不思議とファンタジー。トシキが欲しがっていたものが、ここにはある。
「すみません、私にはわかりかねます!」
「えぇ……」
トシキはがっくりと肩を落とした。椅子に深く沈み込む。
「ですが安心ください。転生した方には〝パートナー制度”というものがありますよ」
片岡はにっこり笑うとそう言ったのだった。