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柔らかいのは日の光か女性か

ああ、いつの間にかまた春が来ている。白髪が頭の6割を占めている頭をかきむしりながら漠然と思った。こういう光だけが暖かい寒い日はあれだ。なんとなく落ち着かない。それは春が来そうになってるのをなけなしの本能で感じているため胸の変なところをくすぐられているからなのか、それとも、またひとつ過ぎようとしている年に柄でもなく焦っているのか。掃除のされていないおかげで自然の曇りガラスとかしている窓からの淡い光を浴びて息ひとつ、吐いた。

「吾郎さん。」

柔らかい声がしていつものコーヒーの匂いと共に雪ちゃんがこちらを向いていた。この子はいい、茶髪で、いくつか空いているピアスなんぞというものは古臭い私から見れば低脳極まりない愚行だが、好きなんです、と柔らかい声とともに微笑までつけてもらった日にはそういうものもあるもんだ。と思わざるをえなかった。机に置かれた店のものとしては家庭的なそれにゆっくりと口をつけ酸味とほんのすこしの苦味に体から力が抜けた。

「また、へんなこと考えていたんですか?」

どこまでも柔らかい声で彼女が愛想のために私に話しかけてきた。

「春がね。近いなあと。」

自分の口から出たそれは、あまりにも軽く鈍い太鼓のように響いたが一向に構うことなくそれは彼女の元を通り過ぎたようだった。

「最近は暖かくなりましたよね。桜ももうすぐらしいですよ。」

「そうかね。」


コーヒーを飲み終わって店を出ると、コンクリートの隙間を縫った光が私を焼いた。桜、その言葉を聞いたからなのかふわりと香った気がしたのは、畳と、人形の漆のなんとも言えない匂いだった。てくてくてく、自分で歩く歩調に合わせて効果音を思い浮かべる。こんな年寄りがやっていると可愛くもなんともないことだが、先日あった友人の孫と遊んだ時に歩幅を合わせたのが妙にむずがゆい感じに楽しくて、どうせすぐ忘れる頭だからと、忘れるまでその感覚をかみしめることにしたのだ。て、て、てくてく、と、と、と。

体に残ったリズムは、あの小さい子特有の歩き方の音楽を奏でていた。本当に妙に楽しい。


ふっ、と道に生えている雑草の葉が、ゆれた。


「吾郎君。」


そう聞こえた気がした。


なんともなくてひとしきり周りを見回したあと。今度は妙に恥ずかしくなって早歩きした。早く帰ろう。

母は、いもうとが出来た時、それはもう喜んだ。私の上には二人兄がいて、男所帯の中に花が咲いたようなものだったのだ。頑固なじいさんも、うるさくて世話焼きなばあさんも、それはもう鈍いと言われている私にでさえわかるぐらいには浮かれていた。初着、七五三、雛人形。あの新しい物の独特の匂いが妹という風によって我が家に運ばれてきたのだ。今でこそ妹とは連絡を取り、飯をくい、思春期の姪っ子と少し遊んだりしているが、幼い私にはいもうとは脅威で災厄だった。食べ物は減る。我慢はさせられる。うるさい。それでもあの赤子特有の乳臭い臭いを嗅ぐとそわそわと嬉しさが柔らかい羽のように私の心をくすぐるのだった。あの懐かしい、妹が生まれた季節は今年も来るらしい。

そうか春か、春を見に行こう。



善は急げと帰路から繁華街へ回れ右。あのむず痒さが湧き上がる楽しさに変わった瞬間だった。


「三泊四日の美味しい京御膳と温泉旅行などいかがでしょうか。」

「いや、ゆっくり自分で回りたいのでね。旅館の手配だけお願いしたいのですが。」

「ほかにも様々な旅行プランをご用意いたしていますが。」

「君は耳が不自由なのかね?言っただろう、旅館の手配だけと。もういい、ほかを当たろう。」


マニュアル通りのマニュアルしかできない若者の言葉にイラついて出てきてしまった。最近の人の質は低下するばかりだ。嘆かわしい。まあこんな頑固で偏屈な爺に絡まれた方も絡まれたほうで嫌だろうが。


そういえば家に帰れば昔の名刺入れにある旅館の電話番号が残っていたかもしれない。最近は思い出すという行為自体が何かを思い出すためにやっている私にしては珍しく明瞭に名刺入れを思い出し、旅行代理店のせいでイラついていた灰色の道がまたほんのりと明るくなったような気がした。


早く帰ろう。



昔の仕事の相棒であった薄汚れたこげ茶の鞄。電車に揉まれた跡や、どこかで着いたのかよく見なければわからないがシミもある。ふわっと香るのは仕事場の匂いで、妙に胸を騒がせる。懐かしい。

いささか涙もろくなった目を拭い、目当ての黒い小さなものを取り出す。あれはいつだっただろうか、京都で学会が開かれた時にお世話になった気がするが、どこに挟んであるか等見当もつかずにとりあえず全部つかみ出す。ああ、なんと懐かしい名前の並ぶことか。めくっていくうちに目当てのモノがあった。『悠宇爐』字だけ見るとなんと仰々しい格式の高さが伺えるが、埃の積もった記憶によれば柔らかい独特の雰囲気を持った旅館だった気がする。記憶が美化されているだけかもしれないが。

電話をかけ、四月の上旬に行きたい旨を話し、了承をもらって息をつく。

最後の旅行かもなあ、と親友に聞かれたら笑って否定されそうないつになく老いた気持ちで庭を見つめた。ああ、あんなにも空が赤い。



旅行をすると決めるとなんとなくそれまでそわそわと落ち着かないものだ。まだ一ヶ月と少しもあるというのに。いつもだったら面倒なので受けない講演以来も、親友からの気味悪そうな視線も全て笑顔で受け、受け交わし、今日もコーヒーを飲む。

「ご機嫌よさそうですねえ。」

雪ちゃんが先ほど頼んだケーキを置きながらそう言った。相変わらずなんとも言えず柔らかい雰囲気を持っている。

「旅行をね、することにしたのさ。」

「あら、どこにいくんですか?」

「春を見に行こうと思ってね。」

「じゃあお土産期待してますね。」

「そうだね。気が向いたらね。」

「はい、気が向いたら。」

そう言ってあの柔らかい笑顔でふわっと空気まで柔らかくしたあと、ほかの客の注文を届けに行った。薄汚れた窓からの光も柔らかくなった気がした。



電車のなかというものはなんとも言えず嫌なものだ。他人が見える。他人が触る。本を読もうとしても部屋で読むほどの心地よさはない。音楽を聴く。耳に流れる音楽と流れる景色がなじまなすぎて自分がいるという感触がなくなっていく。

鉄の箱とはよく言ったものだが。確かに箱に入れられたおもちゃのように為すすべなく自らの存在意義が薄れ、出してもらうのを待つしかない傀儡のようにただ乗り降りを繰り替えず。死ね。と誰かに言われた気がした。

まあこれだけ年を取ればそんな若い頃の感覚等自分がどれだけ取るに足らないかわかった時に壊れ、ただ単なる便利な交通手段として感嘆するばかりだ。作った人を褒めてあげたい。

降りるべき駅名が伝えられ、一緒に降りるべき荷物と共に少々苦労しながらホームに降り立つ。柔らかな風が匂わせたのは記憶の彼方にしまわれていた妙に甘い匂いだった。


三泊四日にしては軽すぎる荷物でタクシー乗り場へ行く。行き先を告げ、窓から差し込む日光に目を細めた。


若い時には出世欲や、自分より学歴が高いものに対してのなんとも惨めな劣等感で度々失敗したものだ。

認められたい。自分が特別で、ただならぬ存在であり、自分がほかの人を馬鹿にしてもいい立場というのを。何よりも失敗することがカッコ悪くて、完璧というのがステータスで、頭の悪いやつには何を行っても無駄だ。どうせ頭悪いから考えてなどいないのだから。そう思っていた日々、日々。

若い。

なんのために人間は知識を磨くのか、何のために学会を開いて新しい研究を発表するのか。



尻に衝撃が走り意識が戻る。妙に哲学学的になりがちな思考を振り払う。一緒に頭を振っていたようでタクシーの運転手に妙な顔をされた。

「お客さんどちらから?」

「東です。」

「はあ、じゃあ遠い雪国からの足伸ばしですか。」

「いいえ、ところで旅館にはあとどのくらいでつきますかね?」

「混んでなけりゃ二十分てところでしょうかねえ、よくもまあ、渋いところを知っておいでですねえ。」

「昔、泊まったんです。一度だけですが。」

「そうでしょうとも。」

なんとも言えない笑みを浮かべながらしみじみと返事を返してなめらかに角を曲がるその人。特に返すべき返事や質問も浮かばないので黙った。外を見ると晴れていた。随分と日差しが暑い気がする。盆地だからだろうか、それとも思い込みか、眩しい日差しにやられながらできるだけ昔の記憶を掘り起こしてみる。


「先生、あと二十分ですよ。」

「わかってるさ。僕にどうしろと言うのだね。道は渋滞しているし、ほかに足はない。もう先方には連絡を入れたのだから大人しくつくのを待つしかないだろう?」

「わぁってますって。ただ不安になるじゃないですか。ただでさえ先生が変人なせいで他の教授に奇異の目で見られるのに。なんか好き好んで遅刻したみたいに見られたくないじゃないっすか。」

どこまでも歯に衣着せぬ言い方をする助手の坂下君はあきらめたようにため息をついて窓の光の中に帰っていった。眠いなら寝てれば良いともう駅から何回言ったかわからない忠告をやっと聞く気になったようだ。


初めて西に来たものだがときどき古い良い雰囲気を纏った家や店を見かけるには見かけるが、スーパーやコンビニもある普通の町だ。それに用事が用事だから楽しくもなんとも無い。懇談会なぞと言うものは腹の探りあいをしてくる面倒なやつらもいるし、楽しい酒が最近飲めていないなあとため息をつく。少しタクシーの白いシートにイラついた。

「ああ、モンゴルにでも行って草と家畜と空だけで一生を終えることはできないものか…」

ぽとっと狭い涼しい乾いた空間に投げ出した言葉は自分でも冗談かわからない。

何個目かの信号を過ぎて大分静かな場所になって来たなあと思ったらふいに声がかかった。



「お客さんつきましたよ。」

気づいたら車が止まって油ぎった顔をこちらに向けているものと目が合った。化け物みたいだ。

正常な意識を戻すために23度息を吐いて降りる。

茂る木々にうっすらと桜のにおいが混じる。ああ、ああ。

なんだろうか、旧友にあったような、心の古傷に染み入るようなこの感覚は。

荷物を降ろし、なんだか体が不思議な感覚に包まれたままで入り口まで行く。

すっと扉が開いた。



「いらっしゃいませ。油木さま。」

時代が違うような女学生風の若い子だった。着物は普通だが、髪型がなんとも古めかしく、しかしそれが彼女には一番似合いなのだろうと思わせる雰囲気を放った子だった。

眦は少したれていて、薄い化粧に少し濃い目の眉が清涼な感じを与えていた。

「やあああっと着いたぁ!」

あの後は何の音も立てずに赤子のように寝ていた彼がおきたらしい。結構なことだ。

「まったくだ。」

「人数少ないからって何も旅館で学会すること無いですよね。全く。」

「学会といってもこれは非公式だしね。僕の知り合いばかりさ。嫌なやつもいるがな。」

「またそんな敵を増やすこと言って。睨まれる、嫌味を言われるのは俺なんすよ。」

「逆にそれ以外にできることがあるのかね。」

「またそうやって。」

やれやれと言いたそうな面倒くさそうな一瞥をこちらによこし、しかし手には私の旅行カバンを持ったまま彼はロビーに入っていった。ちゃんと助手をする気はあるようだ。しかし坂下くんよ。財布はそのなかだ。


タクシーを無事に返し、ロビーで受付をして部屋に向かう。どうやら離れをとってくれたらしく悠々とした時間が過ごせそうだ。離れは古民家風な二部屋の間取りで珪藻土の壁ととても立派な梁が印象的な小さい建物だった。8畳と6畳の間取りでトイレと一応風呂付き、旅行兼学会と資料探索のために1週間半滞在するには立派すぎる部屋だった。

「先生は偏屈だから人と会わない方がいいですよね?僕ここのホテルに離れがひとつだけあるって聞いてもうごり押ししてとってもらったんですから!!大変だったんですから!」

「それはありがとう。それでは君の部屋は何階のどこだい?どうせ君は洋室で眺めのいい最上階で結局僕が泊まる部屋よりも高いところに泊まるつもりなんだろう?」

「ああー、あははははは。」

高校まで野球球児をしていたと聞くと納得する独特の爽やかさを伴った笑顔で器用に動揺している。別にいつも隠さなくても構わないというのに、限度を越して高い部屋に止まらなければ。ため息を一つ、これまたわざとらしく空気に溶かし彼を見据える。若く頭の回転も早く、人付き合いも下手ではない。これだけ見れば完璧なのだが。

「いつも君には忠告することが多くて困る。前も言っただろう『バレないようにが鉄則だ』と。」

「いや、先生の勘が良すぎるのが悪いんじゃ」

「君は詰とタイミングが甘い。」

ロビーであの少女に明らかに上客の特典であろうルームサービスと貸切温泉の話をしていなければ。それが二人から離れていたとは言え私の耳の届く範囲での話でなければ苦言も呈さず見逃したものを。

「まあ、いい。」

「へ?」

「いつも君に負担をかけていることはわかってる。君の宿泊施設フェチもな」

「その言い方は心外です。せめてホテルサービスオタクと言ってください。」

「少しは反省の色を見せないと払わないぞ」

「いや、本当にすみません。ずっと本当に中学から憧れた宿に泊まれると思わなくて」

「二割負担な」

「え。」

「二割だ。今の謝罪はとても軽い。がいつものお礼も込めて八割は負担してやる。」

明らかに不満そうだ。とても25を超えた男がする顔には見えない。最近の学生を見ていても女のような表情をする男が増えてきた。男臭い、女らしいというのはもはや犯罪に名を連ねる差別を生み出す用語となりつつあるがそれでも女か男かわからないというのはとても気持ち悪いものだ。男色の方々を否定するのではなく、同性愛者を差別するでなく、人間としてその人の性別がわからないと言うことが気持ち悪いのだ。

思考が飛びかけたところで目の前のセイベツフメイを切り捨てる。

「それともこれから旅行時には斉藤君に手伝ってもらおうか」

「払います!しっかり払います!!仕事もきっちりします!!」

「私に人類と認めていて欲しいのなら少しは誠実に頑張ってくれ」

「頑張らないと何種ですか?」

「下種だ。」

元気に吠えていた顔が一瞬で血の気が引いた色となる。周りは麗らかに日が差し、淡いつぼみをつけている桜の枝と常緑樹がすこし熱気を伴った風に吹かれ心持ち程度に揺れている。ああ多分こういうコントラストこそ美の真髄ではある。部屋に行けと促すと機械のように従って何も言葉を発さずに彼の紺のスーツは見えなくなった。

さあ、今日はこの部屋を楽しむとしよう。



 彼はもう立派な研究職として僕のあとを次教職についているらしい、ひとつ断言できるのはきっと研究費の4割以上はホテル代に消えているであろうということだ。そういえばしばらく連絡をとっていない。携帯のメモリーを確認してみようかなんて珍しい衝動が沸き起こるがひとつ息を抜いてきっと連絡がないことが一番の連絡になっているだろうと予測する。電話なんてかけた日には命日かと駆けつけられても億劫だ。

 変わらない扉があく、変わったのは扉の両脇に少しばかり公共の旅館とは思えない可愛らしい花壇ができていることだ。まるで小学校の低学年スペースにあるような花壇。パンジーとチューリップの幻影が見えた。

「いらっしゃいませ油木さま」

ふわっと光が過去に指す。少しめまいを覚えるような甘い痛みとともに変わらない涼やかな目元がそこにあった。

「お久しぶりです。紅音さん。」

完璧すぎる綺麗な笑みが柔らかく緩む

「随分、長いあいだお会いしなかったのに。」

「お変わりありませんから」

「それもそれで失礼ですよ。ですがありがたく受け取ります。吾郎さん。」

彼女のその柔らかいイントネーションは、雪ちゃんと似てるものがあるようだ。



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