全知纏
11/13(水) 同時刻
「今日も遅くなるのかい?」
「なるよ。生徒会は忙しいから」
もう何度も聞いた言葉だ。ほぼ毎日、一日に一回だけ耳に入ってくる言葉。
毎日この言葉を言うほどに、話し相手の彼女は生徒会室に足を運ぶ。それほどまでに熱心に、一体どんな仕事に取り掛かっているのか。私は知らないし、実は尋ねたこともない。
「そうか。じゃあ呼、今日は家の手伝いがあるから先に帰るよ」
正しくは、今日も。理由が違うだけで、私は今日も一人で下校する。
彼女、羽海野呼がこの学校の生徒会長になる前は、宛ら恋人のように毎日一緒に帰っていたのだけれど、その関係も今ではクラスメイトの一人程度に落ち込んだ。
いや、恋人は比喩だ。実際はそんなロマンチックなものでもなければ、もしかすると友達にもなれていないのかもしれない。
「そ。気をつけて」
「うん」
社交辞令以下の言葉に私が笑顔を返すと、眉一つ動かさずに背を向けて、行ってしまった。
ああ、悲しき片想い。
さて、手伝いがあるとは言ったものの、それにはまだ時間がある。
呼の背中を眺めているのもいいけれど、両手で秒を数え切るころには、東階段へと続く廊下を曲がって行ってしまう。時間潰しには全然足りない。
「よし。図書室に行こう」
そうと決まれば、と私は踵を返し、教室隣の中央階段に移動した。手摺をしっかり持って、一段一段確実に段を下る。
何を隠そう、私は物語を読むのがとても好きなのだ。お目当ての本はないかなーと、暇を見つけては図書室に顔を出すほど好きだ。心底、本を借りたいと思っている。
だから私は、いつもこうして階段を慎重に下り、一階の図書室へ向かう前にある職員室に設置された掲示板で図書通信を読み、好みの本を見つけて図書室に向かうことにしている。
けれど、どういうわけか私が求めた本はいつも必ず借りられてしまっていて、返却期限を過ぎても一向に返却されずに行方知れずになってしまう。
仕方がないから別の本でお茶を濁そうと探してみても、興味を惹くものはこれっぽっちも見つからない。
そんなこんなで、もう高校二年の二学期後半だというのに、私の図書カードは未だに見記入のままだ。
こんなことを、本を借りない理由にするのは自分でも如何なものかと思う。だが、敢えて言わせて貰おう。
私は国語の教科書に載っている以外のフィクションの物語を知らない。
誰かに童話の絵本を読んでもらったことだとか、幼稚園の時に昔話を読んでもらっただとか、そういう可能性はある。けれど、私はさっぱり覚えていないのだ。
だからこそ、私はこの図書カードの一冊目には、心から読みたいと思った本を刻みたい。
そんな願望と未記入の図書カードを胸ポケットに忍ばせ、今日も図書室の前に立つ。
いつも通り静かにドアをスライドさせ、抜き足差し足、音を立てないように中に侵入する。
「あら。いらっしゃい纏ちん」
見つかってしまった!……まあ、見つからなかったことなんて今まで一度もないけれど。
声の主に一応顔を向けると、レンタルカウンターと雑な字で書かれたプレートを下げた、ただ生徒用の机を二つ分繋げただけの座席に、いつも通りのガラの悪そうなお姉さんが脚を組んで座っていた。
今日は机に足を乗っけていないだけマシかな。
「やあ咲良さん。ご機嫌麗しゅう」
軽く手を上げて笑顔を見せる。相変わらずここに似合わない人だ。ここに彼女を配属させた教員には、一体全体どんな意図があるのだろう。
「今日も冷やかし?」
「さあ、それはまだわからないね。でも、例え何も借りずにこの部屋を出て行っても、貴方の機嫌には影響しないだろうから安心してくれて構わないよ」
「あのねー……こっちにだってノルマってものがあるんだからさ。この領域に土足で入り込んだなら、せめて一冊くらい借りて行ってくれないと」
「安心するといい。私はちゃんと上履きを使用しているから咎められる余地がない。そんなことよりノルマだって? 月に50冊の本を貸し出しに出さなければクビ、とかかい?」
冗談のつもりで言ったのだけれど、彼女は私の言葉で明らかに表情を変える。
どうやら彼女に搭載されている、イライラスイッチのボタンを押してしまったようだ。
「それよ!流石に50冊とか法外な数は指定されてないけどさ、あんまり本が出入りしないようならクビにするぞ!って。別に学生が本を読まないのは私のせいじゃないってのに!」
バンッと両手で机を叩き、その反動を利用して立ち上がったと思うと、上から怒鳴りつけられた。
「いやいや、むしろ半分くらいはこの様子を見て引き返したんだろうね」
「そんな度胸のない奴に、ここから本を借りてく資格なんてないわ」
むしろ、そういうちょっと気弱な連中の方がここに引き寄せられて、集まってくるんじゃないかな。一人で静かに本が読みたいからここへ来るか、自宅へ持って帰るかだろうに。まあ、後者だと気の強い人間もあり得るかな?
しかし、これ以上彼女の機嫌を悪くするのも趣味が悪いし、これくらいにしておこう。私は笑顔を作ってひらりと手を振る。
「それじゃあ、私は読書させてもらうから、貴方の愚痴はまた今度聞かせてもらうよ」
「はあ? 呼吸するみたいに嘘つくんじゃないわよ」
はてさて、彼女は私の発言のどちらについてそういっているのだろうね。
どちらも嘘だけど。
それにしても、かなり騒いでしまったから、もし万が一中に生徒がいたとしたらかなり迷惑を掛けてしまった。
少し反省しながら部屋の奥へ進んでみたけれど、やっぱりいつも通り見事にもぬけの殻。読書用の机に添え付けられた椅子が動いた形跡も一切ない。
よし。今日もこの広い部屋は私に独占権があるみたいだ。
「さて……」
いつも文学コーナーから回っているし、今日は文庫コーナーからはじめてみようか。
部屋の一番左奥にある文庫コーナーへ足を運び、両サイド背の高い本棚の一番上。つまり、私の手が届かないところを眺めながら奥に進む。
幸い目はいい方なので、それぞれの背表紙がよく見える。
順序良く個性的な題名の数々を瞳に写しながら歩いていると、一番奥の本棚の一番上の一番奥の角のところに、妙に本の列から飛び出ている一冊が割り込んできた。
「なんだか、自己主張の激しい一冊だね」
気になってしまっては後の祭り。順序なんて気にせず、好奇心に従って先にその正体を見破ってやろうと早足になる。
真下まで行って見上げてみると、それは思ったよりも薄い本だった。見た目のページ数的に、多分これは絵本だ。
でも、どうして文庫コーナーに絵本が?
というより、この高校に絵本のコーナーはなかった筈だ。どこかから迷い込んだとしたら、一体どこからだろう。咲良さんがこっそり忍ばせたのかと考えてみたけれど、そんなことをする性格じゃないし、理由がない。
よし。わからないものがあるなら調べる。これこそ知能を持つ人間の醍醐味だ。
私は足りない身長を補うため、精一杯の背伸びをして本に手を伸ばした。けれど悲しいことに、ピンッと伸ばした指先が一瞬たりとも本に触れない。
毎度の事ながら仕方がないので、適当に一番近くの席にあった椅子を両手で抱えて運び、本棚の前にセッティングする。
「よっ」
気合を口に出す。おっと、おばさんくさいとか言わないで欲しいね。そうでもしないと私は椅子の上にさえ上手く乗れない運動音痴なのだから。
出来るだけ素早く行動を終えると、バランスを取るために背凭れを抱えるようにしゃがみこむ。多少はしたない姿だけれど、誰も見ていないなら気にすることもない。
少し乱れたスカートを整え、恐る恐る本棚伝いに立ち上がり、改めて目的の本を掴む。今度は背伸びもなしに届いた。でも喜びや達成感はない。
結局なんだったのかわからないそれを引き抜いてみると、なんと表紙には一切の色がなく、白紙だった。
おかしいなと思い背表紙をもう一度確認してみるのだけれど、やっぱりそこにも何もかかれていなかった。さっき見上げたときは何か色がついていて、背表紙にもしっかり題名が書かれていたように思うけど、もしかしたら、本に対する先入観でそう見えていただけかもしれない。
さて、この本は返却場所を忘れたとかそんな理由で、誰かが適当な位置に突っ込んだと想像していたのだけれど、そんな面倒臭がりはこんな高い位置まで腕を伸ばして押し込んだりしないね。
私の手の届くような位置の棚にだって、ちゃんと本数冊分くらいの隙間があるわけだし。
うーむ。そうなると疑問は回帰することになる。こんな不思議な本、ここでは見たことがない。だいたい、こんなに真っ白では本かどうかさえ危ういじゃないか。
試しに本を開いて見ると、驚くことに中身も真っ白。シミ一つない白いページが数ページあるだけだった。
もしかしたらこれは、誰かが昼休みにここに忘れていったスケッチブックか何かだろうか。
見た目があまりに本っぽいから、咲良さんが勘違いして適当な空きスペースに放り込んだのだ、とか。ガサツだし、長身の彼女なら高い位置に本を押し込む可能性だって十分有り得る。
そうに違いないと頭で断定しているのに、私の手からそれは離れなかった。この本に釘付けになってしまったからだ。
物語も何も存在しないただの紙の集合体なのに、私の心は初めて本にトキメイタ。それに気が付くと、自然と笑みが零れた。
偶然か運命か、私がこの図書館で初めて手にとって、初めて開いた本が、こんなわけのわからないものだなんて……楽しい。楽しい楽しい楽しい!
自分でもわけがわからない程気分が盛り上がる。くっくと喉の奥で笑いを噛み締める。
よし、この本を借りてあげよう。記録のない図書カードの記念すべき一行目の欄を、何もないこの本で埋めてしまおう。
仮説通りに誰かのノートだったとしても構いやしない。それは忘れた方が悪いということにしてしまおう。レンタルの一ヶ月間、私は絶対にこいつを手放さないぞ。
子供のようにるんるん気分で咲良さんのところに向かおうと足を出すと、そこには床がなかった。
当然、私の体は重力に逆らえないまま前のめりに倒れていく。なんとか踏ん張ってはみたものの、逆にそれが原因で椅子には前部の一点に体重がかかり、まずいと思ったその時には顔面で地面に不時着していた。
一刻遅れて椅子の背凭れが脹脛に報復してきた。倒れたのはお前のせいだ!とか言われたのかもしれない。
「ふ……ふふ、あはははっ!」
もう耐えられなかった。あー可笑しい。私はこんなにおバカさんじゃないはずだ。確かに良く転んだりするけど、自分がほんの少し前にとっていた行動を忘れるなんて。
ここが図書室だということも忘れ、不可抗力ながらも乙女のファーストキスを奪った床の上で笑い転げた。
いるのは不真面目な事務員だけ。だったら少しくらい騒いだっていいじゃないか。
「……纏ちん大丈夫?」
そう思っていたのは私だけだったみたいだ。
いくら不真面目な事務員だとしても、騒ぎを聞きつければ流石に駆けつけてきてくれるみたいだ。
仰向けのまま顔をそちらに向けると、彼女は本棚から顔だけを覗かせていて、明らかに表情が引きつっている。
「大丈夫だよ。身体的にも、精神的にもね。幸い、後頭部を打ち付けたわけじゃないからね」
「あれで正気だって言われたら逆に心配だわ……ていうか鼻血鼻血!」
「おっと」
そんなものが出ていたのか。言われてみると、確かに鼻頭がなんとなくジンジンする。
いつまでも寝ているわけにもいかない。体を起こしてその場に適当に胡坐で座り直し、応急処置として制服のポケットからハンカチを出して顔を拭く。
散々転がったせいであちこちに血が跳ねていて、綺麗に拭き取るには少し時間がかかった。
「……纏ちんのそういうところ、女の子っぽくないわよね。見た目は小柄な美少女なのに」
これは驚いた。机に足を上げたりするような女性に女っぽくないと言われるとは。
あと、背が低い私にちびっこと言うのは、例え後ろに褒め言葉がくっついても禁句だ。
「あ、今失礼なこと考えたでしょ?」
今のは禁止用語に対する不満をこめた目線だけれど、失礼なことを考えたのも事実である。逆鱗に触れても困るので、今回は此方が譲歩することにしよう。
彼女の失言をそのまま水に流し、にこりと笑顔だけを返して立ち上がる。
「そんなことより咲良さん。是非、喜んで欲しい」
彼女は怪訝そうな顔をした。
「纏ちんが頭おかしくなってたことを?」
「いや、私は至って正常さ。そうじゃなくて、ついに私が例のブツを使う時が来たのさ」
えっへんと胸を張ったっていい。この些細な出来事は、学者が長年の研究の成果を実らせ、偉業を成し遂げたのと同義なのだから。そう、私にとっては。
しかし、どうやら彼女には伝わっていないようで、本気で心配そうな顔をさせてしまった。うむむ……私の言葉はそんなにも伝わり難いものなのだろうか。
察してくれそうにもないので、仕方なく此方からアプローチをかけることにする。
「やれやれ。咲良さん、この部屋で使うブツといったら……これしかないだろう?」
胸ポケットから生徒手帳を取り出し、きっちり真ん中のページに挟んでいた水色のそれを咲良さんの眼前に掲げる。
彼女は私の背丈を遥かに凌ぎ、改めてこういう動作をしてみると、そこらの男子生徒よりも背が高いなーと、私の身長の低さを思い知らされる。けれど、彼女は恐ろしく目が悪い。目が悪いのに眼鏡を掛けるのが嫌いだそうだ。なので、近眼で裸眼の彼女に物体を見せるにはこれが一番いい。
「私が入学以来手入らずのこいつに、咲良さんのお世辞に綺麗とは言えない字で貸し出し許可って書いて貰いたくてね」
「バカにしてるのか敬ってるのか、ただ下ネタが言いたかっただけなのかハッキリしなさいよ。で、どれを……え、マジで!? 纏ちんレンタルのやり方覚えたの!?」
覚えたのとは失敬な。私はたった今その順序を完璧にこなした筈だぞ。
私を子供扱いする彼女に不満の意を込め、頬を膨らませる。
「確かに背丈は小さいけれど、私は本の借り方が分からないほど幼い人間ではないぞ。素直にすごい!とか、よかったね!とか、賞賛の言葉を浴びせて欲しいところだ。高校に通い始めて一年と半年が過ぎたこの冬。ようやく興味を掻き立てられる一冊をこの手に収めることが出来たのだからね」
ぷいっとそっぽを向いてみる。こういう姿を彼女に見せるのは初めての筈だから、きっと面白い反応を返してくれるだろう。
チラリと彼女を横目で見上げてみると、呆気に取られた顔のまま停止していた。私のご機嫌ナナメになっちゃいましたよーサインには触れてくれないらしい。
停止していた咲良さんは、ごくりと生唾を飲み込んで此方に視線を向ける。やっと我に返ってくれたようだ。キリッとした表情を取り繕い、咳払い一つ。
「こほん。じゃあ、サインしてあげるから作品名を言ってちょうだい」
凛々しい表情は口から声が出た途端にあっさりと崩れた。ノルマ達成に一つ近付いたのが嬉しいのだろう。しかも、散々冷やかしに来ていた私が借りるのだから。
さて、それにしても困った。作品名を読み上げろと言われても、この本には名前なんてない。そのことを彼女に伝えると、へっ? と、気の抜けた返事を返された。
「だから、作品名がないんだ。表紙も、背表紙もない。中身さえない、なーんにもない本さ」
「へー……そんな本、ここにあったっけ?」
さて、どうだろうね。私には分からないので、両手を肩まで上げてお手上げポーズ。
その本が何時から在ったのかなんて興味ないし、たとえこの図書館の物じゃなかったとしても、もはや私にはどうでもいいことだ。
咲良さんもこの本の出所や所在に興味はないらしく、まーいっか。と。軽い調子でさらさらっと図書カードに記入してくれた。咲良さんのピンク色のペンが動くのを見ていると、なんだか心が躍る。自然と自分の頬が緩んでいるのが分かった。
「はい。題名が分からないから、日付だけ記入しておいたわ」
「それは助かる。咲良さんに頼んでよかったよ」
「そうやって子供みたいな笑顔見せてくれるだけならという可愛いのに。中身がこんなわけわかんない本に興味持っちゃう変わり者だもんね」
そんなっことを言われると、笑顔を見せたくなるね。私はにっこりと微笑んで、差し出された図書カードを受け取る。見てみると、本当に日付しか書かれていない。ありがたい限りだ。
何もないから何もない。そこに逐一理由を求める必要なんてないし、例え命名する意図がなかったとしても、何かに対して説明的な言葉や語句を形として表したその瞬間、何もないという存在は、価値の決められた一つの存在として世界に定着してしまうように私は思う。
つまりは、空欄に匿名希望と書いた時点で、それは匿名希望という名の不特定多数の存在の一つに成り下がってしまうとか、名前の付けられていない作品に無名と表記してしまうと、それは無名という名前の作品になってしまうだとか、私個人の中に定められたそういうナンセンスに値するということだ。
彼女ならそんな野暮なことはしない。というより雑な人だから余計なことはしないだろうと思ったわけだけど、読みが当たってよかった。
「はい、これでレンタルオッケー。記念すべき初貸し出しの日なんだから、ちゃんと覚えておきなさいよ?」
数字でも分かるほど女っぽくない字で書かれた11/13の文字。
偶然か運命か、今日は私の誕生日から数えて丁度一ヶ月前だ。忘れることはまずない。
「ありがとう。返却期限に返さないかも知れないけれど、問題はあるかい?」
「ないわね。誰もそんなの借りないわよ」
だろうね。だからこそ価値がある。くっくと喉奥で笑いを堪え、改めて胸に抱いた本を見る。
綺麗だ。本当に穢れのない真っ白な本。愛しささえ湧き上がってくる。一目惚れというももは、こういう感情のことを言うのかもしれない。
「あのさー……本見てニヤニヤするのやめてくれない? ホントに怖いわ」
私は他人に恐怖を与えるほどニヤニヤしていたのか。それで全く自覚がないというのは恐ろしい。恋は盲目という言葉は、とても的を射た言葉だと思った。
それにしてもさっきから例えの矛先がそもそも人間じゃない。もし人の心を読める何者かがいた場合、何を馬鹿なことを考えているのかと嘲笑されてしまうだろう。
まあその場合は全知纏という女子高生は、こういう変なやつなのだと諦めてもらおう。ちょうどこの咲良さんのように。
「さて咲良さん。私はそろそろ帰るよ。これから実家の手伝いがあるからね」
「毎日大変ね。って言っても、そんなに繁盛してないだろうし、そうでもないか」
「余計なお世話だよ」
と言っても、本当にその通りなので気を悪くすることはなかった。
見送ってくれた咲良さんに向けて手をぶんぶんと振り替えし、真っ直ぐ昇降口に向かう。
さて、本と共に100%無事に帰宅するには、いつも以上に最新の注意を払わなければ駄目だ。
私の着用している制服のポケットには絆創膏と消毒液が常備されている。
それは何故かというと、私が常にハンカチとティッシュを持ち歩くような、用意周到で出来る女子高生だからだ!
なんて答えではなく、単純に私がよく怪我をするからだ。
時には何もない所で転び、走ると滑り、受身が下手。一言で表すなら、スーパー運動音痴。
そんな私がこんな雨の中、どうすれば本を死守することが出来るだろうか……え、雨?
昇降口へと続く一階廊下、角を曲がれば目的地という所まで来て、雨の滴る窓に映った自分の姿に少し違和感を覚えて立ち止まる。
持ち物、素敵な本。以上。
ああ、またやってしまった。どうして呼も咲良さんも何も言ってくれなかったのだろう。いつものことで処理されてしまったのだろうか。
傘はおろか、カバンまで教室に置き忘れてしまったみたいだ。やれやれこういうドジな一面が、唯一自分で自覚している欠点だ。こういう些細なミスでいつもチャンスを逃しているような気がしてならない。
だけども、今日はいつもより運がいいのかもしれない。もし今雨が止んでいれば、私はきっと傘もカバンも忘れたまま下校し、途中で復活した雨によって本諸共ずぶ濡れになっていただろう。まさに悲劇だ。
窓の中の自分にちょっぴり感謝し、お礼にと微笑みかける。すると、窓に映る自分の鼻からつーっと血が垂れてきた。おいおい窓の中の私さん。自分の笑顔の愛らしさに興奮して鼻血を垂らすなんて、流石に情けないぞ。
……冗談。さっきの顔面着陸によるダメージがまだ残っているのだろう。既に血で汚れたハンカチをスカートのポケットから取り出し、ぐっと鼻を押さえる。
うーむ、鼻にティッシュか何かつめておいた方がいいかもしれない。たしかカバンの中に今朝校門で配っていた学習塾の宣伝用ポケットティッシュが一つあった筈だ。とにかく教室に戻らないことには何も始まらない。
左手で鼻を押さえ、右手で本を抱き、私は両手が使えないハンデを背負ったので、いつもよりゆっくりと、扱けたり躓いたりしないように手すりに体を預けながら慎重に中央階段を登る。転ばずに教室にたどり着けますように。