新宿貫
11/17(日) 12:30 p.m.
こんなつもりではなかったのに。
俺は、こんな時間から帰路についている。
今日は一日カフェで働き詰めの予定だったが、店長の粋な計らいというやつでこうして帰宅を命じられた。
正しくは、一時帰宅だ。
「毎週毎週、せっかくの休日を仕事で潰すんじゃない。たまにはしっかり家族サービスしろ!」
とのお達しで、店に妹と弟を連れて行くことになったのだ。
決して悪い話ではないが、店長に末っ子の話をするべきではなかった。あの人は人が良すぎる。
話の流れで不意に言ってしまっただけで別に同情を誘うつもりはなかったし、店長もそんな風には受け取っていないだろう。
「やっぱ、気を使わせているよな……」
当たり前のことだ。誰だって親しい仲になった相手の家族が大病を患っていると聞けば気を使う。俺だってそうだ。
何かと俺たち家族に良くしてくれる店長には、本当に頭が上がらない。
いくら小さな喫茶店とはいえ本当はもっとバイトを雇ってもいいはずだが、俺の希望するシフトを優先するためにそれをしていない。
今日は店長と奥さん、それに新人のバイトをやとったから大丈夫とのことだが……よし。彼奴らを店に連れて行って、忙しそうなら俺も手伝おう。
「おい姉ちゃん……悪いことは言わねぇから、さっさと謝ったほうが身のためだぜぇ?」
商店街を抜けて自宅に向かう途中、あからさまな不良口調が耳に入った。悪さをするならもっと隠れてやるべきだ。
声のしたほうを見ると、どうやら駄菓子屋横を抜けた裏路地のようだ。店主の婆さんがオドオドしている姿が見ていて痛々しい。
「どうした婆さん」
婆さんがこっちを向く。困り顔だ。それを確認してから原因の方へ視線を送るが、奥が暗がりになっていてよく見えない。複数人いることだけが気配でわかる。
「あら貫ちゃん、いらっしゃい。でもごめんねえ……」
「悪い、駄菓子を買いに来たんじゃない。婆さんが困ってるみたいだから、助けに来たんだ」
婆さんが頭を下げようとするのを手を軽く出して止めてもらい、俺が店に近付いた理由を伝える。
優しい子だねえ、と婆さんはくしゃりと表情を崩したが、また困り顔になって俺の顔をじっと見る。
「安心しろ婆さん。俺が強いのは、婆さんだって知ってるだろう? 何があったかまでは聞かない。どちらが悪かだけ教えて欲しい」
この駄菓子屋は、いかにも古き良き駄菓子屋って感じの駄菓子屋だ。
ずらっと並んだお菓子には値札が一つも付いておらず、婆さんがお菓子の位置から値段などその全てを把握している。
うちのやつらだって利用してる子供達の憩いの場に、あんな下衆な声。それだけでも十分に悪だ。
暖簾にぶら下がったハエ叩きを引っ掴み、婆さんの言葉を待たずに裏路地へと一歩踏み出す。
「貫ちゃん。暴力はだめだからね?」
服の裾を掴まれ振り返ると、婆さんがまっすぐに俺を見ていた。優しい婆さんだな。悪にも慈悲をくれる。
俺が冷たいだけか。
「暴力じゃない。虫退治だ」
口元だけで笑って見せ、前に向き直る。すぐには放してくれなかった婆さんだが、何も言わずに自由にしてくれた。
それくらいの信用は得てるつもりさ。
さて、どうやって姉ちゃんとやらを助けようか。絡まれているであろう女性の声がまったく聞こえないことから推測できるのは、被害者は気の弱い女性の可能性が高いということだ。
気の強い女性なら言い返すだろうし、それができる女性なら路地裏になんて連れて行かれず、表で騒ぎが起こっているだろう。
だとしたら、いきなり現れて彼らを刺激するのはあまりよくないな。女性を人質になんて捕られでもしたら、怪我をさせてしまうかもしれない。
少しでもこっちに早く気づいて貰えるように、もう少し歩いたら足音を立てながら歩こう。
コツコツコツ。
……しまった。店のローファーを履いたまま外に出てきてしまっていたらしい。
狭い路地に足音が響く。
「あん? 誰だ?」
履きなれたスニーカーに履き替えてくるのを忘れたのは誤算だったが、気付いて貰えたのは計算通りだ。
うっすらと浮かぶ人影は三つ。倒すべき敵は三人か。
「その人を解放しろ。お前達みたいなのにはお似合いの場所だが、女性にこの場所は不釣り合いだ」
「……あ? 何言ってんのお前?」
「日陰の人間はそのまま日陰にいろ。光の下で暮らす人間の邪魔をするんじゃない」
「……だからよぉ……なにカッコつけてんだって……言ってんだよ!」
釣れた一人が此方に走ってきた。分かりやすく右腕を振り上げて。
「自覚はあるのか」
寸前まで引きつけ、無駄に勢いの乗ったそれをしゃがんでかわす。
一度乗った勢いを消すのは難しい。止まり切れずに俺の身体に引っかかってつんのめるそいつの腹部めがけて両手を伸ばして立ち上がる。
「うおわああ!」
自らの勢いで宙を跳ぶ。単純な奴を相手にするのは楽でいいな。なんて思っている間に背中で着地音。いや、墜落音か?
薄ら笑っていた残り二人から笑みが消え、いつもの静寂が路地裏に訪れる。
が、それもつかの間。
「てんめぇ!」
どこで拾ってきたのか、ひん曲がった鉄パイプを持った方がじりじりと近付いてくる。どうやら今のやりとりで学習したらしい。
こちらも武器を右手で構え、待ち受ける。
相手の苛立ちが手に取るようにわかる。
「……なんのつもりだよ」
「虫退治だ。群れるしか脳がないお前らのな」
舐めやがって……と、呟いた一匹の後ろで、もう一人が加勢しようと此方に振り向いた。全身で。
ひとまず、これで彼女に被害が向くことはもうないだろう。奴らの注意は完全に俺に向いているし、俺は負けない。
後は彼女に大人しくしてもらっていれば万事解決。それが最短かつ最適。
そう思っていた。
「んがっ!」
後ろのコバエが鳴いた。視線だけをそちらに向けると、顎を撃たれたそれがフラフラと倒れるところだった。
一体誰に?
そこには、いってー…と言いながら右手をぷらぷらとさせている金髪の彼女がいた。
そう、俺が助ける予定の彼女だ。
仲間の悲鳴に対し、俺と違って後ろへ振り向くしかなかったハエは滑稽なほど大げさに首を回し、はぁ!? と、声を上げた。
そして、金髪の彼女に向かって敵意を露わにする。
なんというか、隙しかない。人に突っかかるなら、戦い方ぐらいちゃんと学ぶべきだ。
「こっちを向け」
「うる……い"っ!?」
バッチーン!
擬音にするとそんな音だろうか。
気持ちのいい音が僅かに木霊し、反応する隙すら与えられずにその面を横薙ぎに叩きつけられたハエが、顔を覆い隠してのたうち回る。
先程隙を突かれたとはいえ、女子に顎を打たれて倒れるという醜態を晒していたコバエは、それでもなお、顔を引きつらせながら立ち上がった。
女子の力とはいえ顎に入った拳は脳を揺らす。しかし、力はそこまでこもっていなかったのだろう。当然ながら、柄は小さくとも異性を昏倒させるには至らなかったようだ。足をふらつかせ、こちらに視線を合わせてきた。
既にこちらはその頰にハエ叩きを添えたところだったが。
「ああなりたくなかったらさっさとここから去るんだな。そして二度と来るな」
「っ……だっ」
「次見かけたら警告なし、手加減なしだ」
小刻みに震えるコバエの頬を叩きで撫でてやると、頷いたのか震えているのか微妙なラインの振動をはじめ、そのままへたり込んでしまった。
去れと言ったはずなんだが……まあ、もう何もしてこないだろう。しばらくここに放置してやるか。
「……無事か?」
そう聞くのも少し憚られた。間違いなく彼女は無事でしかない。
予想外にも、自ら戦闘に参加してきた被害者。あの状況で加勢する女子なんてそういないだろう。
「助かったよ」
口をモゴモゴさせながら彼女は言う。ガムか何かを口に含んでいるらしい。
改めて彼女をしっかりと見たが、どうやら俺と年の近い女子だ。外国人みたいに綺麗な金髪の女子に見上げられると、自分が動揺しているのを自覚する。少し影のある瞳が俺を真っ直ぐに見ている。
恐ろしく美少女だ。
「俺は当然のことをしただけだ」
そう。か弱い乙女を助けることが普通。
囲うことが異常なだけだ。
俺は、当然のことをしただけだ。やましい気持ちなどない。
ハエ共をそのままに、俺たちは駄菓子屋の方へと戻りながら会話を続ける。
「当然、ね……オレなら見ず知らずの奴が絡まれててもスルーしちまいそうだ」
「どうして絡まれていたんだ?」
「……ばあさんが絡まれてたからだよ」
「だから仲裁に入ったのか?」
そっけなく返事をし、俺の隣を歩く横顔も美しい。それに、女の身でありながらそれをすることは並大抵のことではない。
元より、俺なんかの助けは必要なかったのかもしれない。
「君は女なのに俺よりも男らしいな。喋り方も男っぽいし、あの状況で手を出すほど胆が据わっているようだし……ん?」
「……」
俺の喋ってる間じっと正面を見ていた乙女が、明後日の方向に目をそらす。
一体どういうことだ?
女なのに男っぽい口調で、不良相手に一歩も引かない肝の据わり様。そして、自分よりも弱いものを助けようとする男らしさ……そうかわかったぞ。そういうことか。
「お前……」
「……」
「男勝りな性格なんだな」
「…………おう」
うちの妹にこういうタイプの女子はいないからな。そういう性格の女子もいるのだと、すぐに気がつくことができなかった。
しかし本人に直接言ってしまったのはまずかったかもしれない。乙女に男みたいだと言っているようなものだ。
「悪かった。べつに、君が男みたいだって言いたいわけではないんだ。君みたいに可愛い子にそんなことは思わない」
「……どう反応していいのかわかんねぇから、その辺で終わりにしてくれ」
はぁ、とため息をついて額を抑える乙女。俺は何かまずいことを言っただろうか……。
自分の発言を振り返る間もなく、俺と乙女は駄菓子屋に辿り着いた。子供が何人か店に来ており、婆さんはその相手をしていたが、俺たちに気付くとくしゃりと表情を崩して微笑んだ。
その笑顔だけで心が温かくなるのを感じる。俺が軽く会釈をしてハエ叩きを元の場所に引っ掛けていると、乙女はボーッと店先に並ぶ駄菓子を眺めていた。
よく見ると視線が動いているので、選別しているらしい。
「元々駄菓子を買いに来るつもりだったのか?」
「ああ。この町に駄菓子屋はここにしかねー……みたいだから」
時間も時間だ。おやつを買いに来たのだろうが、わざわざ品物の多いヒトトセデパードに行かずに商店街の方に足を運んだのか。
見た感じ年も近いし、これくらいの年代ならデパードの方が品もあって最新のものもあっていいだろうに。
本当に変わっている乙女だ。
「そういうお前は買わないのか?」
「ああ。俺は婆さんが困っているのを見て寄っただけだからな。家族を家に迎えに行く途中だ」
「……ふーん」
説明しながら左手首につけた腕時計を確認する。
今から商店街を抜けて家に帰って姉弟たちを連れてもう一度カフェに行く……ギリギリ許容範囲か。
待たせていいのか? と、金髪の乙女が訪ねてくる。別にあいつらを待たせているわけではないので構わないのだが、店長を待たせているのには変わりない。
ハエ共が復活した時が心配だが、またカフェへ向かうのにここを通る。その時に何もなかったら大丈夫だ。
「悪いな。俺は先に帰らせてもらおう」
「別に悪いも何もねーよ。むしろ予定があんのに予定取らせちまったな」
「俺が好んでやったことだ。気にするな」
「そうかい」
そうやって会話を交わして、婆さんにも軽く会釈をして駄菓子屋を後にする。
乙女と別れるのは少し惜しい気がするが……。
そう思ったが早いか、言葉が出るのが早いか。脳はおろか、脊髄すら素通りして俺の声が外気に触れる。
「俺は新宿貫だ。君の名前は?」
乙女は少しだけ薄い目を開き、俺を見つめる。そして少しの沈黙の後、答えた。
「……椿姫小春」
数日後。俺はこの姫に惚れてしまったのだと気付くことになる。




