椿姫小春:3
11/16(土) 16:30 p.m.
やがて日は少しずつ落ち始め、全知に腕を組まれたまま、本当に下らなくて取るに足りない会話をしながら歩いていると、目的地である公園が見えてきた。
あそこはオレにとっても思い出深い場所ではある。
話を少し戻すが、中学の時に母親が家に帰ってこなくなってから、オレは暫く一人だった。だが、そのことを寂しいと思ったことは殆どなかった。
帰ってこなくなるも何も、元々家にいることが少なかった母親だ。それが少しずつ段階を踏んでいなくなったものだから、寂しいと感じることもなくオレは環境に馴染んでしまったんだと思う。
慣れというよりは、馴染む。オレは母親がいないことに慣れてしまったのではない。いないことが馴染みのことなのだ。
それと、寂しさを感じない原因として、最もらしい理由は恐らくあいつの存在。あいつに出会ったのは、特に楽しいこともなく、得意だったスポーツに躍起になって過ごした中学三年間の最後の日。卒業式の帰り道だった。
同級生はみんな、母親か父親、あるいは両親が中学まで迎えにやってきていた。迎えにとは言わないものの、それでもどの生徒の親も卒業式に参列していただろう。ただ一人、オレを除いて。
その時だろうか。母親はもう帰ってこないんじゃないだろうかという仮説が、確信に変わったのは。
その時は多分、周りの生徒達が羨ましかったんだと思う。
いや、どうだろう。もう忘れてしまった。
中学入学と同時に、部活動としてはじめた野球。その試合の観戦にすら一度も見に来なかった母親だ。卒業式に来るはずなんてなかったのに……もし本当にそう思っていたなら、どうして羨ましいなんて思ってしまうかね。
その日、いつも通り一人きりの帰り道、たまたまこの公園を通りかかったのだ。中学三年間、一度も通っていなかったこの道を。
そこにあいつがいた。黒くて小さな、腹を空かせてにゃーにゃーと鳴いているあいつ。
オレはどうして、あいつを連れて帰ろうなんて考えたのだろう。
偶然通りかかった場所で出会ったことに、運命でも感じたのだろうか。
それとも、楽しそうな同級生の姿に嫉妬でもしたのだろうか。
独りぼっちで鳴いているあいつが、一人で惨めな自分の姿と重なりでもしたのだろうか。
今となっては、あの時感じたオレの気持ちなんて全くわからない。そんな前のこと、やっぱりオレは忘れてしまったのだ。
「あの公園にはジャングルジムがあるんだ」
オレの腕に絡みついていたか細い腕に、ほんの少し力がこもる。
そちらを見ると、全知は顔を此方に少し傾けて口元でニコリと微笑みオレを見ていた。
どうしてお前は、そうやって優しく笑うことか出来るんだろうな。聞かねえけど。
「まあ、公園だからあるだろうよ。それがどうした?」
全知は人差し指を立ててくるくる回し、ぐっと手をオレの顔に突きつけてニンマリと笑う。
いや、だからなんなんだ。
「当ててご覧? というサインだよ」
なるほどわからん。
だが、これから何度か使われることもあるのかもしれない。気まぐれ程度に覚えておいてやろう。すぐ忘れるかもしれんが。
さて、全知にとってはただ公園に行くのが目的というよりは、ジャングルジムがある公園に行くことに意味があることはわかった。それ以外は全くわからない。
もし全知とオレが子供から、他の子供がそうしたように、特に理由もなく潜ったり登ったり
するだろう。
だが、公園で遊ばなくなるほど肉体的にも、精神的にも成長した今となっては、何が面白いのかさっぱりわからない。そんな、公園を代表する遊具の一つであるジャングルジムだが……まさかこいつは登るつもりなのだろうか。高校二年生にもなって。
いや、ありえるな。こいつなら全く問題ない。肉体的にも精神的にも。
そもそも潜って登る。それ以上の用途を、オレは知らない。知らないものを考えたって答えなんかでやしない。
まあ、別に間違ったって罰があるわけじゃない。気軽にいこう気軽に。
「潜って登って、どうするんだ?」
とにかくそれだけは正しいだろう。それが、あの遊具の存在意義なのだから。
全知は満足そうに頷き、身体を上手い具合にくねらせ滑らせてオレの腕から離れた。
急に人肌の温もりが離れたせいで、ヒンヤリとした冬の風が、より一層低い温度で腕の一部を撫でて行く。人の腕の中で、丸まっているうちに眠ってしまったフォルテの体が小さく震えた気がしたので、少し掌を体に被せてやる。
一方器用に抜け出した筈の全知はよろけて、転びそうになりながらも体勢を整えるようにフラフラと、かなり奇妙に踊っていた。
公園の入り口辺りでバッと両腕を開いて両膝を曲げ、えらく不恰好な姿でバランスを取るように止まった。
ダンスとしては落第点だ。
「っとっと……それで、ほぼ正解だよ。潜って、登って、一番高くまで登るんだ」
そこから飛び降りる、なんて言うなよ? 子供時代に、それで足首を捻挫して泣き喚いた記憶がある。
「勿論、飛び降りるなんて野蛮なことはしないさ。そのために登るわけではないしね」
登る理由はあるのか。それは、もっともらしい理由だろうかね。
だが、そう聞いても多分全知は答えないだろう。今だって答えなかったんだから。
「実は、理由についてのヒントはもう出してあるのさ、少し前に。とにかく一緒に登ろうよ。幸い二人とも、下から覗かれてまずい格好じゃないだろう?」
確かに、二人ともスカートの類は履いていない。昼にデパートで、私服としてのヒラヒラの着用を要望された時、それは嫌だと断固として拒否したからな。
あんな落ち着かない召し物は、是非とも制服だけで勘弁して欲しい。
それはさておき、ジャングルジムに登ろうという提案についてだが、例えそのことに対した理由がなかったとしても、断る理由があるわけでもない。
オレは適当な返事を返し、ルンルン気分で鼻歌を歌いながら公園の中へと入っていく全知の後を追った。
ブランコ、滑り台、鉄棒にジャングルジム。中央には数人が座れる木製の屋根付きベンチと、本当に最低限の遊具と憩いのスペースしかない小さめの公園だ。
ジャングルジムは公園内の奥、左角にある。一応子供の憩いの場なので、通りがかりに全ての遊び場に目が届くように設計したそうだ。
だから、比較的遊ぶ位置の低いブランコと鉄棒は入り口側にあり、ジャングルジムと滑り台は奥側に設置されているんだよ。と、さっき全知に聞いた。
「椿姫さん。ジャングルジムに登るのは得意かい?」
一足先にジャングルジムに手を付けた全知がそんなことを聞いてくる。
「ジャングルジムを登ることに、得意も不得意もないだろ。ちょっと感覚の広い梯子を登るみたいなもんだ」
「その梯子を登るのがあまり得意ではないんだ」
「……は?」
「ん?」
梯子を登るのが苦手? なんだそれは。
「階段は登れるんだろ? だったらそれの応用じゃねーか」
「いや、登れないわけではないんだ。ただ苦手ってだけで、時間をかければ登れる」
その苦手ってのがよくわからんのだが……まあ、いい。とにかく登るために来たんだから、登らないとな。面倒だけど。
と、脚を掛けてから気が付いた。オレは右手にフォルテを抱えている。どうにか片手で登れないこともないが、少し危ないか。
「全知。お前はジャングルジムの天辺まで登り切るのに、だいたいどれくらい時間がかかるんだ?」
「15分くらいかな」
「わかった。じゃあ同じ登るでも、滑り台の天辺じゃダメなのか?」
それほどジャングルジムを登るのが苦手な全知が、万が一落下した場合に片手だと即座に全知のケアに対応出来ない可能性が高い。あと、慣れない体で慣れないことをするオレが、脚あるいは手を滑らせて落ちる可能性が少なからずある。そうなったら、フォルテが怪我をしまうかもしれない。
だから、こういう場合はただ階段を登るだけという、確実に安全な方法を選んだ方がいい。
全知はオレの提案に両手を合わせてなる程と頷き、ジャングルジムの天辺と滑り台の天辺を二、三度見比べ腕を組む。
「うーん……彼方は試したことがないけれど、わかった。多分、問題はないと思う」
「決まりだな」
実はフォルテを起こしてしまえば、ジャングルジムを登るのは簡単だったんだけどな。全知が登るのを手伝えたのかもしれない。
だが、機嫌を悪くして寝ているフォルテを起こすのも気が引ける。だから、全知には妥協してもらった。
対面にある滑り台へと向かいながら、前をあるく全知に声をかける。
「高さが必要だったのか?」
二つの遊具を見比べていた全知の視線はそこだったからな。多分、ある程度の高い場所を求めていて、それに最適だったのがあのジャングルジムだったのだろう。
全知はこちらを振り返らずまっすぐに滑り台を目指しながら、こくんと頷いた。
「そうさ。少しジャングルジムより低いけれど、恐らく問題ないと思う」
「ふぅん」
腕の中で、フォルテがごそごそと動いた。起こしたしまったか?
頭を軽く撫でてやりながら様子を窺ってみるが、頭を起こしてこない。ふぅ、まだ寝てるか。
視線を上げると、全知は既に滑り台の階段を登り始めている。楽しそうに鼻歌を歌っているが、両手はしっかりと手摺りを掴んでいる。
そういえば学校の階段だも、登る時も降りる時も、どちらかの手を手摺りに添えていたな。
成る程、梯子を登るのが苦手というのも分かるかもしれない。なんとなく、階段を登る足取りも覚束ないんだから。
それにしても、土曜日の夕方だというのに子供が一人もいないなこの公園。立地が悪いのか?
「……うん、問題なさそうだ。早く登っておいでよ」
此方を見ずに公園の外側を眺めながらおいでおいでをするポニーテールだが、あまりに慎重に登っていたものだから、開いていたオレとの距離もうとっくに詰まっている。
早くもなにも、頂上まであと一段なのだ。
子供が四人で店員オーバー。それくらいの小さな円形のスペースに、オレと全知は立つ。
肘の高さの手摺りを両手で握り、少し体を乗り出し気味に風景を眺める全知を横目に、オレも数年ぶりの景色を見渡す。
といっても、この高さから周りを見たことはなかったかもしれない。
公園の裏は大きな湖になっていて、芝生の向こうには比較的綺麗な水面が広がっている。片田舎だけあって、水はそう汚れていないらしい。
それにしてもあのフェンス、滑り台の高さよりも低かったのか。湖を見る分には視界の邪魔にならなくていいのだが、安全面を重視するならもう少し高くてもいい気がする。
好奇心旺盛な男の子ならこれくらいのフェンス、軽く越えてしまいそうだ。
「見せたかったんだ」
特になんの前置きもなく全知が言った。身を乗り出すのをやめて手摺りをに肘をつき、オレに笑顔を向ける。
「ここからの景色は、私がこの町だ見つけた絶景ポイント。友達が出来たら見せようってずっと思ってた」
「この湖をか?」
首を横に振られた。
「私が見せたかったのは景色さ。湖じゃなくて、ここから見える全てを見せたかったんだよ」
ここから見える全て、ねえ。
その景色とやらをもう一度見ようと頭を動かそうとすると、全知の左手が伸びてきた。狙いはどうやらオレの右頬のようだ。
両手が塞がっているせいで手を使った拒否が出来ないので、一歩後ろに下がってその手を避ける。
今度はなんだ。
「あーごめんごめん。蚊が飛んでいたものだから」
「今は冬真っ只中だ」
くっくという全知の特徴的な笑い声で、オレのツッコミは躱されてしまう。
意識的に溜息をつき、全知が手を引くのを待ったのだが、引く気配がない。
一体なんのつもりなんだとその手を眺めていると、開いていた掌が小指から順に閉じられていき、人差し指と親指だけを立てた状態でウインクを一つ。
なんとなく手の先から視線を外せないでいると、空を切るほど勢いよく左手が動いた。指差した先は公園の入り口で、丁度全知が決めポーズのような何かを決めた辺りだ。
しかし何もない。歩行者も、野良猫一匹すらいない。
「……とくに目に焼きつく景色じゃねーんだけど?」
「当たり前さ。今は魔法をかけているだけだらね」
「はあ?」
呆れ顔でそう言ってやったのだが、それを全く意に返さず悪戯っぽく笑って見せる全知が少し憎たらしくなったので、わざと顔をしかめてやる。
そうすると、可笑しそうに笑われてしまった。
「はぁ……」
溜息をついて見せると、全知は改まったようにコホンと咳払いを行い、今度はさっきと同じように指を立てた右手を高く上げた。
そして、大きく息を吸う。
「私の魔法で、椿姫さんの心を奪ってみせよう……えいや!」
力を入れて振り下ろされた右手はほんの少し空を切り、微風にも満たない風がオレの横顔に引っかかった。
今の今まで全知を見ていたのに、どうして横顔なのか。
多分、それを含めた上での魔法なのだ。
思ったよりキレのいい右手の動きに釣られ、オレの意識は吸い込まれるようにそのピンとはった人差し指の先へと移された。
そして、視線の先に映った景色。
さっきまで空にあったはずの太陽が、いつの間にやら湖に足を踏み入れている。
赤々と夕日が湖を照らし出し、僅かに波のある水面がそれを反射させて輝く。湖を取り囲んでいるなんの変哲もない芝生まで輝いて見えてくる。そんなことはあり得ないが。
正直、少しやられたと思った。このちっぽけな町で生まれてから今まで、こんな景色があることをオレは知らなかったのだ。
無駄に17年も生きているのに。
「どうだい? これが私の思う絶景ポイントだ。あの邪魔なフェンスも、これなら然程邪魔にならない」
確かに、湖の方に意識を持って行かれるから、このやたらと人工物のこいつをあまり見ないで済む。
「ああ。これは驚かされた」
「私の勝ちだね」
「いつ始まった勝負だ、それは」
しかし、こんなことをしなくても、何処かから湖に直接行ける道があったと思う。今のオレはそれを知らないことになっているが。
「勝負に勝ったから、椿姫さんは私の言うことを一つ聞かなければならなくなったね」
「ナチュラルに罰ゲームを結構しようとするな」
「罰ゲームじゃないよ。私へのごほう……ご褒美だよ」
どうして言い直したんだ。
全知は腕を組みうんうんと大きく頷いている。あくまで強制的に行使するらしい。
「ううん、なににしようか」
ええい、勝手にしろ。
全知は上を見たり下を見たりして、考えている素振りを見せているが、口元がニヤついているので本当に考えているのかは疑わしい。
元々考えていたそれを、罰ゲームを口実に実行するつもりじゃないだろうか。
頼むからまともなやつにしてくれ。晩飯おごりとか。
「決めた!」
もう夕日は半分ほどあの湖に落ちたのだろうか。それとも、自らあそこに帰って行くのだろうか。
水面を染めていた夕日は、いつの間にか公園まで染み渡っていて、それは全知とオレまで染め上げていく。
水面みたく風に靡いているわけでもないのに、夕日に染まった全知の顔が輝いて見えるのは何故だろう。
その口から放たれる言葉は、どんなに不釣り合いな罰なのだろう。
「私のことを名前で読んでくれ。私も椿姫さんのことは、名前で呼ぶから!」
……名前で呼ぶ、か。親以外にそんな経験、あっただろうか。
「それになんの意味がある?」
呼び名なんてどうでもいいのだ。ましてや、オレの名前はオレのものではない。名字で呼ばれようと名前で呼ばれようと、オレは自分を呼ばれていない。
……当たり前か。自分はもう死んだんだから。
「意味なんてないさ。ただ、友達同士が名前で呼び合ったっておかしくないだろう?」
ああ、まただ。また輝いている。オレには全知の笑顔が、眩しすぎて見ていられない。
どうしてお前は、そんな風に笑って生きていられるんだ。本当に。
「好きにしろ。罰ゲームなんだろ」
「じゃあ呼んでみてくれないか。私の名前を」
……改まってそう言われると、結構口に出し辛い。
いい渋っていると、全知はオレの頬を指先で連打し始めた。それが普通に痛いので、オレは此処ぞとばかりに顔を背ける。
「むぅ。罰ゲームは絶対なんだぞー?」
お前は気付いてないだろうが、オレは男でお前は女だ。かなりハードルの高いことを要求しているんだぞ。
なんて、言えるわけもなく。言わなきゃ解放してくれることもないだろう。
はぁ……めんどうくさい。
「はいはい纏さん。これでいいか?」
「ダメだね。呼び捨てでお願いする」
さらにハードルが上がった。あーもー、恥ずかしがってるのも馬鹿らしい……。
「……纏」
「うむ。なんだい小春?」
呼ばれるのは全くなんとも思わないな。当たり前だが。
さて、時間的にそろそろお開きだろう。学生は夕方には家に帰って晩飯を食うべきだ。ずっと眠りこけてるこいつも、起きたら腹減ったって鳴き出すだろうしな。
「じゃあ今日は此処までだ。色々助かった」
そういって別れの言葉を述べると、明らかに残念そうに肩を落とされてしまった。
こいつ、まだ遊ぶつもりだったのか。
「まあ、今日は初デートだしね。名前で呼び合うまで進展でしたら充分か」
だからデートじゃねーよ。
「仕方ない。今日は此処でお開きだ。また明後日、学校で会おう」
「ああ」
そう言って全知……あー、纏が滑り台を滑ろうとオレに背を向ける。勿論、オレは後に続いて滑ろうなんて気は毛頭ない。同じように背を向けて階段を降りる。
小春は滑らないのかい? なんて背中に声をかけられたが、そんなことは見てわかるだろう。態々答える必要もない。纏もすぐ来るだろうし、特に待とうとはしないで先に降りて公園の入口を目指して歩く。
一応歩きながら後ろを振り返ってみると、滑り台を降りた先の砂場に倒れていた。纏が。うつ伏せで。
「……あ?」
まさか急病か何かか? 慌てて駆け寄り、顔を覗き込もうと立て膝をついて腰を曲げる。オレの心配を他所に纏は両手を砂場に付いてガバッと状態を起こした。オレも慌てて体を起こす。もう少しで纏の後頭部がオレの顔面に直撃するところだった。
「ぶはっ!……いやー、滑り台を滑るっていうのも技術がいるんだね」
纏は厚着の服のあちらこちら、そして露出した顔にキメ細かい砂をくっつけたまま喋る。口に入った砂をぺっぺと吐き出しながら顔を袖で擦る。だが、その袖にも砂がついてるわけで、結局さっきより砂が付着してしまっている。
……運動音痴ってレベルじゃないなこれは。滑り台で遊ぶなんてことは幼稚園児にだって、三歳児にだってできる。座るだけなのだから。
このまま見ていても延々と砂を顔に砂を擦り付けていそうなので、フォルテを左腕と胸で抱くように体制を変え、空いた手で顔についた砂を払ってやる。
オレが手を伸ばすと、纏が気分よさそうに口元を吊り上げて顔を突き出してきたことは気に入らなかったが、無限ループを見せられるよりはマシだ。
「悪いね。ところでどうだい? 私のほっぺは柔らかいかい?」
「どういう質問だそれは。頬なんて誰でも柔らかいだろ?」
「さて、それはどうかな? 柔らかいといっても度合いがあるからね。餅みたいだとか、マシュマロみたいだとか、おっ…」
「なんだろうと柔らかいことに違いねーな」
「人生経験が足りないなー小春。柔らかいものには癒し効果がある。だから、もっと女の子に触らないと」
いつの間にか同級生に異性へのセクハラを勧められている。いや、今は同性か。だからといって、勧められたからといって、同性であることをいいことに女の子のほっぺたに易々と手を伸ばすオレではない。
そして、どうやらセクハラを推進してるらしい女子高生がオレの顔目掛けて伸ばしてくる手を引っつかみ、そのまま軽く引っ張って立たせてやる。コートの中まで砂塗れだ。
全く、どういう風にすべればこんなに器用に汚れられるのだろう。
「汚れただけで怪我はしてねーのか?」
「うん。心配かけてすまないね。本当はこのまま小春の家までついて行って、ちゃっかり部屋に上げさせてもらうって展開を考えていたんだけど、この格好じゃ入れてもらえないね」
その格好じゃなくても入れるわけには行かない。あの部屋はオレの部屋であって、椿姫小春の部屋ではないのだ。
男の服があるだけならともかく、同じ学校の男子生徒用の制服があるのはどうやったってごまかせないからな。
「とにかく帰るぞ。なんだったら、オレが家まで送ってやる」
正直それはかなり面倒くさい。だが、そういってやれば纏が満足するんじゃないかと思ったのだ。
今日一日纏と過ごしてみたが、彼女は友達と友達っぽいことをする、そんなことが楽しくて仕方がないといった様子だった。
わざわざオレなんかを友達にしなくたって、他にも友達と呼べるやつらはいくらでもいるだろうに。
「ホントかい? じゃあ、家まで手を繋ごう!」
予想通り食いついてきたが、何でそうなる。オレはフォルテを両手で抱えなおし、物理的に不可能だということをアピールしてやる。
どうやらオレの意思を汲み取った纏は唇を尖らせ、わざとらしく鼻を鳴らす。
はぁ……こんなにため息をついた日が今までにあっただろうか。自分の吐いた白い息を見ながら、敢えて悲観的に考えてみようとする。
でも実際は、こんなにため息をついてるのに、退屈していない自分が不思議で仕方がない。
だってこいつは、こんなにもめんどうで、相手をするのが億劫になるほど疲れる奴なのに。




