安喰心:2
11/13(水) 9:35 p.m.
「……落ち着いたか?」
長い間そうしていたように感じる。どうも、他人の体温に慣れない。
ずっとオレに抱きついたまま泣きじゃくっていた少女は誰なのか、もう察しがついている。そんなことは絶対にあり得ないことだから、常人には考えつかないことだが、もう既にオレの体が正常ではないわけで。
しかも、それが紛れもない現実で起きていることなら、こういう結論に至っても間違っちゃいないだろう。
「お前、さっきの黒猫か。確か名前は……」
「うん……僕はふぉるて。ふぉるて=じらそーれ、だよ」
猫耳と蜜柑色の眼鏡。それしか手がかりはなかったが、それだけでこの小動物のような愛嬌をもった少女の正体を突き止めるには十分だった。
そもそも、ここに至るまでのオレの記憶は屋上から飛び降りたところから途切れていたし、その時に助けようとしたのはあの黒猫だった。だったら、助けたはずのそうつが姿を消しているのはおかしいじゃないか。
それに、こいつはオレに言った。助けに来たと。だから多分、あの状況からオレを助けたのはこいつ、フォルテだ。
しかし、そう考えるとこいつが屋上から落ちたのは確定された出来事だということになる。オレが飛び降りてこいつを助けることを予測していたことになる。
……どうも、うまい具合に嵌められた気がしてきた。
「ふぅ……ごめんねいきなり。君は君で、いくら見た目が彼女でも、彼女じゃないんだもんね…」
耳元でフォルテが息をつき、オレの両肩に手をついて上体を起こした。息を掛けられた右耳がムズムズする。
着ている厚手のロングセーターの袖で、目をゴシゴシと擦りながらフォルテはいった。
材質が毛糸なのにそれは…と思ったが、止める隙もなかったので、彼女の目元が毛糸で擦られて真っ赤になってしまったのはオレのせいではない。
それなのに、なんとなく良心が痛む。
「と……あー、とりあえず色々と説明してくれ。ここは何処なのか、オレがどうしてこんな姿になったのか。あと、今言った彼女ってのは誰のことで、お前はどうしてオレを助けたのか」
ついでにさっさとオレの上からどいてくれと言いたかったのだが、泣きっ面の女の子に乱暴な言葉をかけるのは如何なものかと言い渋ってしまった。やれやれ……女の泣き顔ってのは、あまり良い物じゃないな。
オレの言葉にフォルテはずずっと鼻を啜り、キョトンと首を傾げ、あれ? 説明してなかったっけ? と呟いた。
なんというか、呆れてため息しかでてこない。一言も口に出していないことを説明した気でいられるというのは、才能なんじゃないだろうか。
そんな才能、どうかこれ以上開花しないで欲しい。
屋上から落ちる前は、まるで人の考えを全部読み通している風だった黒猫。だが、人のような姿をした今は考えを汲み取っている様子は全くなく、不思議そうにオレを見つめておいる。そう思えたのは気のせいか、偶然だったのだろうか。
しかしまあ、聞かせてくれというなら仕方がない。という風な呆れ顔でため息をつき、咳払いを一つ。どうやらようやく説明してくれるらしい。
さっきまで泣いていたのに、表情がころころ変わる奴だ。
「えっとね、とりあえずここが何処かっていう説明からするね。ここは、僕の家だよ!」
えっへんと胸を張る。うん、まあ、顔付きに比べれば豊満な胸を張る。
しかし、それ以上のことは言わず、威張ったポーズをとったままのフォルテを見守る。続きがあると思って黙っているわけだが、フォルテの口元が動かされることはなかった。
今ので説明終わりかよ。
「はぁ……ここが誰かの家か、宿かってことは大体予想がついてたっての。そうじゃなくてだ」
「え、違うの?」
「100%違うってわけでもないが、オレが聞きたかったことはそうじゃねー」
こいつの体重が重たいというわけではないが、オレの腰辺りに乗っかる持続的な重さが辛くなってきた。両腕でベッドに手をついて上体を起こし、首を傾げる猫耳に続ける。
「オレがここで目が覚める前の記憶は、屋上から飛び降りたところで途絶えてんだ。てっきり死んじまったと思ってたんだよオレは。ここは死後の世界…なんてことはねーだろ?」
「あー、なるほど」
ようやく合点がいったフォルテは左掌に右拳を垂直に降ろし、ポンっと音を鳴らした。
が、オレが体を起こした意図は全く察してくれない。そのまま腕を組めば、うんうんと頷いている。
この時ゆらりと黒いものがフォルテの後ろを通った気がしたので目をやると、それは尻尾だった。猫の尻尾。
どうやら耳だけではなく、尻尾も着いているらしい。いや、生えているといった方が正しいのか?
尻尾から視線を戻す際、オレに跨っているこの猫娘の太腿が目に入り、疑問からつい二度見してしまった。何故太腿が見えたのか。
どうやらこの猫娘、ロングセーターをワンピースが如く着用しているらしい。
衝撃と本能的なもので2秒程視線を停止させてしまったので、平静を装いながら視線を彼女の顔へと戻す。
気付かれてはいないようだ。はぁ…心臓に悪い。
と同時に、内面は男のままなんだなと確認がとれ、安心する。
「わかった。どこまで説明したのか忘れちゃったから、本当にイチから説明するね」
忘れたも何も、イチの説明も受けてないわけだから、ぜひゼロから始めてもらいたいものだ。
話がややこしくなりそうな予感がするから言わねぇけど。
「今からちゃんと話すけど、混乱しないでね? まー、君は自分が死ぬって言われても動揺しないような人だから、その心配はないと思うけど」
にひひと悪戯っ子の様な笑みを浮かべたフォルテはやっと立ち上がり、ようやくオレの上からどいてくれた。
オレが顔に向けていた視線を慌ててベットに落としたのは、先程彼女の説明したので言うまでもないだろう。全く……。
オレの心臓に悪影響を与える根源は、くるりと左脚軸にターンを決めて背を向ける。身軽な動作でぴょんっとベッドから飛び降り、床を少しだけ軋ませて着地した。
「えーっと、まずここの説明だね。ここは、君のいた世界とは違う世界なんだ。君のいた世界は"夢"と呼ばれる世界で、今ここにいる世界は"現"と呼ばれる世界なの。ここまでは理解した?」
同じ軸足で逆方向にターンしたフォルテは、両手の人差し指を立て、それらを言葉に合わせて交互に動かし説明してくれているわけだが、それで理解してたまるかよ。
「……すまん。もう少し詳しく頼む。違う世界ってのはどういうことだ? やっぱりここは、死後の世界ってことか?」
おそらく、彼女も彼女なりに必死に説明しているのだろう。目線を下向きから前に戻すと、うーっと唸りながら頭を抱えている姿が窺えた。
目をぎゅっと閉じて唇を尖らせ、頭をフラフラさせている。
その、なんだ。落ち着け。オレは焦ってもねーし、怒ってもないから。
いきなり聞いたことがないワードを二つも与えられて、多少混乱してるだけだ。
「えーっと、えーっと……君の知識がどれ程のものかわからないから先に尋ねるけれど、君は並行世界と呼ばれる存在については聞いたことがある?」
並行世界、ね。図書館で借りた、ファンタジー系の文庫本にそんなものが幾つかあった。並行世界、つまり俗に言うパラレルワールド。
パラレルワールドとは、現在の世界と並行して存在する世界のことだ。
簡単に今の状況に置き換えて説明すると、今オレが生きているここが一つの世界だとする。だが、もしかしたらさっき屋上から落ちて、今はもう死んでいるかもしれない。あるいは、黒猫に会わずに部屋でずっと寝ているかもしれない。この、もしかしたらの選択肢で世界が分岐して、それぞれ別の可能性をもった世界がお互いに関与せずに進んでいく。それがパラレルワールド、並行世界だ。
「オレの認識が間違っていなけりゃ、つまりオレが今までに生きてきた世界が"夢"で、どういうわけか、今はその並行世界の"現"にいるってわけだな?」
理解して貰えたことが嬉しいのか、ぱあーっと花が咲いたような笑顔になり、うんうんと頷くフォルテ。
いや、それがわかったところでオレはちっとも嬉しくないんだなーこれが。
そもそも、並行世界というものが本当に存在していたという事実を飲み込むことに時間がかかりそうだ。
それに、並行世界というにはあまりに並行ではない気がする。何故なら、オレの世界にはこんなファンタジックな存在はいなかったからだ。
「フォルテ。オレがいた世界に猫耳を生やした少女なんていなかった。あの世界と並行して進んでいる世界なら、ここまでの差は生まれない筈だ」
そう。あくまで、パラレルワールドは選ばれなかった選択肢の世界。
まさか、黒猫が猫である世界と、黒猫が人間の姿をしている世界というパラレルか? それはいくらなんでも、何でもありすぎないかねぇ並行世界さんよ。
「うーん…君って鋭いね。確かに君のいた世界には普通の人間しかいないし、多分そういう世界構造になっているんだよ。だから、いつ、どの段階でこんなにもズレてしまったのか、という問いに対しての答えは、僕にも詳しくはわからない…かな。でも、この世界と君がいた世界が並行世界だってことを証明することは出来るよ」
フォルテは悩ましげに眉を潜めたのち、キリッと真剣な表情で宣言した。
尻尾を揺らしながらドアの方へ振り返り、そのまま部屋から出て行ってしまうのかと思ったが、進行方向は斜め前の本棚の方だった。
棚の一番上の段に手を伸ばし、右端にあった、辞書のようなものを引き抜く。パラパラとページを捲りながら此方に帰ってくると、オレが座っているベッドの端に腰掛けた。
無遠慮に座ったせいでベッドは少し軋み、振動と反動で布団が盛り上がる。
フォルテはオレの存在を放置し、振り返りもせずに無言でページを捲り続けるので、仕方なくこちらから彼女の隣に移動する。この距離の移動なら、四つん這いで楽に移動できるしな。
「なんだよそれ。アルバムか?」
フォルテの隣に胡座をかき、右に右肘で頬杖をついて分厚い本を覗き込む。辞書かなにかかと思っていたが、どうやら違うらしい。
一頁に写真二枚が収まっているアルバムだ。そこにはフォルテが写っていたり、いなかったり。
うん、そうだよー。と答えながらフォルテはパラパラとアルバムをめくっているので、写真の人物たちをハッキリと見ることはできない。よく目に止まったのは、赤いコートを着た人物達だ。なにかの団体だろうか。
「あった。これが、"現"と夢"が繋がってる証拠だよっ」
それまで二枚ずつだった一頁に、一枚の少し大きなサイズの写真が収められている。そこにはさっきが目立っていた赤コートの集団が写っていた。
コートだけではなく、集まっている人間にも男女様々いるが、みんながみんな、笑顔で写っていた。
その写真の端の方に、おそらくフォルテに無理矢理引っ張られているのであろ少女だけは、なんだか困ったような、照れ臭いような笑顔を浮かべていて、それが異質で妙に目立った。
何故か一人だけ白衣を着ているフォルテが浮いていて、その隣にいたからというのも目立っている原因だろう。
寝起きのように少しボサボサになった長い髪を手で抑えながら、金髪の彼女はフォルテに片腕を抱かれている。転びそうになりながら、それでもしっかりカメラ目線で写っている少女。もしかしたら、ただカメラマンのシャッターを切るタイミングが良かっただけなのかもしれない。
その彼女を含めて、楽しそうな写真だと思った。
「で、これがどうして証拠になるんだ?」
「え、だって写ってるでしょ?」
「何が?」
「君がだよ」
そう言ってフォルテが指を指したのは、件の金髪少女。
……えーっと、つまり。
「……鏡を貸してくれ」
あ、そっか!と、今気が付いたらしいフォルテは立ち上がり、本棚の上に少し背伸びをし、手を伸ばしてそこに置いてあったらしい手鏡を掴んだ。
なぜそんなところに手鏡を。
「ほら。これが、今の君の姿だよ」
ぐいっと右手を突き出して手鏡をオレに向ける。近い近い。
上体をズラし、後ろに手をついてバランスを確保して鏡を覗き込む。そこに映るのは一人の少女。見慣れている仏頂顔ではないが、これが今のオレの姿ということか。
写真の少女と違うのは、右目を閉じているという点と、この写真のように浮かべることが出来る表情が、ほぼないというところだろうか。
「……で、どうしてオレがこの金髪と同じ外見に、女になってるんだ?」
「この子がこの世界の君だから。君が世界間移動したことで、この世界に適した体になった。平たく言えば、この子の存在に成り代わったんだよ」
あー……なるほど。つまりこの世界は、オレが女だった場合の世界。あるいは、オレがいた"夢"と性別が逆転した世界というわけか。どういう原理かは知らないが、それに順応するためにオレが女になっている、と。
ん? いやちょっとまて。フォルテの言った言葉が引っかかる。
「今成り代わってるって言ったよな。だったら、この世界のオレは今どうなってんだ?」
順応して女になっただけなら、成り代わるという説明は要らない筈だからな。それはつまり、どういうことなんだ。
フォルテは少し困ったように眉をひそめ、それでも笑おうと口元を緩ませている。明らかに、無理をしている。
「彼女はうらら=れじねす。写真のみんなは僕の仲間で、彼女は皆にとって掛け替えのない存在だった。とってもいい子で、かっこ良くて、それでいて強くて。それが去年の12月13日、僕達を守ってしんじゃった」
今にも涙が溢れ出しそうだった。だが、フォルテは決して泣き出したりはせずにじっと写真を眺めていた。
ウララ=レジネス……説明を聞く限り、自分との共通点が全くと言っていいほどかんじられないため、ああこいつはオレなんだなとは全く思えないが、言われてみれば何となく似てるかもしれない。目元とか。
疑問に思ったことを聞こうにも、変に刺激してまた泣かれると面倒だ。どうにか落ち着かせたいのだが……頭を撫でたら落ち着くだろうか。猫だし。
恐る恐る右手を猫耳頭に近付け、ぽんっと乗っける。そのまま少し待って様子を窺って見るが、嫌がっている様子はなさそうだ。
この猫耳頭を見ているところ、どうも自分が飼っていた黒猫を思い出してしまう。懐かしさなんて、今は感じてる場合じゃねーんだけど。
俯いたまま、ぼそぼそと「ありがとう」という声が聞こえたので、質問を続けても大丈夫だろう。子供をあやすように頭を撫でながら尋ねる。
「で、どうしてオレを助けてこの世界に連れてきたんだ?」
「それは……僕がもう一度会いたかったから。そして、もう二度と死なせたくなかったから。たとえ世界が違っても、外見が違っても、魂が背負う運命は同じ。僕はそれを知ってる。だから、きっと君も彼女のように死んでしまう。だけど、その運命をすでに全うしたこっちの世界に避難すれば、君が背負った"夢"での死の運命を回避できるかもしれない。そう思ったから……」
じっとオレを見つめていう金色の瞳。だが、そんなに見つめられても困る。オレは、安喰心だ。
オレを助けたのは、安喰心を救うためではなく、ウララ=レジネスを救うため。同一の存在であるオレを、向こうの世界からこちらに引き抜くことで世界に順応させ、もう一度彼女をこの世界に召喚する。
だが、その彼女の中身はオレだ。こいつはそれでいいのだろうか?
どうやらかなりはた迷惑なことに巻き込まれちまったようだ。女の体になって生き永らえるくらいなら、死んだ方が楽に決まってる。
命の恩人には悪いが、どうにかして元の世界に返して貰わねーとな。せめて、わけわからんところで死ぬより、見知ったところで余生を過ごしたい。
「で? そのウララって奴が死んで、オレが生きている理由がイマイチわからねーけど……オレが死ぬってのは本当なのか? だったら、オレは自分の世界に帰って寿命を全うしたいんだが」
ため息をつかれた。すっげーわざとらしく。
フォルテは演技くさく項垂れて見せ、流れるように顔を上げれば、キッと目力の篭った双眼で真っ直ぐにオレの瞳を貫き、口を開いた。
「もー!折角助かったのにまだそんなこと言ってる!"現"と"夢"にはちょうど一年間の時差があるの!だから、君が死ぬのは今日から一ヶ月後の12月13日!時差の存在に気が付いたのはつい最近のこなんだ……だから僕は君を探した。一ヶ月もかかっちゃったけど、必死に探して、ようやく探し出したんだよ!僕は君に生きていて欲しい。君は優しいけど、やっぱりバカだった……。猫を助けるために屋上から飛び降りるような大バカ者の君と一緒に、また笑いたい…一緒に!」
耐えきれなかったのだろう。強い意思の篭った瞳から涙をボロボロと零しながらフォルテは叫んでいた。
耳がジンジンする。ギュッと握ったセーターのそで、もう泣くまいと下唇を噛み、なおもオレを睨むその姿からは、痛いほどその思いが伝わってきた。この思いを、彼女は何度も経験してきたのかもしれない。
だが、その思いはオレ宛ではない。確かにオレは、自分の命なんかよりも野良猫の命の方を重んじるような人間として破綻した大バカ者なんだろうが、その涙はウララ=レジネスの為のものだ。オレの為に流すべきものじゃない。
「オレは、助けてくれなんて言ってない。オレが生きてたって、オレにはそのことを悲しむ奴もいなければ、喜ぶ奴もいないんだ。いなくなったって、誰も困らない。世の中は、何も変わらない。延命なんて、なんの意味もないんだよ」
友人はいない。
オレを気遣う親も、もういない。
やり甲斐だったものも、今はもうない。
唯一の家族も、もういない。
オレはフォルテの顔が見れなかった。見れるわけがない。こんなオレにはもったいなさすぎる。こんな眩しいもの、日陰のオレには受け取れない。
床を見ていた視界の端で、フォルテが立ち上がったのがわかった。そのままオレ正面に裸足の脚を運び、正面に立った。少し荒い息遣いが聞こえる。
「……僕達はもう出会っちゃった。この出会いを、なかったことにすることはできないよ。他の誰もが君を要らないと罵ったって、僕には君が必要なんだよ?」
「お前が必要だったのは、助けたかったのはオレじゃないだろ」
「ううん。僕は、君を助けたかったの。うららじゃなくて、君を」
間髪のない即答だった。だけどそんなの、信じられるわけがない。オレを助ける理由なんて、彼女にはないはずだから。
ウララ=レジネスを助ける理由しか、彼女にはないはずだから。
顔を上げた。ぽたぽたと床に涙を流す少女に、オレはさっきから負けてばかりだ。顔をあげれば、またこいつに根負けてしまうとわかっているのに。
「だからお願い。今すぐに決断できないなら、今から12月12日までここで生活してからでもいい。生きることを受け入れて欲しい。それは、死ぬことより難しいことだけど、僕もいるから」
またセーターの袖で涙を拭ったのだろう。真っ赤になった目元で微笑みながら手を差し伸べいる。他でもないオレに。
オレに生きたいという欲はない。これだけ説得されても、オレは改めて生きたいとは思えない。
だけど、目の前の少女の涙を止める手段は、他にはないようだ。本当に、泣かれると面倒くさい。勝ちが見えない勝負をするのは、本当に面倒くさい。
あと一ヶ月。一ヶ月生きればオレは死ねる。悔いなんでものは全くないが、敢えて悔いを作るなら、オレは自分のこの奇妙な経験の結末が知りたい。そうでも思わないと、彼女にイエスということは難しそうだ。
「わかったよ。一ヶ月だけ、お前に付き合ってやる」
「ホント!? うん、うんうん!がんばって生きようね!君が生きるのに飽きないように、僕も一緒に着いていてあげるから、命いっぱい生きようね!」
子供のような無邪気な笑顔でマシンガンのように自分の言いたいことを言い放ったフォルテは、またオレに飛びついてきた。苦しい、マジで苦しい。こいつ、見た目より力があって、全然身動きがとれねえ。
ベッドの上にのしかかられながら押し倒され、どうにかギブアップを伝えるためにフォルテの背中を少し強めに叩く。一応聞き腕とは逆の左手で。
それにオレはまだ、一ヶ月を生き抜く上での条件をこいつに伝えていない。
物理的なサインで理解してくれたフォルテは抱きしめる強さを弱め、なに? と尋ねてきた。どいて欲しいんだが……もういい。面倒くさい。手短に伝えて、後はテキトーに好きにさせよう。
「最後の一ヶ月、オレをあっちの世界に戻してくれ。女の姿のまんま余生を楽しむなんて、到底無理だ」
「……やっぱり慣れ親しんだ世界の方がいいよね。わかった、目を閉じて」
オレは言われるがまま目を閉じた。どういう技術かは知らないが、こいつには並行世界を行き来する技術があるみたいだし、今から早速元の世界に返してくれるんだろう。
左手を握られた。さっきまで泣いてたせいなのか、柔らかなフォルテの手は体温が上がっていて、オレの手よりも温かい。
「今から移動するけど、先に謝っておくね?」
フォルテの声が耳元で聞こえた。このタイミングで何を謝るつもりだ。
「"夢"の世界に帰っても、君の体は男に戻らないけど、ごめんね。新しい人生だと思って、一緒に楽しもうよ」
……は?
「ちょ、ちょっとま…うわぁっ!」
背中からベッドの感覚がなくなったのを感じた。それもつかの間、世界が回転し、暗転する。何も見えない。上下左右の感覚も分からず、今わかるのはオレの手を握る猫耳娘の体温と、ちょっと強く握られすぎていて感じる痛みだけ。
この取引、どう考えても詐欺られた。
だんだんと手の感覚よりも頭痛が強くなり、気が付いたらオレは意識を手放していた。
ああ、今日は人生で一番最悪な日だった。




