安喰心
11/13(水) 9:10 p.m.
なんだか体が怠い。
頭もぼーっとするし、感覚がふらついているというか、なんというか……。
また憂鬱な朝が来たのだろう。こんなに身体が怠いのは、きっと昨日夜更かししたからだ。だったら二度寝でもしよう。どうせ今日も、何もない一日だ。
そこまで考えて、昨晩のことが蘇ってきた。そもそもあれは現実だったのだろうか。たしか、突然黒猫が家のベランダにやってきて、しかも人間の言葉を話すというファンタジックなそいつが、オレが一ヶ月後に死ぬなんていう予言染みたことを言い始めたのだ。
んで、特に用事もないのに学校まで連れて行かれて、オレを助けたいとか言ってたくせにそいつの方が屋上から落ちちまって、それで……。
オレは、助けるために一緒に飛び降りた。
つまり…オレは死んだのか。だからこんなに身体が怠いということか?
いや、そもそも死んだとしたら身体が怠いも何もないだろう。だって、死んでるのだから。
……なるほど、昨晩のオレは随分と現実離れした夢を見たというわけだ。まあ夢というのはそういうものだが、よりにもよってもう一年ほど前に死んじまったペットの夢を見るなんて、どうかしてる。
だったらもう少し寝てしまおう。いつまでも、いつまでも寝ていたって、誰に怒られるわけでもない。たとえ二度寝の最中に世界が終わりを迎えたって、オレにはなんの後悔もないわけだ。
さて、二度寝をする時だが、オレはひとまず寝返りをうつ。一度目が覚めてしまうと、そのままの形で眠るというのはなんだか居心地が悪いからだ。
能動的に欠伸をして、仰向けから体を捻って左を向いて体を丸める。
……?
まず感じたのは枕の違和感。いつも使っている枕より柔らかい気がするし、布団からちょっといい匂いがする。
あと、横を向いたらわかったのだが、胸のところになにかがあるようだ。左の二の腕に妙に柔らかい感触を感じたし、なんだか圧迫されているような感覚がある。
自由に動かせる利き手を使って、手探りで自分の胸の辺りを探る。多分掛け布団を体で挟んでしまっているんだろう。
安眠を妨害する毛布の膨らみを、適当に掴んで体の外へズラそうとした。
「いっ!?」
意図しない痛みで反射的に手を離し、まどろみが覚醒へと変わる。
寝ぼけていることもあり、かなり雑に掴んだのは認める。だが、自分に痛みを感じるほど強く掴んだ覚えはない。
というか、自分の体が痛みを感じる理由が毛頭思い浮かばない。
確かめてやろうと体を起こし、寝ぼけ眼のまま布団を剥ぎ取る。
そして、痛みを鎮めるために気休め程度に撫でようと左胸を右手で触る。
……弾力がある。柔らかし、触られている感覚も、ある。
なんだ? 体を起こしてもまだ寝ぼけてんのか? 目を擦り、今度は無意識に欠伸をしながら視線を下に落とす。
そこには丘が二つあった。今日はまた随分と寝相が悪く、パジャマが壮大なシワを作ってしまったのだろうと思った。思いたかった。
正直、自分でもかなりめちゃくちゃな考え方だとは思うが、実際同じ状況になってみるといい。それが実体だなんて思わない。今までの十数年の人生で、自分の体になかったものがそこにあるだなんて、そう簡単に思えるわけがないだろう。
恐る恐る、自分の胸当たりに手を伸ばす。
むにっ。
と、やはりそこにあるわけだ。胸が。男にはあるはずのない脂肪の塊がそこにあるわけだ。
「……なんの冗談だ」
声とため息が漏れる。一体なんなんだ。オレに何があった。
首を垂れて頭を両手で抱える。金髪が肩から垂れてきて、それが自分のものなのだと気付き、連続して溜息が漏れる。一晩でこんなに髪が伸びてたまるか……。
何があったかなんて、考えるまでもない。夢なんかじゃなく、オレは学校の屋上から飛び降りたのだ。
正直、死んでもいいと思った。あの黒猫を助けられるなら、オレの命一つなんて軽いと思った。だが、死ねていない。それどころか、オレはオレではない何かになってしまったらしい。
……全く意味がわからない。誰かわかりやすく説明してくれ。
コンコン。
と、ドアが叩かれた。こんな大変な時に一体誰だと音の方へ顔を向け、情けないことにそれでようやく気がついた。
自分が今いる場所が、住み慣れた部屋ではないことに。そりゃあ家を出て、学校の屋上から飛び降りたのだから当たり前だ。
だが、ここが何処なのかという問題は、些細なことだった。今は自分の体が女になっているという怪事件で頭がいっぱいなのだ。今いる場所が知らない部屋で、知らないベッドの上だなんて情報が敵うわけがない。
と、そうは思いつつも、ノックの音に答える前に安全確認の本能が働き、脊髄的に部屋の様子見渡す。部屋の造りが全体的に木製で、どうやらログハウスのようだ。
だがログハウスと言っても、オレがイメージする金持ちの別荘のような部屋の広さはなく、この部屋はむしろ狭い。
自分が寝ているベッド以外の家具は、ベッドに寄り添うように置かれた木製の椅子と、ドアの隣にオレの身長程度の本棚があるだけ。オレの部屋か、それ並みに殺風景な部屋だ。
「えっと…入るよー?」
ドアの向こうから声が聞こえた。なんとなく聞いたことのある声だが、誰だと断定することはできない。自分の待遇具合からおそらく危険はないだろうが、体が強張っているのがわかった。
出来るだけ平静を装って声を出す。
「あ、ああ…あ?」
情けないことに声が裏返ってしまい、まるで女のような声が出てしまった。だとまだよかったのだが、残念ながらこれはオレの声のようだ。
あーあーと発声練習のように声を出してみるが、声に変化がない。これが、地声というわけだ。
あぁ、もうため息しか出てこない。額に右手を当て、項垂れる。
「よかった。無事に目が覚めたみたいだね」
ドアが開いた音がして、安心した声が聞こえてきた。
全く良くはないし、この状況を無事だと言われても困る。どう見ても、普段のオレとは明らかに違う。
どたどたと僅か数歩であろう距離を慌ただしく入ってきた何者かに、嫌味の一つでもかけてやろうと首を傾ける。
そこにあったのは、ふっくらと膨らんだ黒いセーターだった。
「よかったあーっ!うまくいかなかったのかと思ってハラハラしたんだからね!ホントにホントに、ほんっとーによかったよおおぉっ!」
躊躇なく顔面を圧迫されてしまい、とてつもなく苦しい。あと首がかなり痛い。押し倒されたというか、タックルされたというか、相当熱烈な攻撃を受けた気がする。後頭部に腕が回されている上に、何者かにのしかかられているこの状況は、一体なんなんだ。新手の殺害方法か?
こ、このままじゃ窒息する。しぬしぬ。マジでしぬ。
なんとか自由な両手で相手の両肩を掴み、逆上がりの要領で顔を外気に晒そうと力を入れる。
ぶはぁっ!
「おい…お前なんのつも……」
少し咳込みながら目を開ける。一体誰の仕業だと、顔を見てやろうとしただけだった。
視界に入ったのは、蜜柑色の眼鏡をかけた美少女。そいつは口角を上げているくせにくせに目尻からは涙が溢れていて、顔をほんのりと紅くし、じっとオレを見つめていた。そうして、不器用にニコッ笑うのだ。
そんな表情にどこか懐かしさを感じたが、同時に気恥ずかしさを覚えて目を外へを泳がせた。
彼女はそんなオレの心情なんかは御構い無しに、首元に顔を埋めて来たかと思うと、糸が切れたようにえんえんと泣きじゃくった。よかった、よかったと何度も繰り返しながら。
オレはそんな彼女に対して何をすればいいのか、どうすれば彼女が泣き止んでくれるのか、わからない。
……なにもわからない。全然何も。
オレはどうして女になったのか。
ここはどこなのか。
彼女は一体、何者なのか。
わかったことがあるとすれば、彼女が多分、おそらくきっと、悪人ではなさそうだということ。
オレは死ねなかったということ。
そして、彼女の頭でぴょこぴょこと動いていた猫の耳を、オレが見逃さなかったということだ。




