安喰心
11/13(水) 8:00 p.m.
耳障りな雨音が、朝からずっと続いている。今日はそんな憂鬱な一日だった。
外出は夕方に一度だけ。それも自分が空風やら栄養失調やらで倒れない程度の食糧を買いに行くだけなのだが、そのたった一回の外出も、雨が降っているとなれば途端に嫌気がさした。
別に一日くらい食わなくても支障はないか。
そうやって外出の予定をキャンセルしたが、だからといって特にすることがあるわけでもない。
部屋に転がっている本なんかを適当に読み進めていると、あっという間に日が落ちてしまった。太陽はオレ一人を待ってくれやしない。
時間を無駄に消費している自覚はある。だが、一人では広すぎるこのアパートの一室で、一体何をしろというのだろう。
……いや、そんなことは考えても仕方がない。悩んで考えたところで、するべきこと、生きる目的、そんなものはオレの中にはない。答えなんて出やしないのだ。
時は金なりというが、無駄に浪費したところで他の誰かが困るなんてことはありえない。オレだって困らない。
布団に頭まで潜り込もう。こうしていれば、目が覚めるころにはこの鬱陶しい雨音も止まっているだろうと、どうでもいい他人事の一つとして事を捉えて床に就こう。
その時だ。なんの考えもなく、窓の方へ目を向けた今この瞬間。
バケツをひっくり返したような量の雨水が滴る窓の向こう。人一人がぎりぎり寝転がれる程度の小さめのベランダに施された、身の丈ほどの落下防止の柵の上。そこに小さな影があった。
よく見ると、そこには四肢を柵につき、四つん這いで尻尾を振る黒猫がいた。
水滴で歪んだ景色の先に見えるそいつに、オレは見覚えがあった。いや、面影があったといった方が正しいかもしれない。
もしかしたら。そんなことは有り得ないとわかっている筈なのに、0%の可能性が捨てられない。
肩まで被っていた布団を両手で跳ね飛ばして振り払い、脇目も振らずに部屋に一つしかない窓に向かい、縁に手をかけて腕に必要以上の力を込めたが開かない。当たり前だ。もうずっと前から鍵を掛けたままなのだから。
焦っているせいか、突発的に出した右手の狙いがうまく定まらない。震える手で無理矢理に鍵をひっ掴み、乱暴に下ろして力任せに窓を開けた。
驚かせてしまうかもしれない。そう思ったときにはもう、勢いよく開いた窓は雨音を遥かに上回る音を立てて窓枠にぶつかっていた。
小さな黒猫はビクッと体を震わせ、弾かれた様にこちらを振り返った。
め、めがね……?
そいつはオレの思い出の中に眠っていた通りの予想していた姿ではなく、蜜柑色の縁をした小さな眼鏡を掛けていた。
いや、眼鏡を被っている……?
半分呆然としながらじっと黒猫を見つめていたのだが、人馴れしているのか逃げようとはしない。人慣れした飼い猫なのだろうか。
「……お前、オレと会ったことないか?」
考えるが早いか、言葉が口をつくのが早いか。返事なんて貰えるはずもないのに、オレはそいつに話しかけていた。
雨に当てられながら此方を見つめ返し、ゆるりと尻尾を振ったかと思うと、そいつは口を開けた。
「あるよ。たぶんね」
…は?
驚いたなんてものじゃない。これが現実なのかと疑った。
しかし、時々風に煽られて顔にぶつかる水滴は本物で、それは紛れもなく現実で、夢なんかじゃない。
でももしかしたら、猫の口が動くタイミングでテレビから音が聞こえただけか? いや、オレがテレビをつけているわけがない。あれはもうただの箱だ。
「着いて来て。君を助けてあげるっ」
有り得ない出来事に返す言葉が出ない。だが、そんなことにはお構いなしに、黒猫はベランダから飛び降りて行ってしまった。
わけがわからないし、面倒ごとには関わりたくないのだが……似すぎている。
一緒に暮らしていた、オレにとって唯一の家族だったあの黒猫に。
ジャージに少し厚手の長袖シャツ一枚。オレはそんなラフな格好で部屋を出た。黒猫を追うために。
紫陽花荘と名のついたアパート。そこの二階、一号室の自室を鍵も掛けず、傘も差さず、靴も履かず、数歩踏み出した先にある階段を一気に避け下りた。
階段に溜まった雨水を弾き、塗れて少し滑る砂利道も止まらずに走り抜ける。
別に急ごうと思っていたわけじゃない。「着いて来て」と言われたわけだから、今すぐに追いかけなければ何処かへ行ってしまうようなことはないだろう。
だが、あの黒猫が絶対にそこにいる。待っていてくれていると確信できなかった。
文字通り思わず走り出していたオレの脚は、黒猫が飛び降りた先にある住民共同の裏庭までオレを運び、そこで止まった。ガクガクと膝が笑い、息が切れる。
ほんの数秒走っただけで呼吸が乱れるとは……。
引きこもってから今まで、全く走ってなかったわけだし当たり前か。急ぐことも、焦ることも、時間を気にすることさえもなかったわけだし。
まあだからといって、たった数メートルの距離を走っただけで息が切れるというのは情けない。仮にも運動部だったってのに。
情けなくも息を整える為に膝に手をつき、視界に砂利しか見えなくなったオレの背中に、雨雲の切れ間から月明かりが射し込んできた。心なしか、雨も弱まった気がする。
そして、胸を抑えながら顔を上げると、探すまでもなくそいつはそこに居た。
この月明かりが無ければその小さな体が消えてなくなってしまいそうな、そんな深い黒い毛並み。それに反して、薄暗い中でもキラキラと輝く金色の瞳。
そんな何処か危なっかしい姿が、見れば見るほどアイツに似ていた。