白と赤と
夜の闇に紛れてしまった街の路地裏。
ほとんどの人間の認識から外れてしまったその場所から、少女の声が聞こえる。
「はぁ、はぁ……、ひっく」
荒い息遣いと泣き声。少女は必死だった。何度も後ろを振り返りながら、当ても無く走り続ける。
少女は小学校高学年くらいの年齢だろうか。この時間帯であれば、家族と共に夕食を食べながら今日の出来事を語り合っているのが普通と言っていい。しかし彼女にはそれができない。いや、できなくなったと言うべきか。
ついに体力の限界が来たのか、少女は立ち止まる。目には涙が浮かび、息も絶え絶えだ。
よく見ると、腕を怪我しているようだった。少女が走ってきた道には、彼女の汗と涙と、そして赤い血が点々と落ちている。傷の部分を逆側の手で押さえながら、痛みに顔を顰めている。
息を整えながら、少女は後ろを振り返った。暗く、ほんの数メートル先もよく見えない路地裏。かろうじで届く月明かりだけが唯一の光源。照らし出されているのは、コンクリートの地面や壁、そして誰が捨てたかもわからないゴミだけ。遠くからわずかに街の喧騒が聞こえてくるが、それ以外は風の音すらしない。
安堵の息を吐く少女。落ち着いて辺りを見回すと、見たことの無い場所。走るのに必死だったが、ようやく自分の状況整理ができるようになった。
ここがどこかは分からないが、街の中心部からはそんなに離れていないようだ。とりあえずはそちらの方向に行ってみよう。
そう決めて、体の向きを変えた。
「!!」
驚きのあまり声すら出せなかった。振り返った少女の目の前に立っていたのは、一人の女性。おそらくは三十代半ば。Tシャツとジーパン、その上に黄色のエプロンをつけている。一般家庭の主婦、といった認識で間違いないだろう。
しかし、彼女が放つ雰囲気は普通とは言いづらかった。
なにより目を引くのは黄色のエプロン。本来は、黄色一色。だが、彼女のつけているものには大小様々な赤い水玉模様がついていた。鮮やかな赤ではない、どす黒いと形容できる暗い赤が。
そして、乱れた長い髪の隙間から覗く血走った目。その姿はアンバランスで、殊更に恐怖を掻き立てるものだった。
少女はその場にへたり込んでしまう。
「どうして……、どうしてなの」
止まったはずの涙が溢れ出す。恐怖、そして悲しみが少女を支配する。
「ひっく、うっ、……どうしてなの」
嗚咽が漏れる。それでも少女は声を絞り出す。
「どうしてなの……お母さん!どうしてお父さんを殺したの、どうして私を…私を…」
その先が言葉にならない。口にするのが、認めてしまうのが怖くて。
少女の頭に浮かぶのは少し前に見た光景。背を向ける父親の背中から飛び出る赤い手。それは、部屋の光で暗くきらめいていた。自分の頭をなでてくれたり、毎日おいしい料理を作ってくれたりしたはずの、手。
母親が少女を見つめる。血走ったその目は、実の娘に向けるべきものではなかった。
「…だって、……を…から」
母親が何事かを言う。その声がくぐもっていて、少女にはよく聞こえなかった。もう一度その言葉を聞くために、自分の母親を見つめ返す。
そして、
母親は笑った。
「だって、あなたのことを愛してるから。そしてお父さんのことも。だから殺したの。そうなの、く、ふふふふ、くく、くふふふふふふふくふふふふ」
母親の笑い声が辺りに満ちる。壊れた音だけが、路地裏の静寂を塗り潰していく。
少女の涙は止まっていた。目の前の現実が、彼女の思考を奪う。遠くの音が、耳にまとわりつく。
「もう我慢できなかったの。もう我慢できないの。だから、だから――」
ミシリ、と音がする。それが少女の意識を現実に引き戻す。
――不幸にも。
「だから、死んで」
その言葉が合図だったかのように、母親の身体が大きく波打つ。そして、不快な音を立てながら姿が変わっていく。腕は肥大し、足から骨のようなものが飛び出し、顔が潰れていく。
少女はその様子を黙って見ることしかできない。助けを呼ぶとか、逃げるとか、そんな考えさえも浮かんでこなかった。それくらい、目の前の現実は常軌を逸していた。
歪な音が止み、再び静かになる。そこに居るのは少女と、彼女の母親、だったもの。
巨大な両腕。前腕が不自然に大きく広がり、指の先には巨大な鉤爪。身体の至る所から鋭利な棘が生えており、触れるもの全てを傷つけてしまうだろう。肌に温もりは無く、鉄のような鈍い輝きを放っている。
そして顔。血走った目はいっそう大きく開かれ、口は耳に届きそうなほど裂けている。そこから覗いて見える牙が、ギリギリと軋るような音を出す。
「さあ、死んで。いい子だから」
声だけは、変わらない。
少女の頭に浮かんだのはそれだけだった。
鋭利で巨大な爪が迷い無く、少女の頭へと吸い込まれていった。
――だが、辺りに響いたのは断末魔の悲鳴でも、ましてや狂気によって引き裂かれる音でもなかった。
どこか澄んだようなその音は、金属音。
「大丈夫か?」
立っていたのは、紺色のコートを羽織った男。歳はおそらく高校生くらい。長めの襟足が一本にまとめられ、尾のように流れている。
彼は少女の前に立ち、巨大な爪を一本の片手剣で受け止めている。白の剣は怪物の爪の太さに比べれば頼りないが、二つの均衡が崩れる気配は無い。
突然の出来事に少女は驚くばかりだったが、何とか頷き返す。
「よし。それじゃ、ちょっと大人しくしていてくれ」
言うや否や、男が剣にいっそうの力を込める。それだけで怪物の爪が弾かれ、体が傾く。
「!」
血走った目が、驚きで限界まで開かれた。
目の前には紺色の男。彼は一瞬の隙を突いて懐に飛び込んでいた。まさに電光石火の速さだ。
そして、白き刃が煌く。
鋭い刺突は怪物の胸を寸分違わず貫き、刃が異形の背中から突き出している。異形の体は小刻みに震えている。なおも何かをしようとしているのか、巨大な腕が当ても無く宙をさまよう。しかし剣が引き抜かれると、支えを失ったかのようにあっけなく地に倒れた。
「立てるか?」
男が少女に手を差し伸べる。彼女は未だ状況の変化に追いつけず、半ば機械的に手を前に出す。ゆっくりと、手と手が近づいていく。
が、不意にその動きが止まる。少女の目に映ったのは男、その後ろ。
「アァ……ころさ、殺、あいし、殺さなきゃ……」
倒れたはずの異形の母親が起き上がっていた。血走った目が少女を捉え、ゆっくり、ゆっくり、確実に近づいてくる。
そして邪魔者へ、鈍く光る爪が高速で迫る。
だが男は、恐怖に固まる少女の表情を見て苦笑した。
「大丈夫だ。“赤き狂刃”が来たから」
言葉と同時、辺りが赤に染まる。その光源を探して怪物が上を向いた瞬間――
一条の閃光が走った。
怪物の動きが止まる。その体の中央には、縦に走る一本の線。それに沿って半身のバランスが崩れ、右側が音も無く地へと伏す。
途端、異形の体に無数の亀裂が入り、そして灰となって崩れ落ちた。
かつての異形は風に吹かれ、初めから存在しなかったかのように散っていく。
その光景を見ていてのは少女と男と、一人の女。
その女は、男と同じくらいの年齢だろう。格好も同じ紺色のコート。後ろ髪をポニーテールで纏め上げている。つり目気味の鋭い眼光が、多少近づき難い印象を与えていた。しかし顔の造形は整っており、人目を引くであろう美しさをもっている。
ただ、この場でもっとも目を引くのは彼女の容姿ではなく、その右手に握られているものだろう。
それは、女の身の丈と同じかそれ以上の大きさの剣。柄の部分が不自然に大きく、それだけで槌のようにも見える。そこから伸びているのは、女の体をすっぽり隠してしまいそうなほどの巨大な刃だった。その刃は微かに赤い光を帯びており、ブゥゥンと羽虫のような音が鳴っている。
女は細身であるにも関わらす、その剣を軽々と肩に担いでいた。トントンと柄の部分で右肩で叩きながら、女は口を開いた。
「修斗、ツメが甘い」
修斗と呼ばれた男は軽く肩をすくめる。
「ん、この子の様子が気になったからな。俺としてはあの一撃で大人しくしてくれれば良かったんだが」
「それが甘い。あいつらは並の生命力じゃないから。……しっかり、殺さないと」
女の目に浮かんだものを見取って、修斗は幾分軽い感じに言う。
「ちゃんとやるつもりだったよ。優先順位ってヤツだ」
女はため息をついた。長い付き合いなのでどういうつもりなのかは分かっている。
そして、今度はじっととした半眼を向ける。
「それはそうと……あれ、やめてくれない?」
一瞬何のことか分からなかったが、すぐに思い至る。
「ああ、“赤き狂刃”か」
「好きじゃないの。周りは仕方ないにしても、修斗は名前を呼んで欲しい」
「悪かったよ、それじゃ戻るか。……美月」
言って、まだ放心状態の少女の手を引いて修斗は歩き出す。後ろを美月が続いていく。
そのポニーテールは、歩く動きに合わせて微かに揺れていた。
* * *
時を同じくして、街の中。
暗い路地裏と打って変わって、街灯や建物の窓から漏れる光に照らされ、大勢の人間が行き来している。
仕事を終えて帰宅する会社員。外食へと出かける親子。友人と遊び歩く学生達。
同じ街中だというのに、こちらは人の暖かさに溢れ、狂気の闇はまるで感じられない。ほとんどの人間の顔には明るい表情が浮かび、平和な時間を享受している。
その人ごみに紛れる一人の女。
整えられたショートカットの髪。その色は街の明るさの中でも褪せることのない、金。透き通るような白い肌が、光を受けて輝いているかのようだ。
穏やかな夜の街並み、その風景を緑の瞳が映している。形のよい唇から言葉が漏れた。
「ここなら見つかるかな……」
そして金色の女は、人ごみの中へと消えていった。