0.7ミクロンの恋
「なあ」
「あん」
「このイシと、あのカゲ。おなじじゃあないかね」
「ああ。どちらもくろうなっとるな」
「こういうのを、クロってよぶのはどうかね」
「そりゃあ、いいな。クロのイシをひらってきとくれといえば、わかりいい」
「そうだろう」
「じゃあ、こんなイシはなんとよぶかね」
「そりゃあ……シロだな」
「シロ?」
「そう。どこにあるんか、すぐにしれるから、シロ」
「ははあ。なるほどなあ。そんじゃあ、あれはどうかね」
「そらかい?」
「ありゃあ、すぐにしれるが、よるんとなればくろうなる」
「ふうむ。……アオってのは、どうかい」
「アオ?」
「あおいでみるもんは、かんじがすぐかわるだろう」
「ああ。ハやら、クモやら、かわりおるな」
「そういうんは、アオ」
「そんじゃあ……ワは?」
「ん?」
「ワは、クロかい? シロかい? それとも、アオかい」
「うーん……ミは、チや、ヒとおなじじゃろ」
「ああ。ややこはとくにな」
「ヒはあかるい。アカっちゅうのは、どうかな」
「アカか。そりゃあ、いい。ワはアカか」
「ああ。ワれらはアカ。あかるい、アカじゃ」
赤色禁止法。
赤色は人間の精神を高揚させ、凶暴性を増幅すると認められた。よって、赤色の使用、及び染料、塗料などの制作を堅く禁止するものである。また、許可無く可燃性ガス、木炭、石炭、薪、その他可燃物を燃焼させることを堅く禁ずる。
アイはそろりと足音を忍ばせ、センサーの前まで歩を進めた。ゆっくりと左右に動く監視カメラは、コンマ五秒だけ死角になる部分がある。その一瞬で通路をすり抜け外郭へと辿り着き、高周波振動カッターで切り開けばそこは既にシェルターの外側だった。
光に溢れ常に清潔に保たれている『内側』の景色は見る影もなく、無機質な薄暗いその空間をアイはポケットライトで照らす。それを口に咥えて無骨な梯子をゆっくりと登り、行き詰りのハッチを押し上げると、眩い光が彼女の目に飛び込んできた。
赤。
目に染みる程の赤が、空いっぱいに広がっていた。
法によってシェルターの中からは徹底的に排除されたその色だが、夕焼けの輝きだけは消すことが出来ない。柔らかな草の生えた地面の上に腰を下ろし、頬を撫でる風を楽しみながら、アイはそれをじっと眺めた。
やがて太陽は大地に沈み、辺りは濃紺の闇に包まれる。それを見届けて、アイは元来た道を反対の手順で戻りゆく。
「ただいま」
「おかえりなさい。遅かったですね」
「言ったでしょ? 資料センターに寄ってるって」
にっこりと笑顔を浮かべ、出迎えてくれるのはマザーと呼ばれる人工知能。正式名称は、連動型汎用系支援プログラム、ルーア。しかし人々には敬愛を込めて、ただマザーと呼ばれていた。
「夕食はいかがいたしますか?」
「今日は合成食料で良いや。メニューはお任せするよ」
「畏まりました」
優雅に一礼し、マザーは食事の準備に入る。と言っても、その身体は飽くまでただの立体映像に過ぎず、物を持ったり動かしたり出来るわけではない。代わりに動くのは、彼女に連動した家の中の全ての機械達だ。
音もなく床下から現れる椅子にアイが腰を下ろすと、テーブルが展開され、真っ新なテーブルクロスがさっと広がったかと思えば、アイの首元にナプキンがするりとまきつく。
それとほとんど同時に、食糧自動合成機がチンと音を立てた。
皿に盛られて出てくるのは、ほかほかと湯気を立てた黄色い楕円形の料理だった。芳醇なバターの香りに、とろりと半熟に焼き上げられた卵が何とも食欲をそそる。スプーンを突き立て口に運ぶと、わずかな酸味と甘みを帯びた米が口の中でほろりと崩れ、卵と渾然一体となってアイの舌を喜ばせた。
やはり、美味い。普段は趣味の一環として、そして最低限の嗜みとして自炊を行っているアイである。その腕前は同年代の友人達と比べてかなり高みにあるという自負はあったが、合成食料に味で勝ったと思えた事は一度足りとてなかった。
……しかし。
それが、偽物である事をアイは知っている。卵の上にかけられた褐色のペーストも、チキンと玉ねぎが混ざった白い米粒も、本来は別の色をしているはずだ。そもそも、卵もチキンも米も何もかも、味を似せて合成された食材であり、『それそのもの』ではない。
もっとも、それは合成食料に限った話ではない。自炊するときに使っている食材だって、そもそもは合成されたもので、家畜も野菜もシェルターの中には存在しない。他の命を奪うなどという『野蛮な事』から、人類はとうの昔に切り離されていた。
「ごちそうさまでした」
「お待ちください」
食卓を立ち、自室に戻ろうとするアイをマザーは呼び止めた。
「お客様のようです」
「繋げて」
短く言うと、マザーの姿が消え、代わりに幼い少女の姿が現れる。
『あのっ、こんばんは、今日から隣に住むことになりました、ユウと言います。
よろしくお願いします』
ユウと名乗った少女は、アイの腰くらいまでしかない小さな体をぺこりと折り曲げた。
「アイよ、よろしく。……もしかして、生まれたばかり?」
『はい。三日前に生まれました』
「そうなんだ。じゃあ、明日学校に案内してあげる」
『本当ですか? ありがとうございます!』
ユウは笑顔を浮かべ、もう一度ぺこりと頭を下げた。生まれたばかりだというのに、実に礼儀正しい。最近の孵胎器はずいぶん進歩しているんだな、とアイは感想を抱いた。彼女が生まれるときには、最低限の言葉と常識くらいしか学んでこなかったのに。
『では、今日は失礼しますね』
言って三度頭を下げ、ユウは踵を返す。そして、盛大にすっ転んだ。
「大丈夫?」
立体映像の向こうの彼女を心配し、触れられもしないのに思わずアイは手を伸ばす。孵胎器では最低限の知識と能力を与えられるが、身体の動かし方は実際に習熟するまではぎこちない事が多い。
「あ、はい、大丈夫です」
しかしユウはあっさりと起き上った。当然の話だ。人は皆、常に対ショック機構を身に纏っている。転んだ程度では掠り傷一つ負わない。
「お見苦しいところをお見せしました。それでは、失礼します」
そういって更にもう一度頭を下げて、ユウは転ばないように気をつけながら、ゆっくりと自室へと戻っていった。
「一つ、質問してよろしいですか?」
その翌日。学校への道のりを並んで歩きながら、ユウはアイに問いかけた。
「どうぞ」
「何故、私達は学校に行くのでしょうか。自宅で学習をした方が効率的ではありませんか?」
生まれ立てにしては、鋭い質問だった。
「理由はいくつかあるよ。大型の学習装置は自宅には設置しにくいとか、時間と場所をしっかりと区切った方が学習は結局効率的だとか。
でも、一番の理由は、人」
「人……ですか?」
自分を指差しながら鸚鵡返しに問うユウに、アイは頷く。
「そう。大抵の事は『マザー』が代行してくれるとはいえ、第一の資源はどうあっても人。人の発展なくしては文明の発展はないし、私達の有利性は連携にあるの。だから、人は人とふれあい、交流することをやめてはならない。更にその接触は、通信を通してよりも実際に出会う方が望ましい。そういう理屈」
「交流……」
理解しているのかいないのか、あいまいな様子でユウは頷く。そんな話をしているうちに、彼女達は学校へと到着した。
「さあ、ついたよ。ここが、学校。クラスは好きなところに入っていいけど、最初は基礎学から入った方がいいかな」
基礎学とは、学問の学問。この世にどのような学問があり、どのような研究がなされ、どう役に立っているか。そういった事を学ぶクラスだ。生まれたての人間は大抵、そこで自分のやりたいこと、進みたい道を探すことから始める。
「アイさんはどちらに?」
「私は歴史」
「……私も、歴史のクラスにいってもいいですか?」
素っ気なく答えるアイをじっと見つめ、ユウは躊躇いがちにそう尋ねた。
「それは……個人の自由だと思うけど」
多少面食らいつつもアイがそう答えると、ユウは実に嬉しそうにはにかんだ。なんでこんなに懐かれているんだろうと思いつつも悪い気はせず、彼女はユウと連れ立って歴史の教室へと向かう。
「おはよう」
「おはようございます」
教室に足を踏み入れて挨拶すると、まばらな返事が返ってきた。教室内にいるのは、バラバラな年齢の少女達だ。教室内の人数はさほど多くない。工学等に比べ歴史学というのはあまり生産的な学問とは言えず、人気もないのだ。
「新入りだよ」
「ユウと申します。よろしくお願いします」
アイが紹介し、ユウが頭を下げると、教室内の目は一斉にユウに向けられた。
「嘘! アイが人を連れてきた!?」
「貴方達の中で私はどういう評価になってるの」
にわかに騒ぎ出す教室を、アイは冷ややかな視線で眺める。
「なんだかんだで面倒見がいいのは知ってるけど、アイってあんまり人と関わろうとしないじゃない?」
教室内の意見を代表するかのように言うのは、アイが最も親しくしているエルだ。
「貴方と同じ。向こうから引っ付いてきたの」
と言っても、一方的にエルの方から話しかけるばかりで、アイの方から話しかける事は殆どなかったが、親しい事には間違いはない。
「酔狂にも生まれたてで歴史を学びたいらしいから、よろしくしてあげて」
はあい、と少女たちは朗らかに合唱する。
「ユウ、ここにある端末は自由に使っていいから。まずは、マザーのカリキュラムに従って基礎的な事から学ぶのがいいと思う。マザーの説明でわからないことがあったら誰でも教えてくれると思う」
簡潔に説明すると、ユウはアイの目をじっと見上げた。
「……別に私に聞いてもいいけど」
「ありがとうございます!」
その視線に耐えかねて一言付け足すと、大輪の花が咲くかのようにユウは表情を綻ばせた。
「そういう所がいいよね、アイは」
とりあえず彼女を手ごろな端末に押しやり、アイがいつも使っている指定席につくと、エルがニヤニヤしながらそう言った。年上の自称親友は、何かとアイをこうしてからかいたがる。
「お褒めに預かり光栄です」
アイは感情のこもらない声でそう答えて端末を手に取ると、読みかけの資料へと意識を集中させた。
「むずかしかったです……」
「でしょうね」
どことなくフラフラしているユウに歩調を合わせながら、アイは帰路を歩く。
「次からは基礎学のクラスにいったら? 年齢の近い人も多いだろうし」
基本的な知識は生まれた時点で習得していると言っても、心身の成長はまだまだこれからだ。いきなり専門的な分野の学習を始めるのは少々ハードルが高い。
「あ、でも、面白そうだなとは思いました」
「いきなりこんなカネにならない分野に足を突っ込まなくてもいいのに」
「カネ、ってなんですか?」
ポロリと出た慣用句に、ユウは小首を傾げる。
「貨幣の事。……今から200年くらい遡れば、教えてもらえるよ」
全人類が不足なく生きていくことが可能になり、貨幣制度そのものがなくなって久しい。
どのような分野を学習するにせよ将来の心配はしなくてもいいし、途中で幾らでも変えられるのだから好きにすればいい話なのだが、単に付き合いで生まれたての人間に学ばせるには歴史は少々地味すぎる、とも思う。
「私、資料センターに寄って帰るから」
「あ、じゃあ私も……」
「残念。あそこはキーがないと、入れないんだ」
まるでカルガモのヒナの様についてこようとするユウに、アイはセキュリティカードを掲げる。
「気を付けて帰ってね」
寂しそうにこちらを見やるユウに手を振り、アイは資料センターへと向かう。実際は、セキュリティカードを持っていなくとも、所持者に帯同する形でなら入ることは出来る。しかしアイはあえてそのことを伝えなかった。
懐かれるのは悪い気はしないが、あまり人付き合いをしないアイにとって四六時中べったりと傍にいられるのは少々息が詰まる。それに、今から行く場所にはついてこられるわけにもいかなかった。
セキュリティカードでセンターの中に入り、アイはどんどんと奥へと向かう。ここには通常の端末からはアクセスできない資料や、ネットワーク内には保存されていないデータなどが入ったメディアが並んでいた。
しかし、それもある程度の実績を持った人間が申請さえすれば簡単に通る程度のものであり、取り立てて隠すような内容ではない。
アイの求める情報は、その奥にあった。
人気のないセンターの最奥。壁に飾られた絵をそっと持ち上げ、その裏についたつまみをひねりあげると、壁がくるりと回転してアイの体は隠し部屋へと移動する。偶然見つけたそこは、巨大な書庫であった。
書。
ネットワーク端末どころか、多次元量子化装置でも、超粒子メモリでも、電子や磁気を用いた記憶装置ですらない。ごく原始的な、紙とインクを用いた『本』という記憶媒体が、そこにはずらりと並んでいた。
一体、誰が作ったのかはわからない。どのような目的で作ったのかも。しかし、アイはそこを酷く気に入っていた。シェルターの外、地上への道もここの文献にあったものだ。
誰も来ない、いかなる装置でも測定されていないその部屋の中で、適当な本を手に取りぱらぱらとめくる。検索も、ピックアップも、強調表示さえ出来ない実に不便な記録媒体だ。しかしそこには、他のどこでも得ることが出来ない貴重な情報が大量に載っていた。
無論、書いた後から修正することも出来ない上に、情報の共有化さえ困難なメディアであるから、その正確性は非常に低い。検証のためにわざわざ複数の異なる文献を当たる必要があったが、それさえも楽しみのうちであった。
とりわけ、アイが好んだのはやはり歴史書である。マザーの提供する情報とは異なる、生の情報がそこにはあった。といっても、別に歴史が改竄されているというわけではない。しかし、表面上の情報――その時の人口や統計からははかれない歴史が、そこにはあった。
人類が歴史という概念を手に入れてから数千年。そして恐らくはそのずっと前から、人類は戦いに明け暮れていた。歴史は殆ど火と血にまみれている。赤色が禁止されるのも至極もっともだ、と当初アイは実感した。
天候や災害に一喜一憂する必要のない、シェルターでの生活。マザーにサポートされた快適な暮らし。孵胎器によって生きるための知識や人としての道徳をしっかり身につけた後生まれてくる、知的で穏やかな人々。
愚かしい過去の人類と比べると、今の暮らしがどれほど高度で、どれほど恵まれたものであるかが実感できた。
しかし一方で、失われたものもある。と、アイは薄い表紙の本を手に取った。書籍の殆どはハードカバーの立派な装丁のものであったが、奥の方には表紙もぺらぺらの安っぽい本が並んでいた。
特異なそれを開いてみれば、中に書かれていたのはいかなる学問でもなく、絵……それも、高尚さや芸術性とはほど遠い、娯楽としての絵。すなわち、漫画であった。
酷くディフォルメされた人間たちの描写は酷く稚拙で、そのやりとりは知性に乏しく、幼稚だ。およそ文明人であるならばあり得ない話の数々に、しかしアイは強く惹かれ、取り込まれた。
中でも彼女が好んで読んだのが、恋愛譚。女と……もうこの世界にはいなくなってしまった『男』の、恋の話だ。彼等は怒りに、羞恥に、そして恋心に、赤く顔を染める。漫画の大半はモノクロで、斜線によって表現された疑似的なものであったが、話は赤に満ちていた。
現代の人類では、このようなことはあり得ない。彼らはもちろん感情を持ってはいるが、常に冷静で強い感情に思考を流されるようなことはない。論理的な思考をするのに、強い感情は単純に邪魔でしかないからだ。
赤がなければ、恋も出来ない。
今日も一冊恋愛譚を読み終え、アイはほうと息をついた。
そして今日も、アイは監視カメラの目を盗んでシェルターの外へと抜け出す。赤の話を読めばその色を見たくなり、赤い夕日を見ればそれにまつわる話を読みたくなる。交互に揺れる振り子のように、彼女は一日毎に書庫と外とを行き来していた。
なるほど、赤は人を狂わせる。まるで歴史書に載っていた薬物中毒者のようではないか。そんなことを、アイは思っていた。……その日までは。
その日、アイは昼食を食べる機会を逸していた。ユウに歴史について質問責めにされて、時間をとられたからだ。シェルターの中では感じないが、地上の季節はもうすぐ冬。夕暮れの時間は早い。
食べそびれた弁当を夕日でも見ながら食べようと、いつものようにハッチを開き、地上へと顔を出したアイのすぐ目の前に、それはいた。
つんと鼻をつく、錆びた鉄のような不快なにおい。初めて嗅ぐそれは、酷く不吉な気配を孕んでいた。知識にはなくとも、体が理解している。
赤い髪。
体から漏れ出る、赤い血液。
そして傍らでパチパチとはぜる、赤い炎。
それはまるで、この世の全ての赤を纏っているかのように見えた。
「あの……大丈夫ですか……?」
血が出るような傷を負ったことなどないアイは、すっかり気を動転させてそう尋ねた。
「……飯……何か、食い物を、持ってないか」
低く、唸るようにそれは……『男』は、答える。アイが携帯していた合成食料を取り出すと、男は引ったくるようにそれを受け取り一心不乱に貪り始めた。よほど空腹だったのだろう。恐ろしい速度でがつがつと食料を口に入れる男に水筒を渡すと、それも一気に飲み干された。
「……いや、助かった。五日ほど、飲まず食わずでな。ありがとう、お嬢ちゃん」
この後は自分が食われるのではなかろうか。そんな非現実的な考えが浮かぶほどの勢いでアイの弁当を食べ尽くした男は、意外にも紳士的な態度で頭を下げた。
「あの……怪我は、大丈夫なんですか」
「ああ、このくらいなら何でもねえ。だが脚をやられちまってな。悪いが、治るまでここにいていいか? シェルターに入ることはしねえから」
立ち上がった男は、アイが今まで接してきた人間と同種の生き物とはとても思えなかった。その背は同年代の中では長身のアイですら見上げるほどに高く、ゴツゴツとしていていかにも無骨だ。ぼろ切れのような服は清潔さの欠片もなく、口調も酷く粗野なもの。
「それは……私が、決められることでは」
「俺がここにいるって事を、口外しないだけでいいんだ。代わりに俺も、嬢ちゃんが外に出てることを口外しない。どうだい」
「……その取引は成立しません。貴方は、シェルターに存在を知られたくない。だから私のことをシェルターの誰かに伝えることも出来ない」
「そりゃそうだ。やっぱり、シェルター育ちの嬢ちゃんは頭がいいな」
男は、困ったように頭を抱えた。
「いいですよ。誰にも言いません」
どうするかな、とぶつぶつ呟く男に、アイはそう請け負う。そもそも、何故男の存在に気づいたのかと問われれば、アイがシェルターの外に出ていたことも露見してしまう。取引自体が、無意味なものなのだ。
「本当か!? そりゃ助かる。ありがとな、嬢ちゃん」
それに気づいていないのか、男は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「……アイです。その、嬢ちゃんというのは」
「ああ、悪かった。アイか。いい名前だな。俺はロックってんだ。よろしくな」
「ロックは……男の人、なんですよね?」
「女に見えるか?」
「いえ。その……男の人は、初めて見るので」
「へえ。初めてたあ、光栄だな」
言って笑うロックに、アイは首を傾げた。今のどこに笑う要素があったのかわからなかったからだ。それを見て、ロックは一転、ばつが悪そうに咳払いをした。
「でもな、あんまり外で会った人間に、そういうことは言わない方がいい。というか、出来れば関わらない方がいい。俺が言うのもなんだけどな……」
「どうしてですか? そもそも、シェルターの外に人がいる事自体、私は知りませんでした」
「外の人間は……その、中の人間と比べてあんまり育ちが良くないんだ。だから……あー、まあ、有り体に言うとろくでもない人間が多い」
「ロックもですか?」
「ズバッと聞くな、君は。変な気はないけど、信用するもんじゃあない」
言いにくそうにそう言うと、ロックは空を指さす。
「じき日も暮れる。君はもう戻った方がいい」
確かに、あまり遅くなるとマザーも不審がる可能性がある。シェルターの中に戻ろうとして、ふとアイは振り向く。
「また来ても、迷惑にはなりませんか?」
初めて出会う外の人間にして、男性。尋ねてみたいことは無数にある。知的好奇心に突き動かされて、アイはそう尋ねた。
「ああ……また飯持ってきてくれると、ありがたいかな」
アイの問いに、ロックはそう言って笑った。
その笑みが若干ひきつったのは、翌日のことだ。
「まさか翌日早速来てくれるとは思わなかったよ」
「ご迷惑でしたか」
「いや、むしろこっちが申し訳ない」
アイの持ってきた清潔な布を包帯代わりに巻きながら、ロックは頭を下げる。アイは彼の分の食料の他に、傷の治療に使えそうなものをいくつか持ち出してきていた。
「もっとちゃんとした治療器具があれば良かったんですが」
アイ達は基本的にシェルター内では怪我をしない。万一傷を負った場合は、すぐに医療センターに搬送されて専門的な治療を受けられるために、個人が所有する医療器具というものが殆ど存在しない。結局、布と消毒用のアルコール程度が限界だった。
「いや、十分だよ。ありがとう」
ロックは足の付け根を縛っていた縄を解き、ズボンを捲り上げる。ふくらはぎの辺りの肉が、ごっそりと抉れていた。しかし昨日に比べれば、出血量は大分減っている。アルコールで消毒し、布を巻くとじんわりと赤が滲んだ。
「その傷はなににつけられたんですか?」
「犬だよ。見たことは?」
「ありません」
アイは首を横に振る。人以外の……正確に言うと、人の少女以外の生き物は、シェルターの中にはいない。広義では人工知能であるマザーも生き物の範疇には入るが、実体はともかく立体映像は彼女も女性の姿をしている。
「シェルターの入り口近くには近寄らないからいいが、ここから離れると普通にうろついてるから、気をつけろよ」
「それで、ここにいさせてくれと言ったんですね。納得がいきました」
「本当は駄目なんだけどな」
命に別状はないとはいえ、この傷では走る事はおろか、歩くのも辛い。流石に猛獣に追い回されるのは勘弁してほしいところだった。
「犬は、危険な生き物なんですか?」
「そりゃあ、ごらんの通りだ。君みたいな子供は頭からパクリだぞ」
「私は子供じゃありません。もう15歳になります」
脅すように両手を構えて牙を剥きだすジェスチャーをするロックに、心外そうにアイはそう主張した。生まれた時から既に自立している彼女達にとって、15歳は十分に成熟している大人として見なされる。
「15!? 若いとは思ってたけど、そんなにか……シェルター民の年齢は相変わらずよくわかんねえな」
しかし、シェルターの外の人間にとってはそうではない。15歳はまだまだ子供の範疇だ。
「外の人にも、女性はいるんですか?」
「そりゃそうだ。いなかったら、増えないだろ」
「?」
首を傾げるアイに、ロックは失言に気付き口を手の平で覆った。
「あ、もしかして、性交で増えるんですか」
「ああ、まあ、そうだな」
明け透けに尋ねるアイに、ロックは動揺しながらも曖昧に頷いた。
「ロックもしたことあるんですか、性交」
「お前わざと言ってるのか!?」
単純に好奇心で尋ねてみれば、ロックは叫び声をあげた。女しか生まれず、新しい命は孵胎器から勝手に出てくるものという認識であるアイにとって、それは現実感のないお伽噺の様なものに過ぎない。
「本で読んだことがあるんです」
ゆえに、なぜロックが動揺しているのかわからず、アイは文献から得た知識で話をした。
「性交とは、男女の愛の最終形だそうです」
「あー……まあ、そういえなくもないけど」
視線を逸らしつつ、ロックは否定も肯定も出来ず困り果てた。
「ロックはしたことあるんですか?」
「何でそこだけぐいぐいくるんだよ!?」
「ないんですか」
「まあ……ないよ」
こてんと首を傾けるアイに、ロックは苦々しい口調で答える。そもそも知識としてしか知らないような相手に恥ずかしがる事もあるまい、と思いつつもやはり明朗に答えるのははばかられる。
「そういうの、童貞って言うんですよね」
「お前絶対わかってて言ってるだろ!?」
「童貞が許されるのは小学生まで、と文献にはありました。ロックは何歳なのですか」
「どうせ後二年で三十路だよ悪いか畜生!」
ロックの絶叫が、荒野に木霊した。
その日から、アイがシェルターの外に通うのは隔日から毎日の日課へと変わった。膨大な書籍の山よりも、ロックの話は興味深く面白いものであった。シェルターの外の世界で生きるもの達。野生の獣達。他のシェルターや、遠い異国の話。
狭いシェルターと遙か過去の文献しか知らないアイの世界は、ロックによって大きく広げられた。その逆に、アイが歴史やその他の知識を披露し、ロックを感心させることも少なくなかった。孵胎器や学校というものがない外の人間達の知識は、殆どが親や仲間内での口伝と自身の経験によるものだ。体系だった学問というのは殆どないに等しく、その知識は実用性ばかり高いがあまり文明的なものとは呼べなかった。
一月もすると二人はすっかり打ち解け、アイも砕けた口調で話すようになっていた。ロックの傷もとっくに完治してはいたが、食料の乏しい冬の間はここで過ごすことに決めたらしい。シェルターの入口から少し離れたところに仮設の小屋を作り上げ、住居にしていた。
「そもそも、ロックは何故外で暮らしてるの?」
ある日ふと、アイはロックにそう尋ねた。いや、実際は初めて会った時から気になっていたことではあったが聞くのは何となく憚られ、ロック自身も口にしなかった事だった。
「……」
「ごめん。やっぱり言いにくい事?」
「……いや。言っておいた方がいいだろうな」
ロックは大きく息をつき、居住まいを正すとじっとアイの目を見た。
「罪人なんだ。俺達は」
「赤毛であってはならないという文はなかったと思うけど、赤色禁止法に違反することになるの?」
ある種衝撃的な告白に、アイは冷静に首を傾げた。
「そこじゃねえよ。正確には、罪人の子孫。シェルターが出来たときに、当時の犯罪者は外に放り出されたんだ。殆どは死んだらしいが、中には命を繋いだ奴もいた。それが、俺達の祖先だ」
その反応に胸を撫で下ろしながらも、ロックは自分達に伝わる話を伝えた。シェルターの中の様に資料が残っているわけでもない口伝であり、どこまでが本当かもわからない。
「……では、ロック自身は法を犯してはいないんですね?」
「そうでもない。さっきお前さんがいった、赤色禁止法があるだろ。俺は火も使うし、野山の獣を捕らえて食いもする。そうしなきゃ、シェルターの外じゃ生きてはいけねえ。だから立派な犯罪者ってわけだ」
「それは……酷い」
「別にそうでもないさ。シェルターにゃ入れないが、外で生きていけないわけでもない。外は外で、村を作って暮らしていけてるんだ。シェルターの中に比べりゃ、ずいぶん原始的な暮らしかもしれんが、だからって別に不幸ってわけじゃないしな」
沈痛な表情を浮かべるアイに、ロックは努めて明るい声を出した。あまり表情を変える事のない彼女だけに、そんな表情をされるとひどく罪悪感を感じる。
「じゃあ、皆が皆ロックみたいに旅をしているってわけじゃないんだ」
しかし彼女は、意図した部分とは別のところに食いついた。
「ああ。寧ろそんなのはごくごく一部だ。大半は、村をつくって暮らしてる。そもそもシェルターの存在すら知らない奴も多い。俺も何度かシェルター民にあった事はあるが、こんなに長い事関わったのはお前さんが初めてだよ」
言いながら、ロックはアイが持って来てくれた食料を口に運ぶ。
「ん。これ、美味いな」
と、いつもの差し入れとは異なる味わいに、彼は目を瞬かせた。
「そう? むしろいつものよりおいしくないと思うけど」
差し入れと交換でもらった鳩の干し肉をかじりながら、アイは首を傾げる。ロックが差し入れた食料に感想を抱くのは、これが初めてだった。
「いや、いつものとは全然違う。美味いな。何か違う材料入ってるのか?」
更に一口二口、いつもとは違って味わうようにかみしめる。
「そう言う訳じゃないけど、今回のは私が作ったの」
特に何という意図があったわけではない。最近料理をしていなかったと思って、作っただけのことだ。
「へえ。なるほどな」
だが、ロックは納得したように頷きながら、いかにも美味そうに料理を頬張る。
「道理で美味いわけだ。アイは良い嫁さんになるな」
嬉しそうにそう呟くロックに、アイは何やら言いしれぬ感覚を覚えた。
「……そんなに違うなら、また作ってくるけど」
「本当か!?」
予想外に強い反応に気圧されつつ、アイはコクリと頷く。
「そいつは嬉しいな。ああ、でも無理はしないでくれよ」
「……はい」
首を傾げながら、アイはもう一度、コクリと頷いた。
「あ、アイさんっ」
アイがユウに声をかけられたのは、病院で検査を行った帰りのことだった。
「ユウ。久しぶり」
顔自体は歴史のクラスで毎朝見ているし、質問を受けて答えることも度々だが、学校の外でちゃんと会話を交わすのは久々だ。
「どこか悪いんですか?」
「いや、どこも。念のため検査しただけ」
病院を出てくるところを見られていたのだろう。心配そうな表情で聞いてくるユウに、アイは首を振って検査結果を見せてやった。身長体重、骨に内臓、姿勢に至るまで所見なし。健康そのものだ。
「それなら、良かった。最近……お忙しそうだから」
心の底から安堵したように、ユウはほっと息をつく。
「ちょっとね」
「今日も行かれるんですか?」
ユウの問いに、思わずアイはどきりとする。しかしすぐに、資料センターの事を指しているのだと気付き、首肯した。
「……ええ。そう」
「そうですか。では、お気をつけて」
律儀にぺこりと頭を下げて、ユウはその場を立ち去る。初めてあった頃に比べれば、随分落ち着いたものだと思う。当初の懐きようは、一種の刷り込みのようなものだったのかも知れない。
ユウの後ろ姿を見送り、アイはいつものようにロックの待つ外へと向かった。
「おう、いらっしゃい」
ハッチを開けるなり目の前にあった顔に、アイの心臓が跳ねた。
「ここで待ってたの?」
小屋を建ててからは、ロックは小屋の中でアイを待つようになっていた。ハッチで出迎えるのは久々である。
「ああ、いつもの時間にこないから、ちょっと心配になってな」
日が赤く染まる頃に現れ、沈む頃に帰るのがいつものパターンだ。既に夕日は、半分以上地平線に隠れていた。
「ごめんなさい。今日はちょっと用事があって……連絡するのを忘れてた」
遅れる原因になった体の不調が、再びアイを襲っていた。呼吸が困難になり、思考が若干混乱をきたしている。この前感じた症状より、格段に重い。
「いや、別に約束してる訳じゃないからいいんだけどな」
その言葉にはっと気付き、アイは彼を見上げた。確かに、約束した訳じゃない。ただ毎日アイがロックの元を訪れ、彼がそれを迎え入れているだけだ。アイがたまたまここを訪れなくても不思議ではないように、突然彼がここを離れていても不思議ではない。
「……約束」
「ん?」
「約束、して。ここを離れるときは、事前に言うって」
アイがそう言うと、ロックはなにを言っているかわからない、といった風にきょとんとした表情を見せた。
「駄目……?」
「いやいや、ここまで世話になっておいて、なにも言わずに姿眩ませたりするわけないだろ? そこまで不義理じゃない。ちゃんと旅に出るときは言うって」
その言葉に、アイはほっと胸をなで下ろす。そして、心の底から安堵し、さっきまでの症状も大分緩和している自分に気付いて驚愕した。
「どうした?」
様子のおかしいアイの顔を覗き込み、ロックは心配そうに口にする。
「風邪でも引いたのか?
顔、赤いぞ」
――禁じられた言葉を。
「今日はもう遅いから、これっ!」
アイは弁当をロックに押し付けるようにして渡すと、ハッチを開いて素早くシェルターの中に身を隠した。
「え、おい」
呆然とするロックの目の前でハッチが閉まり、かと思えば再び開いてアイが顔だけをひょっこりと出す。
「また明日!」
そしてそれだけ伝えて、彼女は完全に姿を消した。
「……参ったな」
一人取り残されたロックは、沈んでいく夕日の光の中、そう呟いた。
ハッチの下のハシゴをどう降りたのかは覚えていない。アイは気付けばハシゴの下でうずくまっていた。頬に当てた手が熱く、鏡を見ずとも自分の顔がどうなっているのかが本能的にわかる。
法律違反だ、とアイは思った。もちろん、赤面してはならないなどと言う項目はなかったが、捕まっても仕方ないほどに顔は赤く染まっている。こんな顔のままで帰ることはできない。気を落ち着けようと深呼吸する度に、暗がりにロックの顔が浮かんだ。
恋に、落ちて、しまった。
アイはそれをはっきりと自覚した。まさかそんなことが自分の身に降りかかるなどとは、思ってもみなかった。一体これから、どういう顔でロックに会えばいいのか。そもそも、いつかは旅立ってしまう彼に恋をして、どうすればいいのか。
そこまで考えて、現実的な問題に彼女の心は酷く沈み、その重みで浮き足立っていた心と体は落ち着きを取り戻した。これは、熟考する必要がある。そもそもロックに想いを伝えたとして、受け入れてもらえる保証もないのだ。であれば、その確率も高めるべく努力しなければならない。
具体的な問題意識と、それへの対応策を考慮することによって、彼女は何とか平静を取り戻した。外郭にあけた穴をそっとはずし、いつものようにぴったりとはめ込む。
「動かないでください」
その背に、聞き慣れた声が投げかけられた。気配はない。当然だ。彼女に肉体はないのだから。
「アイ。赤色禁止法違反の罪で、貴方の身を拘束させていただきます」
振り返り、マザーの姿を目にしたところで、彼女の意識は暗転した。
目を覚ますと、アイは見知らぬ部屋の中にいた。部屋は真っ白で、彼女が寝ているベッド以外には何もない。家具どころか、出入りするための扉さえもだ。
服は着替えさせられており、持っていたはずの高周波振動カッターも当然のように没収されている。
「マザー」
「はい」
呼びかければ、当たり前のようにマザーが姿を現した。彼女はシェルター全体をサポートしている。この部屋も例外ではないのだろう。
「私は、赤色禁止法に抵触していない。赤色の塗料を作ったりもしてないし、火を扱ってもいない」
「いいえ。貴方は既に赤をその身の内に持っています」
マザーの淡々とした言葉に、アイは反射的に頬を抑えた。
「更に、地上にでて外の人間と関わりを持った。これも、許されない行為です」
続く言葉に、アイは目を見開いた。ロックの事まで露見しているとは思わなかったのだ。
「彼は! ……外の人は、どうなるの」
「追放します。このシェルターの近くからは離れてもらわなければなりません」
「拘束したり、その他の罰則を与えたりは……しないのね?」
「はい」
短く肯定するマザー。アイの胸に、安堵と絶望とが交互に去来した。ロックの傷はもうすっかり治っている。彼なら追放されても、一人でどうとでも暮らしていけるだろう。
だが、もう二度とあえない。
「また明日、っていったのに」
初めてした約束は守れそうにない。マザーも姿を消した部屋で、アイは一人呟いた。赤い光の波長は僅かに0.7ミクロン。髪の太さよりも何千倍も短いその距離が、二人の間を阻むのだ。彼はまた、ハッチの前で待っているだろうか。いや、その前にマザーから警告が行くはずだ。
……マザーはどうやって、彼に警告を与えるつもりだろうか? ふと、アイの思考はそんなところにたどり着いた。彼女の権限は、あくまでシェルターの中にしか届かない。外まで監視し行動できるのならば、アイがロックと一緒にいるところで警告したことだろう。
ならばなぜ、アイ達の密会がバレていたのか。誰かが……マザー以外の何者かが、見ていたという事だろうか。
『そうですか。では、お気をつけて』
不意に、ユウの言葉が脳裏をよぎった。資料センターに行くというアイに、何故彼女はそんな言葉をかけたのか。
疑惑が、確信に近づく。そういえば、それまで毎日帰り道についてきていたのに、急に一人で帰るようになったのはロックと出会って数日ではなかったか。アイとロックの逢瀬に気付き、マザーに伝えたのはユウなのではないか。
もし、そうだとしたら。
アイは、ユウの顔を思い浮かべて、強く思う。
もしそうだとしたら――
それは、仕方のないことだ。
勿論、そうしないでいてくれたら、どんなに良かったことか。そういう思いはある。しかし、一心に慕ってくれていた彼女を邪険に扱ったのだ。仕方のないことだと、思う。自業自得だといっていい。そもそもが後ろめたいことをしていたのはこちらなのだから、彼女を恨みに思う事自体が間違っている。
ただ。もし彼女が、このことで傷ついているのなら。それはとても、申し訳ないことだと、アイは思った。
「面会者です。お繋ぎしますか?」
「お願い」
『アイさん!』
そんな思いが通じたのだろうか。
アイが拘束された翌日、彼女の元を訪れたのは、ユウだった。
初めて出会った時の様に、立体映像越しにアイとユウは相対する。
「アイさん、私……」
そう言ったきり、彼女は言葉に詰まったように口をパクパクさせた。その表情を見て、アイはおおよその事を悟った。昨日考えていたことは、当たらずとも遠からずと言ったところだったのだろう。
「大丈夫」
アイはユウを落ち着かせるために、彼女なりに優しい声色で、そう言った。
「ごめんね」
こうならなかったら、自分はどうしていたのだろう、とアイは思う。そもそも、自分はどうしたいのだろう。
どっちにしろ、ロックはいつかは旅立つ事になっていた。子供は孵胎器によって作られる現代において、婚姻制度などとっくの昔に廃れている。自分の体で子を成すことだって、出来るかどうかも分からない。
「アイさんは……」
ぐるぐると思い悩むアイの思考を、不意にユウの声が現実に戻した。
「アイさんは、あの人と……」
彼女は何か言葉を探すように瞳を揺らした。シェルターには女しかおらず、恋愛という概念を知る者も少ない。幼い彼女ならなおさらだ。しかし、単純な好悪の情を超えた何かがアイとロックの間にある事自体は察していたのだろう。
「あの人と、いっしょにいたいですか?」
そうして出てきたのは、シンプルな質問。全ての虚飾と無縁の、根源的な質問だった。
「……うん」
アイはそれに、短く、しかし力強く答える。一緒にいたい。傍にいたい。ただそれだけの考えは、彼女の胸にすんなりと収まった。
「どうあっても、ですか?」
「うん」
今度は迷わず、すぐに頷く。
「……わかりました」
決意を込めた瞳で頷き、ユウの姿が掻き消える。
そしてその一瞬後、壁を切り開いて本物のユウの姿が現れた。
「逃げましょう、アイさん!」
高周波振動カッターを振りかざして叫ぶ彼女の姿は、民衆を導く自由の女神の絵画の様に美しく見えた。
「急いでください!」
アイとユウは息を切らして、警報の鳴り響く通路をひた走る。普段は自動で動き、行きたい方へと運んでくれる床は当然のことながらピクリとも動かない。もつれる足を何とか動かし、痛む腹を抑えながら、アイは外郭を目指す。
ひたすら歩を進めながら、何故ユウが逃がしてくれるのかを、アイは考えた。彼女がアイを密告したのであれば、こうして逃がしてくれるのは不自然だ。しかしそれを尋ねている暇はなかった。
自分の脚で全力で走るというのは、二人にとって初めての行動だ。勿論、体力もそれなりに鍛えてはいたが、走って移動するにはシェルターはあまりにも広い。乱れる息を整えるので精一杯で、とても話しかける余裕はなかった。
しかし彼女の疑問は、意外な形で解決された。
「そこまでよ」
外郭まであと一歩と言ったところで二人の行く手を阻むのは、アイにとっては見慣れた顔だった。
「エル……」
親友と呼んでもいいくらいに親しい彼女は、いつも通りに人懐っこい笑みをアイへと向ける。
「お疲れ様、アイ。残念だけど、逃避行はここまでよ」
そういって彼女は長い筒状のものをアイへと向けた。見慣れないそれは、現代では滅多に使われる事のない『武器』。高周波振動カッターを押し当てても傷一つつかない対ショック機構を無効化し、気絶させる非致死性の衝撃を放つスタン・ライフルだ。マザーがアイを捉える際に使ったのも、恐らくこれだろう。
「エル……私の事を、マザーに知らせたのは、貴方?」
呼吸を整えながら尋ねれば、エルはにこやかに頷いた。
「もちろん、そう。ユウちゃんが私にだけ教えてくれたの。
親友を危険な目に合わせるわけにはいかないもの」
「それは、貴方が決める事じゃない」
「本人の判断能力に支障がある場合、外部にそれを求めるのはおかしな事?」
「それが正しいとしても、私は行きたいの。そこをどいて」
「アイがそんな非論理的な事を言うなんて、珍しい」
「茶化さないで」
「茶化してなんかいない。一時の感情で、全てを投げ打つ気? そもそも……」
エルは鋭い視線を向ける。
「貴方の好いた男は、貴方を受け入れると思う?」
「……っ!」
図星を突かれ、アイは僅かに怯む。
「もし受け入れられなかったら、どうするつもりなの? そもそも、貴方を待っているかどうかもわからない。もうとっくにこの辺りを離れてるかも知れない」
「……もしそうだとしても、私は行く」
迷いは一瞬。アイはエルを見据え、はっきりそう言った。
「約束したから」
「そう……これ以上言っても無駄みたいね。貴方の意思が固いのはわかった。でも……」
エルは手の中で弄んでいたスタンライフルをくるりと回し、アイへと向けた。
「行動が伴わなければ意味はない。どうするつもり?」
その時、突如ユウがエルに向かって駆けた。
「アイさん、今のうちにっ!」
飛びつこうとする彼女に、エルは落ち着いた動作で引き金を引く。目に見えない衝撃波がユウを襲い、彼女は一瞬にして昏倒した。
「残念だけど、そのくらいじゃどうにもならない」
油断なくスタンライフルを構え直すエルに、隙はない。ユウを見捨てて走ったとしても潜り抜ける事は出来なかっただろう。
「どんなに意思があったって、実行できなきゃ意味がない。貴方が向かおうとしているのはそういう世界なの」
「ならそっちは、俺が補う。それでいいだろ」
ゴツゴツとした拳が、エルの腕を掴んでひねりあげる。彼女はあっと声を上げ、スタン・ライフルを取り落した。
「ロック! どうして……」
「また明日って約束したのに、来なかったからな。こっちから来ちまったよ」
尚もエルの腕をひねりあげながら、ロックはそう嘯いた。ついでに、地面に落ちたスタン・ライフルを蹴り飛ばしてアイの方に転がす。
「ちょっとあんまり痛くしないでよ」
「アイ」
腕をねじられながらも不満げに声を上げるエルを無視して、ロックはアイに視線を向けた。
「外の世界ってのは……お前が思ってる以上に、過酷だ。飯を食うには狩りをしなきゃならんし、娯楽もない。お前さんが好きな歴史書の類はないし、野生の獣に襲われて怪我することも、最悪死ぬことだって十分ありうる」
幼い子に言い聞かせるかのように、ロックはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺とお前とじゃあ随分歳も離れてるし、シェルター生まれじゃない俺は肉体強化もされてないから大して長くは生きられんかもしれん。今ここで別れれば……まあ、多少の懲罰はあれど、お前さんは今までと同じようにこのシェルターで平和に生きていけるだろう」
それが幸せなのかもしれない。そう思いつつも、ロックはアイに訊ねる。
「それでも……俺と」
「いく」
「決断早いな!?」
最後まで言う事すら許さず、アイはきっぱりと宣言する。彼女はスタン・ライフルを拾い上げ、肩に担いでロックに駆け寄ると、「散々悩んだ俺が馬鹿みたいじゃないか……」等という彼の呟きを無視しながら、親友へと視線を向ける。
「ごめんね、エル。でも、私はやっぱり……」
「はいはい。武器もとられちゃったし、もう文句ないよ。どうぞお幸せに」
打って変わって抵抗する気配をなくしたエルに首をひねりつつも、アイはロックの手を取ってシェルターの外へと向かった。
「……行っちゃった」
エルはその背を見送り、呟く。
「寂しいですか?」
マザーの姿が像を結び、彼女にそう問いかけた。
「そりゃまあ、ねえ。長い付き合いだったし、親友のつもりだし」
「エルも恋をして、ここを出て行ってもいいんですよ?」
「冗談でしょ? もうそんな年でもないし、茶番と知って熱くなれる程単純でもないよ」
ひらひらと手を振り、エルは嘆息する。
茶番。そう、これは茶番だ。
強い意思と、実際に行動する力と。
己のうちに『赤』を持ったものをシェルターから追い出し……見送る、親離れの儀式。
かつて彼女が作った書庫を見つけ、こうしてシェルターを出ていったものを見送ったのは一度や二度ではない。
「それはそうと……ユウちゃん、どこ行った?」
先ほどまで地面に横たわっていた姿を見失い、エルは小首を傾げた。
「先ほど目覚めて、出て行かれましたよ」
「いや、そっちは止めなさいよ!?」
「その意志と能力があるものを、外に出す。ユウもその条件に当てはまっていましたから、私には止められません。昏倒した状態から目覚めて、真っ先に追いかけるなんて、いじらしいじゃありませんか」
「変なところで頭硬いよね、貴方は……」
エルは額を抑え、ため息をついた。
「ま、いっか。一人くらい多くても、構いやしないでしょ」
外の世界で生きていくのは大変だろうが、調理技術を初めとしてシェルターで生まれた人間には最低限の生存能力は既に仕込まれている。スタン・ライフルも持って行ったし、彼女達なら野垂れ死ぬ可能性は低いだろう。
「願わくば、彼らの行く先にあかるい未来が待っていますように」
一人と一体の人工知能は、ただそう願った。