バスケがない日常
箱の中にバッシュやバスケットボールを詰める。蓋をして箪笥の奥に仕舞った。くたびれているバッシュは少し靴ひもの穴が広がっていた。
長い間、御苦労さん。ありがとな。
今時にしては珍しく俺の部屋には鍵付きの箪笥がある。婆ちゃんがオカンの結婚の時に持たせたものらしいのだが、わりと新しいこの家には不釣り合いな古臭さである。今までは服とかが入っていて鍵は活用されていなかったが、今回でその役目をようやく果たせてこの箪笥も本望だろう。
鍵穴に錆びかけている鈍色の鍵を差し込んで鍵を回す。僅かな手応えと共に閉まる音がした。
一緒に、何か別の物も閉まった気がした。
箪笥の前に座り込んでしばらく呆けていると突然携帯が鳴った。
手に取って表示された名前を見る。健司だ。
「はい」
『あ、俺や、健司』
「そんなんディスプレイに名前表示されるねんからわかってるわい。なんや、どないしてん」
どないしてんて、お前が一番ようけわかってるやろと自分につっこんでみる。
『…翔太のことやねんけど』
「あぁ。あいつ、なんであんなに怒ったんや?」
『…俺も、ようわからん。でも、あいつが、何かしら思うところがあって言ったんやとは、思う』
「それくらいは、俺かてわかるわ」
『せやな』
ようやく緊張したように硬かった健司の声が笑いを帯びて少し緩む。
「…あいつ、泣いてたやろ?」
『うん。帰りもなんも言わんと、ボロボロ涙零しとった』
「そうか」
翔太も泣く時は泣くんやなぁ、と頭の隅で思った。いつものあのふてぶてしい態度からは、まさか翔太が泣くとは思えなかったのだ。
「俺、泣かすようなことしたんやろうか」
『少なくとも、俺にはしてへんように見えた。でも』
健司が言葉を切る。言うのを迷っているような、そんな沈黙。
「健司?」
『…航。あんな』
急に真面目な声色になって面喰らう。
なんやねん。最近お前ら真面目すぎやろ。調子狂うやん。
『あいつ、珍しいくらい、取り乱してたんや。くっそくっそて、ずっと、言ってた』
「取り乱した? なんでや」
『せやから俺にはわからへんねんて。けど、俺には、悔しがっとるように見えた』
「…悔しがっとるように」
『そうや。お前を止められんかったって、全身で言っとるように見えた』
翔太を思い浮かべる。
あの犬のような目が、後悔に染まっているのだとしたら、なんか、悪いことしたような気がするなぁ。
『俺も、思った。航を、なんでもっと必死に止めなかったんやって、後悔したんやで。航、知っとるか。後悔って後に悔むて書いて後悔て読むんやで』
「お前俺をなんやと思っとるんや。それぐらい小学生でも知っとるやろ」
『そうかそうか。でも、わかってはないんやな』
「はん?」
『翔太は、それを言いたかったんやと俺は思う』
わからへん。健司、翔太、お前ら、難しいことばっか言いやがって。
耳の奥で、ボールの跳ねる音がした。
翌日学校に行くとすでに2人共来ていた。
バッチリ翔太と目が合う。あからさまにムスッとした顔になった。思わず口元が引き攣る。
「おはようさん」
「おはよー」
「翔太も、おはようさん」
フイッと翔太が顔を逸らす。
…めっちゃ不機嫌や…。
「こら翔太、挨拶は基本やろ。はい、おはようございますは?」
健司が翔太に向かって言う。
翔太が唇を尖らせて健司を見た後、俺の方を見ずにボソッと言った。
「おはようさん」
どこのガキンチョとその母親やねん!
「しょ、翔太?」
「なんですか峰岸君」
「峰岸君て。きもっ」
「ええか航。俺はもうお前の面倒みきれへん。せやからしばらく話しかけないことにした」
「はぁ!?」
俺が素っ頓狂な声を上げると、今日初めて翔太と目が合った。
不機嫌なオーラを隠しもせずにムスッと俺を睨んでくる。思わず身を引いた。
「せやからこっちから話しかけるまで話しかけんなこのドアホが!」
俺の方に体を寄せて俺の額を指先で突くと今度こそ本当に顔を背けて漫画を読み始めた。
「な…」
なんやねんこいつ!
――その宣言通り、1日経っても1週間経っても翔太は俺と話そうとしなかった。
「なんやねんあいつ…」
「拗ねてるだけやろ。もうちょいしたら話しだすわ。あいつ、航並みに寂しがりやから」
「俺並みて。お前ほんま俺をなんやと思てんねん」
健司がチラリと横目で俺を見て、ちょっと笑った。
「ガキンチョや」
「シメるぞ」
「ええやん。俺、羨ましいわ」
健司が本に目を戻して言う。読んでいるのはなんとかって映画の原作を書いた人の小説。意外と文学人やねんな。
「そこまで好きなもんに執着出来る奴なんか、早々おらんで」
「…もう捨てたやん」
「家、しかも自分の部屋の箪笥、もしくはどっかの戸棚にバスケ用品入ってんのと違うか」
うっと思わず詰まる。
健司がニヤリと笑った。
「ビンゴやな。しかもドンピシャや。そら捨てたとは言わんで」
「いや、でも、もうやってへんしっ」
「サボってるだけ、サボってるだけ」
健司が俺の頭を本で軽く叩く。
「早よう気付かな、取り戻せんくなるで」
何を、とは訊けなかった。
「峰岸っ、入部の件考えてくれたかっ」
封印した日から1週間とちょい経った頃、山城が行ってきた。
「いや、せやから入らへんて」
「えー! もうええやん、素直に心のまま生きよう?」
「生きてるわい。…そうやな、お前には、ちゃんと言わなアカンかったな」
俺はキチンと山城の方へ体を向けた。
「何をや?」
山城が首を傾げる。
俺と一緒にバスケをしたがってくれてたのに、ゴメン。折角誘ってくれとったのに、スマン。
お前おったから、気持ちに踏ん切りついたわ。ありがとうな。
「俺、バスケやめてん」
長い沈黙が降りた。山城が瞳を揺らしている。
「…は?」
「俺、バスケやめたんや、山城。もう、これっきり、二度と、ボールには触らん」
「…え? ちょお待ってくれ。俺、今、あんまし理解できひんかったんやけど。あれ? 今、バスケやめたって言ったか? でも、もうやめとったっていつも言って…」
「山城。俺ほんまにこれっきりにすんねん」
「これっきりて、その、あの、一生か?」
「せや。一生、二度と、バスケはせん」
じゃあなと手を振って歩き出す。
「あっ、おいっ、待てって、峰岸っ!」
腕を掴まれ引き戻される。
「じゃあ、お前、家帰って何してるんや」
「は?」
「せやからっ、今までバスケしとった時間、何してるんやって聞いてるんやっ」
その言葉に思わず苦笑する。
「今のとこ手持無沙汰やねん。何したらええか、全然わからん。俺、相当重症みたいや」
「へ…」
山城の手を解いて歩き出す。
なんだか、最近、日常がめちゃくちゃゆっくり流れていくんや。つまらんくって欠伸が出て仕方ないんやで。
何かが、手の平からどんどん零れ落ちていっているような気がして、落ち着かへんねん。
俺、相当重症やろ?
1月ほど経って、俺は未だに何をするでもなく日々を過ごしていた。
もうすっかり冬は深まり、クリスマス目前と言う時期に入っている。家に帰っても見たいテレビもなんもないから、暇で暇でしょうがない。最近家に帰るのが億劫だ。
放課後、健司は部活に、翔太はさっさとどこかへ行ってしまったので、1人で誰もいない教室の自分の席に座っていた。そのまま机にだらしなく顔を伏せる。
思っていたより俺はバスケに時間を割いていたらしい。
そのことに気がついたのはやっと本格的にバスケをやめてからで、約9年間もバスケに今までを捧げていた俺は何をすればいいのかさっぱりわからなかった。
しまった。俺、遊び方もろくに知らないみたいや。今までは翔太と健司にホイホイついて行っとったらえかったから、なんも考えんでよかったもんな。
どうしよう。半端やなく暇や。
目を閉じてぼーっとしていると誰か入ってきた。俺の席まで近づいてくると伏せっている机に腰掛ける。
目を開けてその人物を見上げる。――翔太だった。
「…おう」
「おう」
約1カ月ぶりで、あまりにも久しぶりな近さに驚いていると翔太が俺から目を逸らして溜息を吐いた。
「少しは頭冷えたか」
「冷えたもなんも、俺、なんにも熱くなってへんがな」
「あー左様でしたなぁ。ま、なんとなく俺の言いたいことはわかってんねんやろ」
体を起こしてグシャグシャになった髪を整える。
無言でいる俺を横目で見てまた目を逸らした。
「…苦しいやろ? 航」
返事をしていないのもお構いなしに翔太は続ける。
「どうしようもなく日常がつまらへんやろ? 何も手につかんから、暇で暇でしょうがないやろ? 無意識に、何かを探すやろ?」
俺は、お前が何を探したかわからんけど、と翔太が言った。
そうやな。俺は、今でも体育館を通り過ぎると、あのボールの跳ねる音がしないか、バッシュの床で滑るスキール音がしないか、無意識に探してまう。
それでも、捨てると、決めたんや。
俺を見て翔太が溜息を吐いて俺の頭にわりと乱暴に手を載せた。グリグリと押される。
思わずポツリと口から言葉が漏れた。
「苦しいで、すんげぇ。なんやねんこれ、意味わからん」
ふっと翔太が息を漏らした。なんとなく、柔らかい雰囲気なのがわかる。
「そうか」
もう一度頭を強くグリグリと押される。
「そっからどうやって抜け出すかは、お前自身で決めるしかないんやで」
わかってるわ、そんなことぐらい。
でも、どうしたらええんかわからんねん。
翔太が、年上に見えるこの回。




