悪魔の噂 ※
裏路地を抜けた先、ウェイルはとある宿屋にやってきていた。
掛けてある看板は、風と雨で風化し、壁の至る所にある傷は剥き出しのまま。まさに廃墟と言うに相応しい、そんな宿屋である。そんな宿であるが、一階は酒屋になっていて、中からは賑やかな笑い声が漏れ出し、これまさに宿と言った風格も感じられる。
「相変わらず汚いな……」
「――大きなお世話だ、クソ鑑定士」
思わず漏れた本音に、背中越しから乱暴な抗議が飛んできた。
「そんなとこに立たれたら営業妨害だぜ?」
「そりゃ悪かったな。それより、まだ部屋は空いているか?」
ウェイルはそのまま振り向かずに尋ねた。
「生憎だが部屋は全部埋まっているよ」
「そりゃ残念」
「……と一度は言ってみたいものだ」
「なら少しは宿を手入れすることだな。そしたら客も来るだろうよ。なぁ、ヤンク?」
ウェイルが声の持ち主の方へと振り返る。
そこには、白い髭を蓄えた大柄な老人が立っていた。
まるで老人には見えない逞しい体をしているこの男の名は、ヤンク・デイルーラという。
この宿のオーナーで、ウェイルとは古くからの顔なじみである。食料の仕入れをしてきたのか、左肩には大きな樽を軽々と背負っていた。
「ふん、これ以上客が来たら面倒で敵わん」
「……商売する気あるのか?」
一見、商売に向いてなさそうなこの老人であるが、商売の世界でデイルーラの名を知らぬ者はいない。
アレクアテナで一番大きな貿易会社の名前であり、そしてこのヤンクこそが、その社長であったからだ。
現在は経営の全てを息子に託し、こうして宿を切盛りしている。
以前ウェイルは何故、宿を営んでいるのかとヤンクに問うた事がある。
その時の答えが『金銭など絡まない人の縁が欲しかった』だそうだ。
一階の酒屋には常に常連が集まり、談笑に花を咲かせているこの光景。
これこそヤンクが欲して止まなかったものであり、そして手に入れたものだ。
幸か不幸か、ウェイルもこうしてヤンクの望んだ光景の一部になれているのだろう。
「一部屋頼むよ」
「とっとと中に入れ」
ヤンクは仏頂面で中に入るよう促した。
「おっ! ウェイルじゃねーか! 久しぶりだな、おい!」
「仕事か? プロ鑑定士ってのは儲かるんだろ? 今日は奢れよ!」
中に入った早々、顔なじみの常連から声を掛けられる。これも毎回お馴染みであり、適当に応じてカウンターへと向かった。
「一泊いくらだっけな」
知らない訳がない。だがあえてこう聞くのがお約束なのだ。
「一泊八十万ハクロアだ」
「それだけあればこの店ごと買えちまうぞ……」
“ハクロア”というのは、アレクアテナ中央付近で流通している貨幣の名前だ。
貨幣の発行はアレクアテナ最大の都市である王都ヴェクトルビアが行っている。
他にもレギオン、リベルテなどの貨幣もあるが、その中でも最も価値があるとされている。
また価値が非常に安定しているため、資産を貯蓄する際は金かハクロアを持つ富豪は多い。
ちなみに一万ハクロアあれば、二週間は遊んで暮らせる。
冗談にしてもあまりに法外な金額だ。
「なら他の宿に行くんだな」
「それが無理なんだよ」
「何故だ?」
お約束のやり取りを聞いて、周りの常連は笑いを堪えている。
「俺は埃まみれの小汚い宿じゃないと眠れないんだよ」
「そうか、なら仕方ない。今回に限り、特別に500ハクロアで勘弁してやる」
「そうかい、そりゃ有り難い」
しばらく睨みあう二人だったが。
「「…………プッ!」」
二人は同時に堪えきれず吹き出し、そして周囲にも釣られるように店内に笑いが広がった。
「ガハハハハハッ!! よく来たな、ウェイル。三年ぶりだな。今回もサスデルセルでの仕事は久々か?」
ヤンクは先程の仏頂面とは打って変わって相好を崩した。
「ああ、そうだな。ここで仕事をするのは久しぶりだよ。ヤンク、お前も相変わらずで何よりだ」
「もうステイリィには出会ったか? あいつ、ウチに飲みに来る度にウェイル、ウェイルってうるさいからな」
「さっき会って来たよ。あいつも相変わらずだ」
何せ到着早々、あの破天荒っぷりを見せつけてきたステイリィだ。
むしろ以前の彼女と全く変わっていなくて逆に不安になるほどだった。
ウェイルは先程汽車の中であった詐欺事件についてをヤンクに話す。
「ははぁ、鑑定士も大変だな。いい加減弟子を採ったらどうだ? そろそろ使い走りが欲しいだろ?」
プロ鑑定士にもなると仕事の多さから弟子を採ることが多い。
確かに細かい雑務などを弟子にやらせれば鑑定の仕事もぐっと楽にはなる。
しかしながらウェイルは弟子が欲しいと感じたことは一度もなかった。
「弟子を採る暇すらないよ。最近かなり忙しくてな。どこもかしこも詐欺、贋作だらけで」
「そうか。まぁ、うちにいる間くらいゆっくりしてけよ。こんなボロ宿にわざわざ泊まりに来るのは、お前とステイリィくらいなもんさ。……いや、最近はそうでもないな」
「何かあったのか?」
「明日からラルガ教会の降臨祭が開かれるんだ。他都市から信者らが集まってきているんだよ」
“降臨祭”。
ラルガ教会最大の儀式でありお祭りでもある。
年に一度開催され、開催に合わせて多くの信者が集まるという
なんでも神が信者の元へ帰ってくる祭りだとか。
「降臨祭ねぇ……」
しみじみと呟くウェイルだったが、その事の異常さに気付くのに時間はあまり掛からなかった。
「ん? ……降臨祭だと!? このサスデルセルでか!? そりゃ凄いな……」
ウェイルが驚くのも無理は無い。
宗教都市サスデルセルは、その名の通り様々な宗教が集まり出来た都市だ。
他の教会との兼ね合いもあるし、何より揉め事を避けるため、ほとんどの教会はサスデルセルでの祭り事を遠慮している。
つまりそんな教会間のしがらみを無視できるほどの力を、ラルガ教会は持っていることになる。
「ここ最近のラルガ教会の権力は、他を圧倒しているからな。信者の数も最近になって倍増したと聞く。おそらく例の噂の影響だろうがな」
「……例の噂? 何かあったのか?」
ウェイルが尋ねたその瞬間、酒場の扉がバンと開かれる。
「――それについては私がお答えしましょう!」
「やっぱり来たか……」
やれやれとぼやくヤンク。
いきなり会話に入り込む、聞き覚えのある甲高い声の主は――
「――ステイリィ!? お前仕事はどうした!?」
今は真昼間。
治安局員のステイリィがこの場にプライベートでいられるはずもない。
「ウェイルさんが来てくれているのに、仕事なんてやってられませんよ!」
ステイリィが勢い良くウェイルの腕にしがみ付いた。
「う~ん、この鑑定しかしていなさそうな貧弱な手。最高です~」
「お前、喧嘩売ってんのかよ……」
ステイリィがウェイルの腕に頬ずりしてくる。
だが女性であればあって然るべきとある触感をウェイルは感じることが出来なかった。
「……お前、やっぱりまだ洗濯板なんだな……」
「う、うるさいやい! 私は胸を全部売って代わりにコアなファンを獲得したのです! 胸なんて任務の邪魔なだけです! 胸なんて胸なんて! ……それよりもウェイルさん。例の噂の事、知りたいのですか?」
話を逸らしてくるが、今はそれがありがたい。
「少し興味が沸いたよ」
「そいやお前さんは知らなかったな。この都市では最近、夜になると悪魔が出没するらしいんだ」
「おい、ヤンク! そりゃ私がウェイルさんに教えてあげる流れだったろう!? 勝手なことするな! ……それでですね、ウェイルさん。その悪魔は、夜な夜な人々を襲って回るんですよ!」
ステイリィはウェイル以外の者には非常に口が悪かったりする。
「悪魔? 魔獣の類のものだろう?」
この世界には人間や動物等の他に、“神獣”と呼ばれる生物が存在する。
神獣と一丸にまとめられてはいるが、彼らの姿は多種多様である。
“人ならざる者”。それが神獣である条件なのだ。教会によっては妖精とも天使とも呼ばれている。
人間に近しい種族もいるし、デーモンと言ったような魔獣と呼ばれる神獣もいる。
噂の悪魔というのは十中八九、魔獣の類のものだろう。
「俺もそうだとは思う。だが魔獣がこの都市に入り込むなんて考えられないだろ?」
「まぁ、確かにな……」
この都市に魔獣が入り込めるはずがない。それを二人はよく知っている。
何故ならこの宗教都市サスデルセルは、都市を囲む城壁に多種多様の教会からなる神聖結界が幾重にも張られてあるからだ。
「だがな、噂と言われているが実際に人が殺されているんだよ。そうだろ? ステイリィ」
「はい。実は一昨日にも、東の三番街で女性の死体が見つかったのです。お腹を引き裂かれていて、治安局の先輩の話しだとそれは酷い有様だったそうです。先週には西の五番街と北の四番街でも死体が見つかっています。殺され方は全く同じだったそうです……」
ステイリィのテンションが下がる。こんな話だ、無理も無い。
「酷い話だ。だがその噂とラルガ教会、一体何の関係があるんだ?」
「これだよ」
そう言ってヤンクはポケットの中から手のひらサイズの小さな壺を取り出した。
「それはラルガポットか。なるほど、少し読めてきた」
ラルガポットとはラルガ教会が製造している、魔払いのお守りである。
「悪魔から身を守る方法が一つだけある。それはラルガポットを常に肌身離さず持っていることだ」
「ラルガポットには悪魔を祓う効果があるとされているのですよ。現に一昨日の事件、襲われたのは三人組だったそうですが、生き残った二人はどちらもラルガポットを持っていたそうです。西の五番街の事件では皆殺しでした。西の地区はラルガ教会の信者は少ないですから。それでラルガポットの噂が広まっちゃったんです」
「ラルガポット、か……。また“神器”絡みだな」
「ヤンク、ラルガポット買っちゃったんだ」
「迷信に頼るのは癪だがな。自分の命の方が大切なんでね」
――神器。そう呼ばれる芸術品、美術品がある。
神器とは普通の芸術品とは異なり、特別な力を宿した芸術品のことをいう。
太古の昔に神々が創造したとされているが、その起源は未だ不明だ。
その力は多種多様で、ある剣には炎が宿り、ある杯には水が溢れる。雷を操る杖もあれば、闇を呼ぶ指輪もある。
人知を超えた力を持つ神器により、人々の生活はより豊かになったことは事実だ。
しかしその裏では神器の力に魅入られ、誤った使い方をする者も少なくない。大事件の裏には必ずと言っていいほど神器が絡んでいるのだ。
そんな神器がこの世には数え切れない程存在する。この都市を護る結界も神器によるものだし、ラルガポットもその一つなのだ。
ラルガポットは魔払いの力を持ち、古くからお守りとされている神器である。
しかしラルガポットはそこまで強い力を持つ神器ではない。せいぜい悪霊を祓う程度の力である。襲い来る魔獣を追い払う力など持ってはいない。
ラルガポットと魔獣。この噂には何か裏があるように感じるウェイルだった。
「こんな辛気臭い話はこれで終わりだ。それよりウェイル、お前そろそろ仕事だろ?」
「……そうだな。そろそろ行かないとまずい」
ウェイルはカウンターを立ち、ヤンクに宿泊賃を支払った。
「部屋の鍵はこれだ。いつもの部屋でいいだろ?」
三階の廊下の突き当たりの部屋。ウェイルがここに来たとき、いつも使う部屋だ。
「私も行くー!」
「お前もさっさと仕事に戻れ!」
ヤンクの屈強な拳がステイリィに頭に振り下ろされた。
「ぎゃふっ! ……痛ってーな、このクソジジィ!! 判ったよ! 仕事に戻ればいいんだろ? 戻れば!! ウェイルさん、また来ますからね!」
大股開けて、ドスドス歩いて宿を出て行くステイリィの姿に、一同はまた吹き出したのだった。
――●○●○●○――
ウェイルはヤンクから受けとった鍵を使い、いつもの部屋に入った。
「うわっ、埃だらけじゃないか……」
あまり掃除をしていないせいか、妙に小汚い。
ベッドを叩けば埃が舞い散るし、壁も所々ひびが目立つ。
「素晴らしいボロさと汚さだな。まったく今夜は良く眠れそうだよ」
つい皮肉が飛び出てしまう。
ウェイルは持ってきたバッグから鑑定道具一式を取り出し、部屋を後にするとラルガ教会へと足を向けた。
この時、ウェイルはまだ知る芳も無かった。
今夜は――なかなか眠れそうにないことを――。