神器『魔王の足枷』(サタン・チェーン)
アルカディアル教会本部。
「う、う~む……」
重たい眼をこすりながら、ゆっくりと体を起こす少女。
エメラルドに例えられるほど透き通った緑色の長髪を、見る人によっては勿体ない位、ぶきっちょにボリボリと掻き、ふわあと欠伸を一つする。
「レイア、レイア、どこにいるのじゃ?」
いつも目を覚ますと穏やかな顔をして待ってくれている唯一気の許せる人間が、今日に限ってそこにいない。
「うむ……、レイアがいない……」
普段と違う状況に、少しばかり不安が募る。
「……レイア……」
近くに置いてあるお気に入りのクマのぬいぐるみを抱きしめ、消え入るようにその名を呼ぶ。
人前では偉そうに振る舞うことの多いミルだが、実はとても臆病で、一人のときはいつもこうやって寂しさを紛らわしている。
「わらわは、一人なのか……?」
何千前だろうか。
昔の忌まわしき記憶が蘇る。
仲間は次々と封印され、たった一人となった自分を、ただただ責め立て、命を奪いに来る人間達。
恐怖し、涙し、必死に逃げ、仕返しに残虐を尽くしたあの頃。
あの頃になんて、もう戻りたくなんてない。
「誰ぞ、おらんのか……?」
こうなってしまえば誰でもよい。
とにかく誰かの声が聴きたかった。
「――ッ!? 誰かいるのか!?」
唐突に聞こえてきた足音に、思わず期待してしまう。
しかし、開けられた扉の外にいた者は、期待とは正反対の人物だった。
「龍姫様。お時間です。お力をお貸し願えませぬか?」
頬こけた顔で、嫌味な笑みを浮かべるイルガリという男。
こいつの目はどこかおかしい。
ミルは知っている。
こういう目の人間は、大抵ロクなやつじゃないことを。
ミルの最大のトラウマの、あの男と同じ目をしている。
だからこそ拒絶した。
「嫌じゃ」
「龍姫様、そこをなんとか」
「絶対嫌じゃ! それよりレイアはどこ行った!? レイアを出せ!」
「生憎テメレイア氏は外出中でして、しばらくお戻りになられないと思いますが」
「なら帰ってくるまで待つ。レイアが来なければわらわも行かん!」
ぷいとそっぽを向いてやる。
すると、微かにチッという舌打ちが鳴らされた。
「仕方ない……」
突如、全身に寒気が走った。
今まで気持ちの悪い笑みを絶やさなかったイルガリの顔が、無表情へと急変したからだ。
「龍姫様。我々とご同行願いたい」
「それは今嫌と言うた。レイアが来るまで譲る気はない」
「そうですか。それでは貴方はテメレイア氏を見捨てるおつもりで?」
「……え?」
テメレイアを見捨てるとは、一体どういうことなのだろうか。
「……詳しく話せ」
イルガリは、顔を伏せ、苦しそうに語りだす。
「テメレイア氏は、我らが仇敵、ラルガ教会の連中に拘束されてしまったのです。龍姫様の命を差し出さなければ、命の保証はしないと」
「どうして!? どうしてレイアがそんな目に!?」
「テメレイア氏は金の独占と龍姫様の命を狙うラルガ教会に抗議を申し立てに行ったのです。ラルガ教会にとっては龍という存在は忌むべき存在。龍姫様のお命など、奴らにとってはゴミ同然なのです。テメレイア氏は、奴らにそんな考えを止めるよう、貴方のために行ったのでございます」
「テメレイアがわらわのために……」
「これまでどんなにラルガが酷いことを行おうと、我々は温厚なる精神で彼らを許してきました。しかし、今回の件について、我々はもう我慢がなりません。どんな手段を用いてもテメレイア氏を救わねばならないのです」
封印を解かれて以来、ちゃんと話を聞いてくれた初めての人間。それがテメレイアだった。
そのテメレイアが、敵の手に落ちた。
ミルの心の中に、あの頃のような残虐な心が生まれてくる。
「どうか龍姫様の力をお貸しください。我々は龍姫様のためであればなんだって出来るのでございます。下の信者を見ましたか?」
いつもはテメレイアが固く閉ざしていた窓を、イルガリは開けた。
「聞こえてきませんか、我らの同志の声が!」
「龍姫様―!!」
「どうかお声をお聞かせくださいー!!」
「お力をお貸しくださいー!!」
窓の外から聞こえる、アルカディアル教会の信者の声。
「彼らは貴方のためであれば、なんだってするでしょう。今、この時も、テメレイア氏は大変危険な目に合っているはず。であるならば救いましょう。龍姫様のお力で」
「わらわの……力……」
解放されて以来、ずっと秘めてきた龍の力。
それをテメレイアの救出のために使えというのだ。
「いかがですか、龍姫様……?」
「……わかった。レイアの為なら何だってする。わらわはまず何をしたらいい?」
「それではまず信者達に見せつけてやることです。龍である証を。そうすれば、彼らはきっと龍姫様の望むままに働くことでしょう」
「翼を、見せればいいのだな」
そして、ミルは信者たちの前に躍り出た。
信者たちの狂喜乱舞は、もはや語れるレベルにないほどだった。
その日、アルカディアル教会は信者達を束ね、ソクソマハーツを完全に掌握。
ソクソマハーツは事実上、アルカディアル教会の管理下に置かれることになった。
反対する人間はどこにもいなかった。
神が舞い降りたと歓喜の渦を止めることは出来なかったし、信者たちの異常な目を見て、誰もが言葉など通じやしないと判断したからだ。
人知れずソクソマハーツを離れる者も多く、残ったのはアルカディアル教会の信者だけと成り果てた。
ミルはイルガリに言われるがままに、彼らに命じた。
ラルガ教会を潰し、テメレイアを救い出せと。
アルカディアル教会での神たる存在、『龍』の命令は、この瞬間から彼らにとって生きる目的と成り果てたのだ。
歓喜の声は轟音となり、教会前は阿鼻叫喚。
表に立つミルは、あまりの反応に恐怖さえしたが、テメレイアのことを思うと我慢できた。
背後に立つ男、イルガリのにやけ顔など、とても見ることすらできなかった。
イルガリの吐いた、テメレイアが攫われたという真っ赤なウソを、ミルは信じ切ってしまっていた。
――●○●○●○――
「イルガリ様。うまく行きましたね」
「ああ。龍姫を拘束している神器『魔王の足枷』を使わずに済んだ。そろそろ燃料が切れるとこだったからな。本気で暴れられると抑えきれなかったかも知れない」
「新しい燃料は用意しました。ここで変えておきましょう」
「それが良さそうだ」
アルカディアル教会の秘密地下室。
イルガリが見下す先には、一人の女性信者がいた。
彼女は一糸纏わぬ裸で、意識も朦朧として横たわっている。
その白い肌には、まるで悪魔が両手で彼女を掴んでいるかのような、黒い痣が残っている。
「あ……、あ……、りゅ、りゅうひめ……さ……ま……」
かろうじて漏れ出す、龍姫を呼ぶ言葉。
衰弱しきり、今にも命を失いそうな彼女を、イルガリは一瞥した後、興味なさそうに翻る。
「もう使えなさそうだな」
「そのようです。新たな餌を用意しましょう」
イルガリの部下が、彼女に付けられた神器を触る。
その瞬間、首輪は闇を排出した後、小さな銀色の指輪と変わる。
後に残った彼女は、すでにこと切れていた。
「連れてこい」
「は、離してください! 一体何をするんですか!?」
裸にされて拘束された新たな女性がイルガリの前に現れる。
「し、神父様、これは一体!?」
「安心してください。貴方は龍姫様と共にあります。怖がることはありません。この指輪をつけるのです」
「これを……?」
「ええ。これをつけるとですね。貴方は命を龍姫様に捧げることになります。大変名誉なことです」
それを聞いて、女性の顔は真っ青になる。
「ちょっとどういうことですか!? 私、命を失うに値する罪を犯しましたか!?」
「いえいえ。ですが龍姫様は貴方をお望みです。これ以上の理由は必要ですか?」
「当然です! どうしてこんな格好にされて、その上命まで…………」
そこまで叫ぶと、女性は唐突に俯き静かとなる。
顔を上げた時、その目に光はどこにもなかった。
「いいですね? 龍姫様に命を捧げるのです」
「……わかり……ました……」
項垂れるようにそう呟いた彼女は、躊躇うことなく指輪をつける。
神器は発動した。
激しい闇が彼女を包み、命を奪わんと拘束する。
「『魔王の足枷』は龍を封じることすら出来る強力な神器。故に能力維持には人間の持つ生命力を神器に注いでやらんとならん。だがこれで当分持つな。これからしばらくアルクエティアマインへの進攻に忙しいからな。次の生贄も急いで用意しておけ」
「了解しました。しかしイルガリ様。その神器は本当に強力ですね……」
「だろう? この精神介入神器『催眠汚染針』は秘蔵の神器でね。人間であれば簡単に洗脳出来る。実に素晴らしいものだ」
「どうして龍姫に使わないのですか?」
「言ったろう? 人間であれば、と。あれは人間じゃない。化け物だ」
イルガリは怪しい光を放つ『催眠汚染針』を懐にしまうと、その場を後にした。
事件が起こったのは、この二日後。
宗教都市サスデルセルは大混乱することになる。