浸食4
地下道の一角に開院した診療所は、腕の立つ美男と噂が立ち、数日の間に人気になった。
今まではアキン市の外やイギリス本土にまで行かないと治療できなかった病気や怪我が、手ごろな料金で、あっという間に治ってしまうと評判だ。
それに付け加えて、クレスラスとも仲がいいとくれば、女性たちは我先にとワイズに近づこうとした。
だが、ワイズにいくら色仕掛けで挑んでも兆候は見られず、内科の検診も指が肌に触れることなく終わってしまう。
―――神業の噂は、瞬く間にアキン市を駆け抜けた。
「あんたがこんなにも名医なんて、見かけによらず、だな」
「最上のクリスチャンにそう言っていただけるとは、思ってもいなかった賛辞」
皮肉に皮肉を返してくる、名医だ。
ようやく午前の外来診療が終わり、上の喫茶ルームで食事をしていたワイズは、多忙でしばらく顔も合わせていなかったため、一緒に食事をしたいと言い出したフロムローズとクレスラスと合流した。彼女が加わるだけで、途端に騒がしくなる。
「ここのごはんも、クレスラスが作るのと同じくらい美味しいわ!」
「ああ。俺もここの味付けは気に入ってる」
四人がけのテーブルに並ぶのはイタリア料理だ。三種類のパスタに、具沢山のピザ、フォアグラの冷製、魚介類のサラダと、普段なら食べることができない食材。
今まで、アキン市の食事しか食べたことがなかったフロムローズは、率先して料理を取っていく。
「慌てて食べると詰まらせるよ」
「太りたくなければ、ゆっくりと噛め」
「二人とも酷い!」
次から次へと頬張る少女に、男二人は釘を刺す。
すべての料理を平らげ、デザートのジェラードを食べていると、入口の傍に、つばの広い帽子の女性が座っていた。
「あの人……誰……?」
最初に人がいることに気がついたフロムローズは、クレスラスに問う。首をかしげる神父の隣にいたワイズは立ち上がり、その女性の許へ歩み寄る。二、三言話すと女性を連れて戻ってきた。
「神父。惑わせたな……」
帽子を外し、初めて見せた整った顔には、ワイズの瞳と同じ、深い蒼。
「―――……彼女は、姉だ」
「マリアと申します……」
背に流している銀糸が、ラベンダー色のワンピースによく映える。からだのラインが出ないような上着を着てはいるが、それでも体形が分かってしまうのはやはり彼女のボディラインが美しいからだろう。
「……マリアとは、三年以上前に分かれたきりで、顔も見えず分からなかった」
「姉君だったのか……」
マリアはフロムローズの隣に座り、コーヒーを頼んだ。
「私も、離れ離れになって、二度と会えないと思っていたの……。でも、彼の噂を聞いて、ようやくこの島にたどり着いた……」
見せる笑顔は少し頬がこけていて、その苦労を少々感じさせるくらい。だが、そんなマイナス点も彼女の美貌を汚すところまではいかない。
「失礼、姉君殿。教会では苦しそうな様子とお見受けしましたが……」
「神父様は、あの教会の……。ご心配をありがとうございます。幼いときより病弱で、日光にあまり強くないものですから……」
「だからツバの広い帽子をかぶっているのね!」
フロムローズの問いかけに、微笑で返す。
「フロムローズ。そろそろ教会に戻るよ。では、我々はこれで失礼します」
「は~い!」
クレスラスとフロムローズは立ち上がり、料金を払うと階段を下りていった。
診療所の扉の閉まる音がして、マリアは手に持っていたコーヒーカップを下ろし、呟いた。
「いい子達ね……」
「―――……あなたが、『Я国』の国王となっていたこと、驚きましたよ」
「そう?」
「……生きていたことも……」
微笑んでいた表情が、消える。
「―――……あなたの死に顔を、今でも覚えていますよ……」
「……」
「当時、天才と謳われ、フォーミュラー‐ワン―――最高規格の称号を与えられていたこの私が、唯一の家族だったあなただけを救うことができなかった……。最初で最後の汚点ですよ」
椅子の背もたれにもたれかかった姿は、普段は見せないワイズの一面。
長い睫毛が影を落とすワイズを見て、マリアはクスっと笑った。
「先代Я国王の影が私を見初めたのが、まだあなたが産まれる前……まだ私も子どもだったころ。それから数年が経ち、私は后に隠れて王の影と関係を続けていたわ。でも后にばれちゃってね。彼は、后にも自分が本当の国王ではないと教えていなかったらしくて、彼女は私を酷いことに聖器で殺した!」
その後、后は王の影に殺され、マリアのからだを復活させるために術を施したのだという。
「私たち『Я国』の人間は、ヴァンピール。他の人種よりも身体能力が高く、退化は遅い。……そんな『Я国』の王の本体が、つい最近目覚めたの」
―――……紅い月の空の下で……―――。
ようやくワイズの中で一本の線に繋がった。
バチカンからの帰り道。紅い月の陰の力を体内に取り込んだために、クレスラスはおかしくなったに違いなかった。どうして陰の力を、というと、
「あの神父にいたずらをしたのは、あなたですね」
目の前の姉を睨みつける。
「……」
「あの男は、私のものですよ」
「あら。それはごめんなさい。だって、綺麗だったんだもの。からだは陽の気に護られているのに、その中は陰の気に満ちている……」
電車で移動する彼の不思議な気を追い、ここまでやってきた。まさかこの地に、ワイズがいることなど知らず。
「……さて、私は仕事に戻る。神父が目当てだと言うのなら、貴族の連中に見つからないようにとっとと姿を消すことを薦める」
そう言って、ワイズは席を立つ。
その背に、
「私も彼が欲しいわ」
「……」
「私、先代国王の本体を、このくちびるで殺したの。……わかるでしょう?私の力がどれほどに強大なっているかって……」
あなたも二の舞になりたくなければ、彼を渡しなさい……。
「―――……好きにすればいい……。だが、私の邪魔をすることは許さん」
男を誘う、魔女のくちびるを睨みつけ、ワイズは階段を下りた。