浸食1
フロムローズの一日は、クレスラスが淹れる紅茶を飲むことから始まる。
彼女お気に入りのマイセンに、たっぷりのミルクを入れたダージリン。
フリルがたくさん付いた淡いピンクのドレスに、クレスラスが結い上げた輝く銀糸の髪には、華やかな梅色のリボン。丸々として大きい翡翠の瞳に良く似合っている。
クレスラスを大好きな彼女は、実年齢19の姿で一緒にいたいのだが、彼はそれを静かに拒んだ。
今思えば、少女の姿だったから、道端に倒れていた自分を助け、自宅で介抱してくれたのであって、女性と接することが苦手……というよりは嫌悪に近い彼が、恋心をもった自分を受け入れないのは、無理は無い。
比べるまでも無く、フロムローズはクレスラスに一番近い位置にいる。
ミサなどで遠くから眺めている女性たちを見ていると、自分が置かれている位置の近さに納得するが、実際はぜんぜん近くない。この距離がクレスラスの最大の譲歩だと頭では分かっていても、蟠りが残るばかりだ。
「クレス、お腹がすいたわ」
「はい、マイレディ。お待たせ」
「わあ!」
今日の朝食は、ふわふわのオムレツだ。切込みを入れると、中からとろりとチーズが溢れ出てくる。
「火傷しないように気をつけて」
「はーい」
少し冷まして口の中に入れた。
「おいしー!」
絶賛すると、クレスラスは美しい絵画の美女のように微笑む。ほら。私だけが見れる。フロムローズは早くも二口目を頬張った。
本当に彼の料理は美味しくて、かつて家で食べていた味を忘れてしまいそうになりそうだ。
「クレス、週末チョコレートフォンデュしない?」
「チーズフォンデュのチョコレート版ってこと?」
「そう!具材はクッキーや果物なの!一度でいいからやってみたかったのよね?。お願い!」
テーブルの脇に立っていたクレスラスの上着をひしっと掴み、目を輝かせて頼み込んでいるところに、もう一人の住人が入ってきた。
「我儘もほどほどにしておけ。フロムローズ……」
静かな美声が後ろから聞こえてくる。
朝日に照らされた鮮やかな青銀の髪は背に流されていて、彼の自由な姿を髣髴させる。
ワイズはランチョンマットが敷かれている席に座ると、『K』に取り寄せさせた国外の新聞を広げた。
その間にクレスラスは温めていたカップにダージリンを注ぐ。この男はストレートしか飲まない。ポットをテーブルに置くと、オムレツを作りにキッチンへ向かう。その姿を横目にワイズは新聞をめくった。
「不可解な、難事件……」
目を細めたワイズを、向かいの席から見ていたフロムローズは不思議そうに見る。視線に気づき、折り曲げて彼女に見えるようにテーブルに置いた。
「Я(ヤー)国の国王が死去。寝室には大量の灰が残されていた……。ねえ、これって……」
「Я国は、国民の平均寿命が他の国民よりも長く、身体能力もあまりにも違うため、先の隣国同士の戦争では前線で活躍していた。その結果、戦争を仕掛けた国は完璧に滅ぼされ、今は山を越えた先の砂漠と化した」
「そこの人たちの平均的な寿命って?」
ワイズの言葉に引っかかったフロムローズは、身を乗り出して訊ねる。
「百五十から二百だと言われている」
ワイズと自分の分のオムレツを持ってきたクレスラスが、代わりに答えた。さらに、彼は続ける。
「突然王が死んだことによって、最近新しい国王が決定したそうだ。なんでも、以前から国王のお気に入りの女性だとか?侮れないことに、ここ数年の情勢は彼女の功績とも聞く」
「どちらに転んでも、普通の一般人が立ち向かって勝てる相手でもない。相手はアキン市よりも鎖国を強めた国で、高度な技術も超人的な能力も持っている。何もしない方が、身のためだ」
ワイズは興味も無さそうに新聞を閉じ、湯気の立つカップに手を伸ばした。
―――……紅い月が、見えた……。
昨晩。
そう言って彼は、ワイズの部屋で倒れた。今の様子だと身体に異常は無さそうだ。
教会を覗いたときの神父の姿に、特に変わった様子は無かった。ならば、その後。屋敷に帰ってくるまでの間にクレスラスの身に何かが起こった。
「神父、時間が空いたら私の部屋に」
「え?ああ……」
それ以上ここで話すことは無いと、食事を始めるワイズに、クレスラスとフロムローズは顔を見合わせた。
片づけが終わったクレスラスは、新聞を読んでいるフロムローズを確認して、静かに階段を上がった。
角部屋を二度ノックすると、入れと声がある。ドアノブを押し、中へそっと入った。
寒いような気がしたのは、気のせいか。
部屋の主は外部より持ち込んだソファの上で寛いでいた。どんなにラフな格好をしていても絵になるのは否めない。クレスラスは息を詰める。
「自覚が無いようだが?」
「え……?」
男の不思議な色の瞳が、クレスラスを捉える。氷のように冷たい、ぞっとするような視線。
その内視線は外され、クレスラスの正面へ。
「黒耀石を、外していただろう?」
「……それが、何か?」
「……そのせいか……」
先ほどまでとはうって変わって、呆れた表情。
「黒耀石がお前を護ると言っていたはずだが?」
今両方の耳朶に収まっている黒い石は、去年の年末にワイズが与えたものだ。
必ず嵌めておけと言っていたのに、勝手に外したせいでからだを黒い気に蝕まれたよう。
「お前が帰ってきた日のことを、順を追って話せ」
「……なぜ?」
「気づかないか?お前がピアスを外していたことで闇の気が濃くなっている。……お前がこのままで言いというのなら止めないが」
冬に対峙した、かつて神父だった魔の物の記憶は、あの後なぜかクレスラスの中からごっそりと抜けていた。きっと無意識に閉じ込めたのだろうと、ワイズは勝手に解釈していたのだが。
長い間に積み重ねられてきた呪いによる、聖職者にしてはあまりにも濃い瘴気に、どんな洗礼を受けた聖水でも彼を拒むだろう。
「あの日は、買い物に行った後に教会に行って、しばらく祈りを捧げていた……。一刻ほどして屋敷に戻る帰り道で、満月にしては暗いなと思って空を見上げた。……そしたら血のように紅い月があって……」
「どうした?」
急に止まったクレスラスへ寄る。
「いや、月が……」
思い出そうとするが、そこからどうしても思い出すことができない。
「……この部屋に入ってきたことは、覚えているか?」
「俺が?まさか……」
「ならば、倒れたことは?」
「いや……」
「……ピアスは、いつからいつまで外していた?」
「……外したのはバチカンに着いて……。教皇にお会いするときに無礼だからと枢機卿様が……。帰りの電車の中でまた嵌めたが……」
視線をきょろきょろとさせて、今までのクレスラスには見られない動揺の仕方。少し、冷や汗もある。
ワイズは、目を細め、さらに近づく。クレスラスの足は後ろへ。
「な……にを……?」
とうとう壁に背がぶつかり、逃げ道がなくなってしまった。
「瘴気を浄化してやると言っているんだ。黙って目を閉じろ」
「ぁ……待て……―――」
腕を掴む、強い力。
腰を支える、優しい力。
―――……きっと、いろんな女性が陥落していったんだろうな……。
頭のどこかで不謹慎なことを考えている。
そう思いながら、ぼんやりと目を開けた先には、今まで見たことの無い、優しい……微笑み……?
「!おい……」
突然バランスを崩したクレスラスを、荒く引き寄せた。ため息をつき、痩せているからだを抱き上げ、ベッドへ。
「……紅い月に、見初められた……?」
何者かがクレスラスに興味を持ったのか。
見下ろした先には、鈍く輝く黒耀石。
「……強化しておくか……」
上から整った顔を覗き、クレスラスが起きないことを確認すると、そっと両方の耳朶にあるピアスに触れた。
「кровь луна ночь……」
指を離すと、一回りほど大きくなった黒耀石が鎮座していた。
「紅い月は……予言か……?クレスラス……」
テーブルに置いたままにしていた携帯を手に取り、リダイヤルの最上位にある番号に電話をかけた。相手は5コール目で出る。
『『K』です』
「私だ。至急で先日没したЯ国の前国王の死因を調べろ」
『……死因……ですか?』
「ああ。それと、死んだ日の空に何があったのかも……」
『―――御意』それだけを言って、ワイズは携帯を元の位置に置いた。