本体1
こんなに、息が切れるまで走ったことなどあっただろうか、と思うほど、丘の上まで平らではない道を、ただひたすらに駆けた。
屋敷の前にあるセキュリティを震える手でようやく解除し、扉を目指す。遠くからクレスラスを呼ぶフロムローズの声が聞こえたが、振り返ることなく階段を駆け上がる。ノックもせずに、ドアノブを回した。
「―――……ワイズっ!」
開け放たれた窓。
雨に濡れ、水浸しになった、彼が気に入っていたソファ。
テーブルの上の、割れたグラス。
そして、ベッドの上に仰向けに横たわっている、濡れそぼったワイズの姿。
閉じられた瞳。
青ざめた、造形のような、美しい顔。
「おい!ワイズ!しっかりしろっ!……ワイズっ!」
肩を掴み、激しく揺さぶった。
あんな別れ方をしたのに。あんなにワイズを切り捨てたのに。
―――あの瞳が見られないのは、嫌だ……!
時には心地よく、時には冷たい、あの空と海が融合する不思議な色の瞳を、もう二度と見られないことだけは、耐えられない。
「……っ……」
「ワイズ!」
と、まだ意識があると安堵した途端、
「な……」
いきなり伸びてきた手に、ぐい、っと腕を掴まれ、無理やり引き寄せられた。
互いの息がかかる距離で、細く目を開けた相手に、
「な……ぜ……。ここにいる……?神父」
皮肉めいた調子で詰られた。
「……あんたが死んだと、聞かされたから」
冷たく言い返すと、
「あぁ。安穏な日常が戻ってくるからか……」
血の色が残る口で、ニッ、と嗤い返してくる。
「あんたが死ねば、葬儀は俺が執り行わなければならない。そんなのはお断りだ」
そんなワイズに対抗し、睨み、言い捨てた。
「それは問題だ。私も、お前に葬儀をされるとなると、簡単に死ぬわけにはいかないな」
そう言うと、美丈夫は髪をかきあげ、物憂い様子で半身を起こす。クレスラスもホッとしてベッドに座り込んだ。
「安心したか?私は死にたくとも簡単には死なない」
「死なない……?どういうことだ」
「……」
ワイズの冷ややかな視線が、こちらへ向き、
「漆黒が、戻ってきているようだな……」
更に、近くへ寄せる。
「さすがに、今回は力を使いすぎた。寄越せ」
「力?うわっ!」
胸ぐらを掴まれ、気がついたときにはすでに綺麗な顔がすぐそこにあった。
有無を言わさぬ力で後頭部を固定され、重ねられたくちびるを離そうとすれば、神秘的な瞳の魔力にかかったように、動けなくなってしまう。
「……っ」
全身から力が抜けていく、脱力感。
「……ぅん……」
ようやくくちびるが外されたときには力を入れることができず、ワイズの肩に身を預ける羽目になった。
昨夜に争ったばかりの相手に凭れかかっていることに、苦笑する。
「―――……『Я国』の王は、まだ生きているぞ」
「……え?」
ぼんやりと虚ろなクレスラスを、現実に戻すようにワイズは呟いた。
「あの後、部屋に帰ってきたら訪問者」
電話を取ると、『K』ではなく、しわがれた男の声。
『実の姉を殺したか……。暗殺者よ』
『いつかもお前がかけてきていたのか。久しぶりすぎてその声を忘れていた。えらく面白い余興を贈ってくれたものだ』
相手には見えないが、皮肉の笑みを浮かべて言う。
『あやつは、私の本体を吸い込んでしまった。おかげで私はまた、精神だけの存在になってしまったではないか。復活するまでに長い期間が必要なのはお前も知っているだろう?』
『いいじゃないか。これまでも長い間生きていたんだ。これから先も困ることはないだろう?』
『私は今以上に力が欲しい!我が血縁者よ!私にそなたの力を寄越せ!』
気がついたときには、首筋に、鋭い痛み。体内の血が音を立てて外に出て行く様子が分かってきた。次第にその老体の姿が見え始める。初めからそこにいたことを示していた。
実体化して満足したのか、老人は「借りは返す」と言って窓から去っていった。
『……くそっ』
油断していた。思った以上に血を吸われている。
急激な貧血に襲われ、ワイズは双眸を、す、と細めて、ベッドに倒れこんだ。朝になり、不審な物音に脅えていたフロムローズが、ワイズの首筋の血を見たため、真っ青になりクレスラスを呼びに来たというわけだ。
クレスラスの鼓動が落ち着いたことを確認すると、ベッドから起き上がり、血と雨に濡れたシャツを脱ぎ捨て、クローゼットから取り出したシャツに腕を通す。髪から滴り落ちる雫はそのままだ。
ワイズの着替えが終わるのを待って、再び問う。
「姉君は……あんたが……」
「……もともと死んでいた。純銀の杭を自ら打って死んだんだ……。私はまんまと長い間あの女の支配下にいた……。それすらも、あの国王に利用されていた……。傀儡だったというわけだ」
見上げた先には、感情のない表情。
「あんたも……そういう一族なのだろう……?」
―――……血を吸われても、生きている……。
「……Я国民はすべて、吸血一族だ……。恐ろしいか?」
そうだろう、と。クク、と自分自身を嗤っているようだ。
「……いや……」
恐ろしいかと訊かれて、不思議なことにそんな感情が湧かないことに気づいた。
「あんたは……。なぜだろう。神父殿や、姉君とは……違う気がする」
なぜだかは、分からない。だが、畏怖の気持ちが、目の前の男には向かないのだ。
「……私が、お前たちのような人間の血が一切混じっていない、純血だとしても、か?」
ワイズの真剣な視線が、熱い。
「ああ。太陽も十字架も、あんたには一切通用しない……」
「面白いことを言う。やはり、退屈しないな」
「え?」
鋭い眼差しが、少し、柔らかくなって、
「昨夜言った言葉を撤回する。お前といると、楽しめる……」
昨日の、晩。
―――お前は、私の望んでいるものでは、なかった……。
この言葉を突きつけられたとき、奈落の底に堕ちた気分だった。
あの時涙が零れたのは、目の前で人が殺されたからだと思っていたが、実は違ったらしい。
……ワイズが、手にかけたから……。
俺は、この正体不明な男を、必要としている……?
だから、神はあんなことを仰ったのだろうか。
「一つ、決めたんだ」
ワイズの視線が、クレスラスを捉える。
「俺が、あんたを深い闇などというものから救い出す。あんたは、俺にとっても面白い存在だから……」
「……それは、褒め言葉として受け取るものだろうか」
―――迷える仔羊を、救いなさい。
「立派な褒め言葉だろう」
にっ、と笑い返してみせると、相手は不意をつかれたような、顔。
もし、あんたが迷っているのなら、俺が導いてやる。
もし、あんたが苦しんでいるのなら、俺も共に考える。
共に笑い、共に歩もう。
そうした先に、きっと、神の微笑む姿がある―――。
Я(ヤー)国。
三日天下の先代国王を倒し、先々代国王が再び、永い眠りを経てその席に返り咲いた。
その姿は、今までのようなしわがれた老人ではなく、脂ののった、四十くらいに見える。
何色にも輝く豪華なシャンデリアの下。気だるげに流された、美しい青銀の髪が、鮮やか。
豪華絢爛の私室で、優雅にソファに寝そべって、先ほど吸ったばかりの血の余韻に浸っていた。
「……血縁とはいえ、あの男の血は、美味いな……」
いつだったか、マリアが老いぼれたからだを目覚めさせるために、大量の血液を持ってきたが、それでもからだを満足に動かせることはできず。そんな状態でからだのすべてを奪われてしまい、味わうこともできなかった。
それに比べて、あの、男。
思う存分に吸ってやったので、今頃動けなくなっているかもしれないが、あれくらいで死ぬことはないし、能力までは奪ってはいない。
久しぶりに見た、美しい顔。
見事な青銀の髪。
空と海が混じる不思議な色の、瞳。
今は、アキン市という、あの都市で医者をしていると、古参の者が調べた資料にある。
情報により、名医になっていたことは知っていた。だが、資料を読む限り、しばらく医学界から離れていたようだ。なぜ復職したのか定かではないが、弱った暁には、あの部屋へ行こうとほくそ笑む。
そして、マリア。彼女は自分の力を過信しすぎた。
彼女が実の弟を愛していることを、国王は知っていた。だから好きにさせたのだ。いずれは姉弟もろとも取り込んでやろうと。
人間狩りをしていたときに、遊んでいたようだった。犠牲になった男たちや、弟の元患者だった女たちには、すまない気も湧く。ようやく訪れた幸せの絶頂での寸前で女性の象徴を奪われて殺されたのだ。死んでも死にきれない思いだろうが、死人を生き返らせることは醜い傀儡になるだけなので、つまらない。
起き上がり、部屋の隅に活けられている花の中から一輪を手に取った。
白い、薔薇。
「……」
彼女の好きな花だった。
自分の代わりにЯ国の行政を行っていた彼女の傍には、いつもこの花があったのだという。
この部屋に飾られているのも、彼女への餞だ。
手の中の美しい大輪の薔薇は、少しずつ煙を発し、次第に枯れていく。
「さらばだ。……マリア……」
萎れた薔薇を抛り捨てると、華美な靴で踏みにじった。
ただ、弟だけを愛していた女。
―――我が傍には、必要ない……。
脳裏に浮かぶのは、青銀の、美丈夫。
―――あの男は、私のものだ……!
鏡に映った己の顔を見て、にやり、と嗤う。
そこにあるのは、ワイズに似た、それ。
FIN
二作目です。
一作目からちょっと季節は過ぎて、春のお話になりました。
春はやっぱり桜に出逢い、別れ… 嬉しいことや哀しいことが目まぐるしく訪れる季節だなと、桜が散るたびに思います。
さて、ホテル暮らしだと、ストーリー展開が面倒だと思ったところから、ドクターのお引越しが始まりました。
新しいキャラクターも敵キャラも出てきて賑やかになりましたが、クレスの最大の敵はやはりワイズだと思うんですよね。
キリスト教の教えでもありますが、モーセの十戒やアガペーにあるような思想や禁忌をことごとく切り捨てる人ですから。
なぜワイズは医師の道を志したのか。いつから人を殺すようになったのか。それは、教えと現実のギャップの狭間にいたときから。
日光大丈夫なのは伝承にあるヴァンパイアというものではなくて、生き血を啜っては力を吸収する吸血一族だからです。(わかりやすいようにあえてヴァンパイアにしていますが実は少し違いますv)
さて次は三作目です。
まとまった時間が取れたらまたUPしますので、ぜひよろしくお願いします!
再見