華鬼2
パイプオルガンの情緒ある音色は、どこか心の汚れを捨て去ってくれるよう。
クレスラスは、頭に浮かんだ神の言葉に合うように、白い鍵盤へ指を滑らせた。
「『主は、従う人に目を注ぎ、助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。
主は悪を行うものに御顔を向け、その名の記念を地上から絶たれる。
主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される。
主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。
主は従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる。
主に逆らうものは災いに遭えば命を失い、主に従う人を憎むものは罪に定められる。
主はその僕の魂を贖ってくださる。』」
「主を避けどころとする人は、罪に定められることがない。……すばらしいことですわね」
「―――!」
突然の聞き覚えのある声に、クレスラスは後ろを振り返った。
「ワイズの、姉君殿」
「お邪魔してごめんなさい、神父様。私、パイプオルガンの音が好きなの」
「いえ、構いません。教会は、訪れた方々すべてに解放されていますから」
「あら。あなた自身もそうなのかしら?」
「そうですね」
マリアが隣の椅子に座り、指を組んだのを見て、再び鍵盤に指を置いた。
―――アヴェ・マリア。
クリスマスのころになると必ず耳にする、癒しの曲。
彼女の心が洗われますようにと、願いを込める。
ワイズは彼女のことを、置けと言っていっていたが、クレスラスにはそんなことはできなかった。
何かしら闇があるのなら、それを拭い去りたいのだ。
神がクレスラスを闇の底から救い出してくれたように、フロムローズやワイズを救いたい。
―――欺瞞、か……。
ワイズに言われたとき、心が痛んだ。
―――お前も、私やフロムローズのように、一度堕ちてみるのも悪くなかろう?
それが、あんたの本音なのか?
あんたは俺を捜していたのは、俺を再び悪夢のような日々に突き落とすため?
曲が終わり、立ち上がる。
「姉君殿。一つ訊ねてもよろしいでしょうか?」
「何かしら?」
「ワイズ……弟君は、昔からあのような男だったのですか?」
いつも、何を考えているのか分からず、胸に抱えているその闇を、深く愛している。
何色にも染まることなく、ただ、人々の心に存在感を植えつけていく。
だからなのか。神に携わる仕事なのに、クレスラスは幾度もその闇に触れてみたいと思ってしまうのだ。だが、隙間から覗くそれらは、クレスラスに向かって牙を剥く。
「昔は、優しい子だったわ。私は、日の光に当たると火傷を負ってしまうくらい皮膚が弱くって。幼いころから天才と謳われたあの子は、私の病気を自分が治すといって勉強していたの」
マリアの足音が、近づく。そっと、肩に暖かい手が置かれた。ヒールがある分、彼女が少し見下ろしてくる。
「でも、彼は変わってしまった……」
俯く表情は、ワイズとよく似ている。
「あなたは優しい人ね。ワイズがあなたの傍にいるのは、きっとあなたの中にかつての自分を見出しているからかもしれないわ。だから魅かれた……」
引き寄せられ、耳元に囁かれる、温かい言葉。
「私はずっと、彼が好きなの。……だから、彼が見つめる視線の先、彼が欲しいものすべてを、私は握りつぶす……!」
―――愛する弟を、私という籠に閉じ込めるために。
「っあ―――!」
強い力で、首を絞められた。
「神父様……。あなたのおかげよ。あなたが電車に乗っているときに、あなたのからだから微かに彼の力を感じた……。だからあなたに陰の気を付け、彼に気づいてもらえるようにしたの……。あの子の患者だった子たちが美しくなっていることが許せなくって、乳房を奪ってやった!そして、さらに力をつけるためにアキン市近くの町で数人の男たちから精気を奪った!」
期待どおり、彼はマリアの存在に気づき、彼女からクレスラスを護るために引き離そうとした。
「ピアスから、彼の力があなたを取り巻いているのが見える。だけど、そんなもので、私を止めることはできないわ!」
顔から血の気が引き、段々と感覚がなくなっていく。立っていられず、椅子の上に崩れた。女性の力だと侮っていた。指は次第に強く、深く入っていく。
「つ……」
マリアが片手でクレスラスの胸元を弄り始めた。あらわになったうなじに、まるで蛇のように、ねとっ、と舌を這わせていく。
平常心は薄れていき、抵抗のために彼女の腕を掴んでいた手が、力なくぶら下がる。
マリアは、クレスラスが両耳朶に嵌めている黒耀石のピアスに気づくと、にやりと嗤い、くちびるを寄せた。
「あなたの力も、ちょうだい……!」
強化されたはずの黒耀石が、鈍い音を出して粉々になる。
「もう片方も……っぐ、あっ!」
「―――……?」
絞めていた手が外れ、クレスラスはゆっくりと目を開けた。
「ワ……イズ……」
彼女の後ろにいたのは紛れもない、彼女が唯一切望していた男。
「……どう……し、て……?」
教会の外では雨が降り出しているのか。全身が濡れ、いつもなら美しい青銀の髪が、鈍く輝いている。
解放された首に手をやって、激しくい息を吸う。咳き込みながらも、タイミングが良すぎだと、胸中で詰った。
「生きていて何よりだ。神父。ようやくマリアの狙いが分かったんでな。答え合わせに来た」
「あら。狙いなんて。……何の、こと……言っているの?」
腹を刺されたらしく、足元にはぼとぼとと紅い血が落ちている。弟と対峙したその表情は、先ほどの妖しい表情とうって変わって険しかった。
「すべて、お前の計画だった……。先代Я国王とその后までも騙しこみ、計画に邪魔な者、力を奪う者すべてを殺した。俺すらを欺き、からだの回復を待ってЯ国王をも手にかけた。……お前の狙いは、私だったんだな」
「ワイズ……」
動揺するクレスラスを振り向き、彼女は微笑んだ。
「彼を愛しているの。産まれたときからずっと、ずっとよ。私は彼の為にだけ生きてきた。彼の力になれるのなら、悪魔と契約しても構わないって思っていた。そんなとき我ら一族の秘密に気づいたの。これならあなたの心を、ずっと私だけのものにしておける!だから、自らを滅ぼす聖器で己を刺した。仮死状態を保ち、Я国内でそのときが来るのを待った……」
「私の患者たちを殺したのも、それか?」
「ええ。あなたの手によって助かった命を、私が食べてあげたわ。幸せな顔している彼女たちが、二度とあなたに……いいえ、この世を見ないようにね」
「マリア!」
荒い呼吸を重ねながらも、マリアの表情は変わらない。
「そんな顔しても駄目よ。ねえ、神父様。あなたを私の中に取り込めば、彼は私の傍にいるでしょ?だから、ちょうだい!」
「姉、ぎ―――!」
突然触れ合った、くちびる。
離れていたはずなのに、いつの間にか目の前に美貌がある。
何度も角度をかえ、深く吸い込まれていく。あのとき嗅いだ、匂い。
―――思い出せ。この匂い……どこかで……。
「―――そうか……」
ワイズの声が、近かった。
「ああっ!」
「―――!」
ガリ、と尖った犬歯にくちびるを噛まれ、クレスラスは顔を顰めた。仰け反って離れたマリアを見上げながら、血に濡れたくちびるを拭う。
「……?ワ……イズ……?……姉君だぞ!」
「あう!」
苦しんで顔を歪めているマリアの胸部から、大量の血が噴出している。その後ろにワイズ。彼の腕は、彼女の胸を貫通していた。
「こ……殺すの?」
「最期だ」
目の前で倒れていくマリアのからだから、ワイズの腕が引き戻された。その手の中には、ドクン、ドクンと激しく鼓動を打つ、心臓。
彼女の力尽きたからだを、クレスラスは慌てて、だが、しっかりと受け止めた。
グイっと力を入れ、ワイズは心臓を握りつぶす。爪に引き裂かれた筋肉の間から勢い良く紅い血が飛び散った。
―――この、ビジョン。
「姉君殿!しっかりしろ!姉君殿」
口の端から血を流しながら、彼女は優しい笑みでクレスラスを見つめている。
微かに動くくちびるで、
「……私―――」
「姉君!」
からだをかき抱いたのと同時に、彼女のからだすべてが灰になった。
「姉君殿……」
マリアの最期の言葉。
―――彼と共に永久を過ごせるならば。彼のすべてを手に入れられるのならば、代わりに、私の宝物を差し上げます―――。
灰を掬い、何かのデジャブと重なった。ふと見上げた先に、血まみれになった、ワイズの姿。
「あ……」
それはかつて見た、惨劇の映像だった。
突然の、フラッシュバック。
冬の、あの日。
―――神父様が、殺された……。
気がついたときには灰を彼へと投げつけていた。
「―――人殺し!」
ゆっくりと、返り血を浴びた殺人者が振り向く。その目は冷酷で、無慈悲なものだった。
「あのとき、マリアのことなら置け。お前には関係はないと、言っていたはずだ」
「っ……。それもだが、もっと前に!神父様のことだ!」
ワイズは目を細め、元は姉のからだだったはずの灰の上に膝をつく。血の色に染まった手を伸ばし、クレスラスの頬を挟んだ。
「……思い出したのか……」
クレスラスの視線を逸らさせないよう、無理やり自分のほうを向かせる。美しい金輪が、今は見えなかった。
「なぜ、あんたは神父様を……」
『殺したのか』という単語を、口に出すことが苦しかった。
その前に、彼が本当に人間だったのか。と訊かれれば答えることもできない。
ただ、神を愛していた人。……だと、思う。
クレスラスに、神の尊さを教えてくれただった。
この世すべてを呪い、己の命すら絶とうとしていたときに、人の優しさを教えてくれた。
人々が愛することを。
苦しんだとしても、神を信じていれば必ず、神が救ってくださることを。
たくさんのことを与えてくれた人だった。
それなのに……。
「あいつはいつからか闇行に手を染め、お前を油断させて喰うつもりだった。お前の力を我が物として、力を誇示するために」
あのときの形相の神父の顔が、脳裏に蘇る。
―――美しい。美しいクレスラス……。あなたは私の思い通りに信者を増やしてくれればいいのです……。この私の為に……―――。
鋭い視線。尖った牙。押さえつける、その力。
―――お前がこのまま私に身も心も委ねれば……お前の力が私のものと混じり、私は更に強大な力を手に入れることができるのだ……!
―――お前のような爆弾のような生き物……誰が……!
それまでの、短いけれど楽しかった時間は、瓦礫のように壊れていった。
「なにを、泣く」
言われてから、気がついた。
次々にあふれ出てくる涙を、形良い指で拭われて、その手を振り払った。
目を顰める相手を、キリッ、と睨みつける。
「もう、俺に構うな……っ!」
「……」
もう、構わないでくれ……。
血に汚れた手で、ワイズの胸を叩いた。
「……契約を、破るか」
かつては心地よいと思っていた美声が、今は胸をきつく締め付ける。
見上げると、そこには苦々しい顔をした、美男。
「あ」
肩を掴まれ、
「ふざけるなよ。神父」
痛いほどに、力を入れられて、思わず顔を顰めた。
「神に仕える者が、そう簡単に約したことを破るとはな……」
あまりにも怖い、その美貌。
「あ……神よ……。か、神よ……」
がたがたと震えだし、涙に濡れた目には、見上げた先にある十字架しか見えなかった。
「……お前は……」
凝視し、諦めたように一つため息をつくと、ワイズは掴んでいた手を離した。
戒めから逃れたクレスラスは、膝をついて唯一の希望の十字架へ進み、その無機質なものに縋りつく。
「神父様……。なぜですか?なぜ、私を置いていかれたのですか……?一人だけで御神の元へと急がれるなど……!私を……お嫌いだったのですか……?私も……御神の元へ……」
「……お前は……。私の望んでいるものではなかった……」
ワイズは自嘲気味な笑みを浮かべると、教会を出た。
開かれた扉の先では、雨足が酷くなっていた。
冷えた礼拝堂には、血に濡れたクレスラスだけが残った。