第二部 土佐の鬼 第9章 謀と刃
冬の気配が、土佐の山に忍び寄っていた。
朝霧は深く、谷を覆い、道を隠す。
人の心もまた、その霧のように見えにくくなっていた。
元親は、城の一室で地図を見下ろしていた。
本山氏の支配地。
そこに点のように記された、小さな国衆の名。
「ここが、揺れています」
側に控える家臣が、低い声で言った。
「本山に従ってはおりますが、内心では不満があるようで」
元親は、ゆっくりとうなずいた。
「不満があるからこそ、危うい」
味方になる可能性もあれば、裏切る可能性もある。
戦国において、曖昧さは最大の刃だ。
「使者を送れ」
家臣が、わずかに目を見開く。
「……懐柔、ですか」
「いや」
元親は、地図から目を離さずに言った。
「選ばせる」
家臣は、黙ってうなずいた。
数日後、報せが届く。
「先方は、返事を引き延ばしております」
予想通りだった。
本山の顔色を窺いながら、
こちらの出方も探っている。
元親は、城の縁側に立ち、遠くの山を見た。
――迷っている者は、必ず誰かを裏切る。
その夜、密かに使者が戻ってきた。
「……本山に、こちらの動きが漏れております」
部屋の空気が、凍りつく。
「誰だ」
元親の声は低く、冷たい。
家臣が、名前を告げた。
長宗我部家の中でも、古くから仕えてきた一人だった。
元親は、目を閉じた。
――また、か。
裏切りは、珍しいことではない。
だが、慣れることもない。
「呼べ」
短い命令だった。
その男は、ほどなくして引き出された。
顔は青白く、唇が震えている。
「若殿……これは、誤解で……」
言葉を遮るように、元親は問いを投げた。
「本山と、通じたな」
沈黙。
それが、答えだった。
「なぜだ」
元親は、責める口調ではなかった。
ただ、理由を知ろうとしていた。
「……この家は、危ういと思った」
男は、絞り出すように言った。
「若殿は、強すぎる。
敵を増やしすぎる」
元親の胸に、鈍い痛みが走る。
それでも、表情は変えなかった。
「だから、売ったのか」
「生きるためです!」
叫び声が、部屋に響く。
――生きるため。
その言葉は、あまりにも戦国らしい。
元親は、しばし黙った後、静かに言った。
「分かる」
男が、顔を上げる。
「だが……それは、長宗我部ではない」
元親は、立ち上がった。
「この家に残る道もあった。
共に滅びる覚悟を、選ぶこともできた」
男は、崩れるように膝をついた。
「……お許しを」
元親は、目を伏せたまま、短く言った。
「連れ出せ」
刃が抜かれる音が、背後で響く。
元親は、振り返らなかった。
斬られる音も、呻きも、聞こえた。
だが、耳を塞ぐことはしなかった。
これが、自分の選んだ道だ。
夜、城の奥で、国親が元親を待っていた。
「切ったな」
「……はい」
国親は、何も責めなかった。
「鬼になったか」
元親は、ゆっくりと首を振る。
「なろうとしているだけです」
国親は、わずかに笑った。
「それでよい。
鬼になりきれぬ者だけが、国を治められる」
その言葉は、慰めでも祝福でもない。
ただの、現実だった。
翌朝、城下に噂が走る。
「若殿は、情を切った」
「裏切りを、許さなかった」
恐れは、さらに深まった。
本山氏のもとにも、報せは届いた。
――長宗我部の若殿、もはや侮れず。
霧の中、元親は一人、剣を磨いていた。
刃に映る自分の顔は、
もう少年ではない。
謀を巡らし、
刃を振るう覚悟を持った者の顔だ。
それでも、
刃の重さは、確かに胸に残っている。
元親は、その重さを捨てなかった。
捨ててしまえば、
本当の鬼になってしまうと、分かっていたからだ。




