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元親  作者: 劉・小狼☆
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第二部 土佐の鬼  第8章 鬼若子

 城下の噂は、風よりも早い。


 朝には囁きであったものが、昼には形を持ち、

 夜には、誰もが口をつぐむほどの重さになる。


「若殿が、本山の動きを読んだそうだ」


「評定で、一言も退かなかったとか」


「……あの姫若子が、か?」


 元親は、その声を直接聞くことはない。

 だが、視線の変化で分かる。


 すれ違う家臣が、以前より深く頭を下げる。

 一方で、露骨に目を逸らす者もいた。


 恐れと、反発。

 その両方が、空気に混じり始めている。


 評定の席で、ある老臣が声を上げた。


「若殿のお考えは、急ぎすぎではありませぬか」


 場が静まる。


「本山は確かに厄介。

 しかし、こちらから動けば、戦を呼び込むやもしれぬ」


 もっともな意見だった。

 だからこそ、元親は言葉を選んだ。


「動かねば、向こうが動きます」


 静かな声だった。


「戦を避けるために、戦の形を選ぶ。

 それが、今の土佐には必要です」


 老臣は、元親をじっと見つめた。


「……それは、血を覚悟した者の言葉ですな」


「はい」


 元親は、はっきりとうなずいた。


「覚悟なき判断は、国を危うくします」


 その瞬間、誰かが小さく息を呑んだ。


 かつて、戦を恐れていた少年の言葉とは思えなかった。


 評定が終わり、廊下を歩く元親の背に、

 低い声が追いつく。


「鬼、ですな」


 振り向くと、若い家臣が立っていた。

 冗談めかした口調だが、目は笑っていない。


「姫若子などと、もう誰も申しますまい」


 元親は、答えなかった。


 鬼――

 その言葉は、父・国親からも、かつて戒めとして与えられたものだ。


 夕刻、国親は元親を呼び寄せた。


「人は、おまえを恐れ始めている」


 それは忠告だった。


「恐れは、力になる。

 だが、扱いを誤れば、刃となる」


「分かっております」


 元親は、目を伏せずに答えた。


「恐れられる覚悟は、できています」


 国親は、しばし黙った後、低く言った。


「ならば、もう一つ覚悟せよ。

 おまえは、好かれぬ」


 元親の胸が、わずかに痛んだ。


 だが、首を縦に振る。


「……それでも構いません」


 守るために、嫌われる。

 その選択を、すでに一度している。


 夜、元親は一人、城の縁に立っていた。


 遠くに、篝火が見える。

 本山の勢力圏だ。


 戦は、まだ始まっていない。

 だが、すでに心は削られている。


 ――恐れを知っている。

 ――血の匂いも、忘れていない。


 それでも、退かぬ。


 闇の中、元親の目は静かに光っていた。


 翌日から、家中で囁かれる名が変わった。


「鬼若子」


 嘲りではない。

 畏れを含んだ、低い声。


 姫若子は、完全に消えたわけではない。

 その優しさは、今も胸の奥にある。


 だが、それを覆い隠すように、

 冷えた覚悟が、元親の表に立ち始めていた。


 土佐の鬼は、

 この日、名を与えられたのである。

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