第一部 姫若子 第6章 目覚め
梅雨が、土佐を包み込んでいた。
山から流れ下る雨は激しく、川は濁り、道はぬかるむ。
国中が息を潜めるような季節――だが、戦の足音だけは止まらない。
元親は、城の裏手にある稽古場に立っていた。
誰に命じられたわけでもない。
ただ、身体が自然とここへ向かわせた。
剣を構える。
まだ、完璧ではない。
腕も細く、動きも洗練されていない。
だが、かつてのような震えはなかった。
――斬った感触は、消えない。
――血の匂いも、忘れられない。
それでも、逃げるために剣を持っているのではないと、今は分かる。
元親は、一太刀、二太刀と振る。
空を切る音が、雨音に混じる。
「……変わったな」
背後から声がした。
振り向くと、古参の家臣が立っていた。
かつて元親を「姫若子」と陰で呼んでいた男だ。
「前は、剣を持つだけで顔が青くなっておられた」
元親は何も言わない。
ただ、剣を下ろす。
「怖くなくなったわけでは、あるまい」
「……はい」
正直な答えだった。
「それでよい」
家臣は、静かにうなずいた。
「恐れぬ者は、ただの獣だ。
恐れを知り、それでも立つ者が、主となる」
その言葉は、元親の胸に深く沈んだ。
城内でも、変化は起きていた。
評定の場で、元親の名が出る。
小さな決定に、意見を求められる。
「殿は、どうお考えか」
その呼びかけに、元親は戸惑いながらも、答えるようになった。
声は低く、慎重だが、逃げない。
ある日、国親は息子を呼び、城下を共に歩いた。
雨上がりの道。
田では百姓が黙々と働き、城をちらと見ては頭を下げる。
「国は、人でできておる」
国親が言う。
「斬ることより、守ることのほうが、よほど難しい」
元親は、黙って聞いていた。
「おまえは、民を見る目を持っておる。
それは、わしにはなかったものだ」
初めて聞く、父の弱さだった。
「だからこそ、恐れておる」
国親は足を止め、元親を見た。
「おまえが、この家を背負う日が来たとき――
その優しさが、国を救うか、滅ぼすか」
元親は、ゆっくりと息を吸う。
「……どちらにも、ならぬように」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
国親は、わずかに笑った。
その夜、元親は一人、城の上から土佐の闇を見下ろした。
争いは、終わらない。
この国は、小さく、脆く、常に狙われている。
――それでも。
守りたいものがある。
血を知ったからこそ、失わせたくないものがある。
かつて、姫若子と呼ばれた少年は、
優しさを捨てる道ではなく、
優しさを背負う覚悟を選び始めていた。
その選択が、
いずれ「鬼」と呼ばれる道へ繋がることを、
このときの元親は、まだ知らない。
だが、確かに――
目は覚めていた。
土佐の闇の向こうに、
戦国という巨大な波がうねっている。
元親は、その波から、もはや目を逸らさなかった。




