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元親  作者: 劉・小狼☆
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第一部 姫若子  第5章 血の匂い

 戦の翌朝、城は静まり返っていた。


 勝ったはずだった。

 だが、城内に漂う空気は、祝勝とはほど遠い。


 元親は、井戸端で手を洗っていた。

 何度も、何度も。


 水は冷たく、赤く濁っては流れ落ちる。

 だが、どれほど擦っても、血の感触が消えない。


 ――まだ、残っている。


 鼻の奥に、かすかな鉄の匂いがある。

 それは衣にも、肌にも、そして心にも染みついていた。


 昨夜、元親はほとんど眠れなかった。

 目を閉じると、あの顔が浮かぶ。

 斬られた敵兵の、恐怖に見開かれた目。


(あの人も……誰かの子だったのだろうか)


 考えまいとしても、思いは勝手に湧き上がる。


「殿」


 背後から声がかかった。

 振り向くと、家臣の一人が立っている。

 昨日までとは、視線が違っていた。


「お怪我は?」


「……ない」


 短く答える。


「よく、耐えられましたな」


 その言葉に、元親は返す言葉を持たなかった。

 耐えたのか。

 ただ、動けなかっただけではないのか。


 城の奥では、戦後の処理が進んでいた。

 討ち取った首の確認。

 死者の名の書き留め。

 負傷者の呻き。


 戦は終わっても、戦の現実は終わらない。


 元親は、父・国親の前に呼ばれた。


 広間には、重苦しい沈黙が満ちている。

 国親は座したまま、息子を見上げた。


「逃げなかったな」


 それだけを、言った。


 褒め言葉ではない。

 だが、否定でもない。


「……はい」


 元親は答える。


「斬ったか」


 元親は、一瞬、目を伏せた。


「……斬りました」


 国親は、ゆっくりとうなずいた。


「ならば、もう子どもではない」


 その言葉は、重かった。

 逃げ道を塞ぐ言葉でもあった。


「覚えておけ。

 斬った相手の顔を、忘れるな」


 元親は、思わず父を見た。


「忘れぬ者だけが、次の決断を重くできる」


 国親の目には、長い年月が刻まれていた。

 数え切れぬほどの夜と、後悔と、血。


「軽く斬るな。

 それだけは、鬼になるな」


 その言葉は、皮肉のようでもあり、祈りのようでもあった。


 元親は、深く頭を下げた。


 ――鬼。


 その言葉が、胸の奥に沈む。


 その日、城下では小さな噂が広がっていた。


「姫若子、初陣で斬ったらしいぞ」


「逃げなかったそうだ」


「案外……」


 声はまだ低く、慎重だった。

 だが、確実に変わり始めている。


 元親は、それを聞いても、胸を張ることはできなかった。

 誇りよりも、重みのほうが勝っていた。


 夕暮れ、城の外れで、元親は一人、空を見上げた。

 赤く染まる雲が、ゆっくりと流れていく。


 ――人を斬って、生き残った。


 それが、戦国の現実だ。


 優しさを捨てねばならぬのか。

 それとも、優しさを抱えたまま、耐え続けるのか。


 まだ、答えは出ない。


 だが、はっきりしたことが一つある。


 元親はもう、

 何も知らぬ少年ではない。


 血の匂いを知り、

 それでも生きると決めた者の場所に、立ってしまったのだ。


 土佐の空に、夜が降りる。


 その闇の中で、

 姫若子と呼ばれた少年は、静かに終わりを迎えつつあった。

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