第四部 天下の下で 第38章 老将の影
春は、来ていた。
だが、城の庭に立つ元親の身体には、
それを喜ぶ軽さがなかった。
風は柔らかい。
陽も、穏やかだ。
それでも、膝が軋む。
立ち上がるまでに、
わずかな間が必要になった。
――老いたな。
認めぬわけにはいかない。
評定の席では、盛親が前に座る。
家臣たちは、盛親を見る。
だが、判断に迷えば、
無意識に元親へ視線が流れる。
その一瞬が、
盛親を苦しめる。
「殿は、いかが思われますか」
若い家臣が、問いかけた。
盛親ではない。
元親へ。
沈黙が落ちる。
元親は、ゆっくりと首を振った。
「盛親が決めよ」
静かな声。
家臣たちは、はっとする。
盛親は、唇を噛み、やがて答えを出す。
正解かどうかは分からない。
だが、それでいい。
夜、元親は咳き込んだ。
深く、長い咳。
側近が駆け寄る。
「医師を」
「不要だ」
短い拒絶。
鬼は、弱さを見せぬ。
だが、身体は正直だった。
床に伏す時間が、増える。
天井の木目を見つめる時間が、長くなる。
かつて、野を駆けた脚。
槍を振るった腕。
今は、重い。
ある夜、盛親が静かに入ってきた。
「父上」
元親は、目を開ける。
その瞳は、まだ鋭い。
「家中が、揺れております」
正直な報告。
元親は、うなずく。
「揺らせ」
盛親が、驚く。
「揺れて、残るものが、本物だ」
弱いものは、落ちる。
強いものは、残る。
「支えよ。
だが、抱え込むな」
盛親は、深く頭を下げた。
去った後、元親は目を閉じる。
信親の姿が、浮かぶ。
あの日、見送った背。
もし、生きていたなら。
だが、時は戻らぬ。
残されたのは、
この国と、次の主。
窓の外で、風が鳴る。
城は、まだ立っている。
だが、その中心は、
ゆっくりと影へと退いていく。
元親は、理解していた。
自分は、もう“前”ではない。
影だ。
老将の影。
だが、その影が消える時、
家は真に試される。
春の夜は、静かだった。
そして、確実に、
終わりへと近づいていた。




