第四部 天下の下で 第32章 父の影
城の廊下で、人の視線が交差する。
信親が通ると、
家臣たちは頭を下げる。
礼は、正しい。
だが、どこか探るようだった。
――若殿は、どこまで任されているのか。
――あれは、本心か、父の影か。
信親は、それを感じ取っていた。
評定では、自分が座る。
決断も、自分が下す。
だが、最後に思い浮かぶのは、
父の背だ。
元親は、何も言わない。
それが、かえって重い。
ある日、若い家臣が言った。
「殿(信親)は、
お優しすぎるのでは」
別の者が、すぐに返す。
「いや、時代に合っている」
言葉は、刃を持たぬ。
だが、傷は残る。
信親は、夜、庭に出た。
風が、木々を鳴らす。
父なら、
ここで何を思うのか。
振り返ると、
闇の中に、人影があった。
元親だ。
「眠れぬか」
短い問い。
「……はい」
元親は、並んで立つ。
しばらく、二人とも黙っていた。
「皆が、私を見ている気がします」
信親が、ぽつりと言う。
元親は、うなずいた。
「主とは、
常に見られるものだ」
「父上と、比べられます」
元親は、少しだけ笑った。
「比べられぬ主など、
存在せぬ」
信親は、拳を握る。
「私は、父上のようには……」
「なるな」
即答だった。
信親が、顔を上げる。
「鬼は、一代でよい」
元親は、静かに言う。
「お前は、
お前の国を治めよ」
その言葉に、
信親の胸が、ほどけた。
だが、家中の空気は、
簡単には変わらない。
元親が生きている限り、
影は消えぬ。
それは、支えであり、
重荷でもある。
元親は、それを承知していた。
――だが、まだ倒れるわけにはいかぬ。
影は、
光があるから生まれる。
信親が前に進む限り、
自分は、
影として立つ。
それが、
父の役目だと。
夜空に、雲が流れた。
静かに、
だが確実に。
時代は、
次の試練を運んできていた。




