第四部 天下の下で 第30章 継ぐ者、残る者
城に、子どもの声が響くことは少ない。
だが、その日は違った。
元親は、広間の奥で立ち止まった。
若い足音。
ためらいがちだが、真っ直ぐな気配。
――ああ。
その背に、覚えがあった。
嫡子・信親。
すでに青年の域に入りつつあるが、
まだどこか、土佐の山の匂いを残している。
「父上」
信親は、深く頭を下げた。
元親は、しばらく黙ってその姿を見ていた。
かつて、自分もこうして、
父の前に立った。
その時、父は何を思っていたのか。
「座れ」
短く告げる。
二人は、向かい合った。
「畿内からの命、
聞いております」
信親が、言う。
声は、揺れていない。
元親は、少しだけ目を細めた。
「どう思う」
試すような問い。
「……従うしか、ないかと」
正しい答えだった。
だが、それだけでは足りない。
「なぜだ」
信親は、息を整える。
「抗えば、
土佐は残りませぬ」
元親は、うなずいた。
そして、ゆっくりと言った。
「では、何を残す」
信親は、言葉に詰まった。
剣のことでも、
城のことでもない。
残すもの。
長い沈黙の後、信親は答えた。
「……人、でしょうか」
元親の胸に、何かが落ちた。
軽くはない。
だが、悪くない。
「そうだ」
初めて、声が柔らぐ。
「国は、形ではない」
山も、城も、
天下が変われば、消える。
「人が残れば、
また、国は生まれる」
信親は、深くうなずいた。
その夜、元親は一人で酒を飲んだ。
若い頃のように、
量は飲めない。
だが、味は分かる。
――もう、すべては自分のものではない。
それは、寂しさではなかった。
安堵に近い。
翌日、家臣たちを集め、
元親は言った。
「信親に、政を見せる」
ざわめき。
早すぎる、と言う者はいない。
皆、感じていたのだ。
時代が、
次を求めていることを。
元親は、庭に出た。
風が、白髪を揺らす。
鬼若子は、もう前に立たぬ。
だが、背を支える者として、
まだここにいる。
――残る者の役目がある。
それを、
ようやく受け入れられた気がした。
空は、静かだった。
戦国の空ではない。
だが、確かに、
次の世へ続く空だった。




