第一部 姫若子 第3章 父と子
春は、すでに終わりかけていた。
土佐の山々は濃い緑に覆われ、湿った風が城下を這うように流れている。
戦の匂いは、いつも季節の変わり目とともにやって来た。
元親は、城の奥で父を待っていた。
畳の上に正座し、背筋を伸ばす。
だが、どれほど姿勢を正しても、胸の内のざわめきは収まらない。
――呼び出される理由は、分かっていた。
近隣の国衆が、不穏な動きを見せている。
境目の村で、小競り合いが起きた。
いずれ、戦になる。
そして、元親はもう「見ているだけの嫡男」ではいられない年齢だった。
襖が、音もなく開いた。
長宗我部国親が、そこに立っていた。
鎧は着けていない。だが、その存在だけで、場の空気が一段重くなる。
「顔を上げよ」
元親は、ゆっくりと顔を上げた。
父の目は、鋭く、疲れていた。
幾度もの裏切りと戦を越えてきた男の眼だ。
「おまえを、初陣に出す」
一瞬、音が消えたように感じた。
元親の喉が鳴る。
恐怖が、はっきりと形を持って胸に広がる。
「……はい」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
国親は続ける。
「逃げ場はない。
武家の子として生まれた以上、血を見る覚悟は、いずれ要る」
元親は、膝の上で拳を握りしめた。
震えを、父に悟られぬように。
「父上は……恐ろしくはなかったのですか」
思わず、口をついて出た言葉だった。
国親の眉が、わずかに動く。
「恐ろしいに決まっておる」
意外な答えだった。
「だがな、恐れぬ者などおらぬ。
恐れを知った上で、一歩踏み出せるかどうか――それだけだ」
元親は、その言葉を噛みしめる。
――恐れても、前に出る。
第2章で芽生えた思いが、ここで父の言葉と重なった。
「おまえは、優しい」
国親は、低く言った。
「それは弱さにもなる。
だが……使いようによっては、武器にもなる」
元親は、はっとして父を見る。
初めてだった。
父が、自分を否定しきらなかったのは。
「ただし」
国親の声が、再び厳しさを帯びる。
「情に溺れれば、家は滅びる。
守りたいものがあるなら、斬らねばならぬ時もある」
その言葉は、重かった。
まるで、この先の運命を予告するかのように。
外で、法螺貝が鳴った。
低く、長い音。
兵を集める合図だ。
城の外では、足音が増え、武具が触れ合う音が響き始めている。
土佐という小さな国が、また一つ、戦へ向かって動き出していた。
元親は立ち上がり、深く頭を下げた。
「……務めを果たします」
声は、まだ震えている。
だが、逃げる響きではなかった。
国親は、しばし息子を見つめ、短くうなずいた。
「生きて帰れ」
それだけを言い残し、部屋を出ていく。
元親は、一人残された。
戦国の世では、命は軽い。
正しさも、優しさも、簡単に踏みにじられる。
それでも――
自分は、この時代に生まれてしまった。
廊下を歩くと、兵たちの視線が集まる。
期待、疑念、嘲り、不安。
そのすべてが、元親の肌に突き刺さる。
姫若子。
そう呼ばれた少年は、今、初めて戦へ向かう。
恐れは消えない。
だが、その恐れを抱えたまま、一歩、また一歩と前へ進く。
土佐の空は、重く曇っていた。
だが、その雲の下で、確かに――時代は動いていた。
そして、元親の運命もまた、引き返せぬ場所へと踏み込んでいく。




