第三部 四国の夢 第25章 迫る雲
空は、低かった。
雲が垂れ込み、山の稜線を呑み込んでいる。
雨は、まだ降らぬ。
だが、誰もが知っていた。
――降る。
畿内からの報せが、途切れぬ。
「羽柴が、兵を集めております」
「毛利も、動きを止めました」
天下が、四国に向けて形を整えている。
評定の席は、重かった。
「抗えませぬ」
誰かが、絞り出すように言う。
「四国を取っても、
その先がありません」
元親は、否定しなかった。
すでに、その事実は、胸に刻まれている。
「だが」
元親は、静かに口を開く。
「今、退けば」
視線が集まる。
「土佐は、ただの一国に戻る」
四国の夢は、消える。
誰もが、言葉を失う。
夜、元親は一人、海を見ていた。
黒い波が、音もなく寄せては返す。
――どこで、間違えた。
だが、その問いに、答えはない。
間違いではない。
選択だった。
翌朝、陣に一通の書状が届いた。
秀吉からだ。
「四国の件、
これ以上の独断は、許さぬ」
最後通牒。
家臣たちが、元親を見る。
その目には、恐れと期待が混じっている。
元親は、書状を畳んだ。
「……集めよ」
兵をではない。
言葉をだ。
評定の席で、元親は深く頭を下げた。
家臣たちに。
「ここまで、よく従ってくれた」
ざわめき。
「四国は、取れぬ」
その一言が、すべてを変えた。
息を呑む音。
「だが」
元親は、顔を上げる。
「土佐は、守る」
強い声だった。
「これ以上、
国を賭ける戦は、せぬ」
沈黙の後、誰かが膝をついた。
やがて、一人、また一人。
敗北ではない。
撤退だ。
雲が、ついに雨を落とした。
重く、静かな雨。
四国の夢は、
この雨の中で、幕を下ろした。
だが。
元親は、空を見上げる。
――夢を見たからこそ、
――守れたものがある。
鬼として、
国主として。
長宗我部元親は、
この日、天下と距離を置く道を選んだ。




