第三部 四国の夢 第20章 血なき旗
伊予の城は、小さかった。
だが、その城が立つ丘は、海と街道を見下ろしている。
兵を置けば、国の流れを押さえられる要所だ。
元親は、城の外から、その様子を眺めていた。
攻めれば、落ちる。
だが、落とせば、血が流れる。
――それは、最善ではない。
城内では、伊予の国衆たちが、密かに集まっていた。
「毛利に従えば、兵も年貢も奪われる」
「だが、土佐殿に付けば、
天下を敵に回すやもしれぬ」
議論は、堂々巡りだった。
そこへ、元親の書状が届く。
短い文だった。
「城は奪わぬ。
人も奪わぬ。
ただ、道を共にせよ」
署名は、
長宗我部元親。
沈黙が、落ちた。
「……斬らぬ、と申すか」
「信じられるか」
誰かが、ぽつりと漏らす。
「阿波では、退いたと聞く」
「伊予では、急がぬとも」
元親の名は、すでに一人歩きしていた。
夜更け、城主は一人、城外へ出た。
灯を持たず、護衛も連れず。
丘の下で、元親が待っていた。
「……罠ではあるまいな」
「罠なら、ここには来ませぬ」
元親は、そう答えた。
しばし、沈黙。
「土佐殿は、鬼だと聞いた」
城主が言う。
「鬼でした」
元親は、否定しなかった。
「今も、必要なら鬼になります」
城主は、息を呑む。
「だが」
元親は、続ける。
「伊予で、それをする理由はない」
城主は、元親の目を見た。
そこには、虚勢も、恐れもない。
「……血は、流れぬのだな」
「約束します」
夜明け前、城の門が開いた。
戦は、なかった。
旗が、ゆっくりと下ろされ、
新たな旗が掲げられる。
血なき旗。
城下の民は、静かにその光景を見つめていた。
歓声も、悲鳴もない。
ただ、安堵の息。
元親は、城に入ることなく、
丘の下から、それを見届けた。
「入られぬのですか」
家臣が問う。
「必要ない」
元親は、短く答えた。
「支配とは、居座ることではない」
その日、伊予の一角が、
静かに土佐へ傾いた。
噂は、風より早く広がる。
「長宗我部は、斬らぬ」
「だが、逆らえば、鬼になる」
矛盾した評判。
だが、それが、元親の真の姿だった。
夜、元親は海を見た。
波は、変わらず寄せては返す。
血を流さぬ勝利は、
剣を振るうよりも、難しい。
だが、確かに――
四国の形が、少しだけ変わった。
血なき旗は、
次の旗を呼ぶ。




