第一部 姫若子 第2章 姫若子
城の朝は、早い。
鶏の声が響く前から、人は動き始める。
元親は廊下の隅に座り、膝の上で手を重ねていた。
今日も、兵の稽古がある。
父・国親が、じきに現れるだろう。
――行かねばならぬ。
頭では分かっている。
だが、胸が重い。
庭先では、すでに槍が打ち合わされる音がしていた。
乾いた木の音。掛け声。土を踏み鳴らす足音。
それらが混じり合い、元親の耳に刺さる。
「おい、聞いたか」
背後から、ひそひそ声が届いた。
家臣の若者たちだ。元親より年上で、すでに戦場を知る者もいる。
「殿のご嫡男、今日も稽古を眺めるだけらしいぞ」
「はは……姫若子さま、か」
笑い声が、短く漏れる。
元親は振り向かなかった。
聞こえなかったふりをすることには、慣れていた。
――姫若子。
女のようだ、弱々しい、当主の器ではない。
その言葉が、どこからともなくまとわりつく。
彼は、剣を持てないわけではない。
弓も、馬も、最低限はこなす。
だが、誰もそれを見ようとはしない。
「元親」
低く、張りのある声がした。
国親である。
元親は立ち上がり、深く頭を下げた。
「なぜ、前に出ぬ」
「……」
「おまえは、この家の跡取りだ」
国親の言葉は、責めるというより、突き放すようだった。
期待と苛立ちが、同時に滲んでいる。
「戦場では、迷った者から死ぬ」
元親は唇を噛んだ。
分かっている。何度も聞いた言葉だ。
だが、戦場で人を斬る自分の姿を思い浮かべると、どうしても体が硬くなる。
相手にも、家族がいる。生きて帰りたいと願っている。
そう考えてしまう自分を、元親は恥じていた。
「優しさは、弱さだ」
国親は、そう言い残し、兵たちの輪へ歩み去った。
元親は、その背中を見つめた。
遠く、遠く感じる。
――父上は、なぜあんなに強いのだろう。
そのとき、庭の中央で、一人の若武者が槍を落とした。
相手の一撃を受け止めきれず、土に膝をつく。
「立て!」
怒声が飛ぶ。
元親の胸が、きゅっと縮んだ。
次は、自分かもしれない。
そう思うだけで、息が詰まる。
だが、不意に――
倒れた若者が、歯を食いしばり、再び立ち上がった。
その姿を見た瞬間、元親の中で、何かが小さく揺れた。
恐怖。
だが、それだけではない。
――逃げなかった。
――倒れても、立った。
強さとは、最初から恐れぬことではないのかもしれない。
恐れても、なお踏みとどまること。
その考えが、元親の胸に、かすかな火を灯した。
その夜、元親は眠れずにいた。
障子の向こうで、風が鳴る。
土佐の夜は、深い。
――優しさは、弱さなのか。
――それでも、人を思う心を捨てねばならぬのか。
答えは出ない。
だが、逃げ続けることも、できないと、初めて思った。
翌朝、元親は剣を取った。
震える手で、柄を握る。
まだ、踏み出したとは言えない。
だが、立ち止まることは、やめた。
家臣の一人が、その姿を見て、目を見張った。
小さな変化だった。
だが、確かに――運命は、動き始めていた。
姫若子と呼ばれた少年は、
まだ弱い。
まだ迷っている。
それでも、
この日、元親は初めて、自分の足で「前」を見た。




