第三部 四国の夢 第19章 伊予の風
伊予の風は、柔らかかった。
海から吹き上げる潮の匂いを含み、
山を越えてきた土佐の兵の鎧を、優しく撫でる。
元親は、海を見下ろす丘に立っていた。
阿波とは、違う。
それは、肌で感じられた。
伊予の国衆は、阿波ほど疑り深くない。
だが、軽くもない。
彼らは、外の力を恐れている。
特に、毛利。
「伊予は、板挟みです」
案内役の男が言う。
「西を見れば毛利、
東を見れば長宗我部」
元親は、うなずいた。
「だからこそ、選べぬ」
選べぬ者は、
最も慎重になる。
伊予の有力国衆との会談は、
城ではなく、寺で行われた。
戦の匂いを、嫌ったのだ。
「土佐殿」
年配の国衆が、口を開く。
「阿波では、退かれたとか」
探るような視線。
元親は、正面から受け止めた。
「退きました」
即答だった。
「勝てぬ戦でしたから」
空気が、わずかに緩む。
虚勢を張らぬことが、
ここでは、信用になる。
「伊予を、どうなさる」
元親は、少し考えた。
「急ぎませぬ」
その言葉に、相手の眉が動いた。
「四国を一つにしたい」
続ける。
「ですが、血で塗るつもりはない」
沈黙。
やがて、別の国衆が言った。
「……土佐殿は、変わっておられる」
褒め言葉とも、警戒とも取れた。
会談は、結論を出さぬまま終わった。
だが、拒絶もなかった。
夜、元親は宿に戻る。
海鳴りが、遠くで続いている。
――風が違えば、帆の張り方も変えねばならぬ。
阿波で学んだことが、ここで生きていた。
数日後、伊予の小城の一つが、
密かに使者を送ってきた。
「毛利への従属を断ちたい」
小さな声だった。
だが、それは確かな一歩。
元親は、即座に兵を動かさなかった。
守りを固め、
言葉を尽くし、
時間を使う。
急がぬことが、力になる。
伊予の風は、
敵意ではなく、迷いを運んでくる。
元親は、それを振り払わなかった。
風を読む。
それが、この地の戦い方だった。
丘の上で、元親は再び海を見た。
水平線の向こうには、
まだ見ぬ敵も、味方もいる。
四国の夢は、
力で押すものではない。
風を味方につけた者が、進む。
伊予は、
そのことを教えてくれていた。




