第三部 四国の夢 第17章 通じぬ言葉
阿波の朝は、冷たかった。
霧が川面を覆い、湿った風が陣を抜ける。
兵たちは、どこか落ち着かない。
元親は、地図の前に立っていた。
わずかな動きが、あちこちで起きている。
小競り合い。
偵察の衝突。
だが、決定的な戦にはならない。
敵は、こちらを試している。
「兵が疲れております」
家臣が言う。
「勝ち戦に慣れすぎたのやもしれませぬ」
元親は、静かにうなずいた。
土佐では、戦は「流れ」を作れば勝てた。
だが、阿波では流れが生まれぬ。
敵は散り、
集まらず、
斬らせない。
昼過ぎ、斥候が戻った。
「前方の村で、兵が襲われました」
「敵か」
「……はっきりしませぬ」
元親は、眉を寄せた。
正規の軍でも、盗賊でもない。
阿波では、よくあることだ。
「追うな」
即断だった。
「深入りすれば、罠になる」
だが、その命令は、すべての兵に届かなかった。
夕刻、血まみれの兵が戻ってきた。
「仲間が……捕らえられました」
陣に、動揺が走る。
「取り返すべきです!」
声が上がる。
元親は、唇を噛んだ。
助けたい。
だが、動けば、敵の思う壺だ。
「……待て」
その一言が、陣を凍らせた。
夜、焚き火の前で、元親は一人、剣を見つめていた。
刃は、土佐の戦を越えてきたものだ。
だが、今は、重い。
国親なら、どうしただろう。
――いや。
ここは、父の戦ではない。
深夜、使者が現れた。
「捕らえた兵を返す代わりに、
この地から引け」
条件は、明白だった。
元親は、しばらく黙った。
家臣たちの視線が、突き刺さる。
「……受け入れる」
その言葉に、誰かが声を荒らげた。
「なぜです!」
元親は、静かに言った。
「今、戦っても、勝てぬ」
正直だった。
「勝てぬ戦をして、
兵を失うわけにはいかぬ」
夜明け、捕らえられていた兵が戻ってきた。
皆、生きていた。
だが、陣には重い空気が漂う。
――退いた。
それが、事実だった。
阿波の国衆は、動かなかった。
勝ったとも、負けたとも言えぬ結末。
元親は、馬を進めながら、心に問い続けていた。
――これは、敗北か。
土佐なら、敗北だ。
だが、四国では――まだ、分からない。
境を越え、土佐へ戻る途中、
元親は山の頂で立ち止まった。
振り返ると、阿波の地が広がっている。
恐れと利で動く国。
言葉が通じぬ地。
元親は、初めて痛感していた。
――力とは、振るうものではない。
――“残す”ものだ。
鬼であることは、捨てない。
だが、鬼のままでは、届かぬ場所がある。
土佐へ戻った元親の背には、
勝者の余裕はなかった。
だが、その歩みは、確かだった。
通じぬ言葉を知った者だけが、
次の言葉を、選べる。




