第三部 四国の夢 第16章 阿波への道
土佐を出る道は、狭く険しかった。
山は深く、谷は暗い。
この道を越えねば、阿波へは至れぬ。
元親は、馬上から前方を見据えていた。
背後には、長宗我部の兵。
彼らは皆、土佐の勝者だ。
だが――
ここから先は、余所者である。
「阿波の国衆は、我らを歓迎はせぬでしょう」
側近が言う。
「本山との戦とは、勝手が違います」
元親は、静かにうなずいた。
「分かっている」
阿波には、三好の残影がある。
畿内の争いに翻弄され、疑心と裏切りに慣れきった地。
力だけでは、従わぬ。
境を越えたその日、
早速、報せが入った。
「阿波の国衆が、兵を集めております」
元親は、足を止めた。
「敵意か」
「……様子見かと」
それが、最も厄介だった。
敵でも、味方でもない。
ただ、こちらの出方を測る者たち。
元親は、陣を敷かせた。
無理に進まぬ。
だが、退かぬ。
数日後、阿波の国衆の一人が使者を寄越した。
「土佐殿は、何を望まれる」
率直な問いだった。
元親は、即答しなかった。
――何を望むのか。
土地か。
従属か。
それとも、名か。
「争いを、減らしたい」
しばしの沈黙の後、元親は答えた。
使者は、怪訝な顔をした。
「……それは、力ある者の言葉ですな」
元親は、否定しなかった。
「そうだ」
正直だった。
「だからこそ、責任も引き受ける」
使者は、深く頭を下げることはなかった。
ただ、帰っていった。
その夜、陣中は重かった。
「通じておりませぬ」
「土佐のやり方は、阿波では通らぬのでは……」
小声が、あちこちで漏れる。
元親は、それを止めなかった。
不安は、押さえつければ腐る。
夜更け、元親は一人、焚き火のそばに座った。
炎が、揺れる。
――土佐では、信が通じた。
――だが、ここでは通じぬ。
自分は、まだ井の中だ。
そのとき、伝令が駆け込んできた。
「阿波の国衆の一人が、密かに面会を求めております」
元親は、目を上げた。
「通せ」
現れた男は、老獪な目をしていた。
「土佐殿。
夢を見ておられる」
いきなりだった。
「この国は、夢で動く地ではない」
元親は、じっと相手を見る。
「では、何で動く」
「恐れと、利」
即答だった。
元親は、しばし考えた。
そして、言った。
「ならば、まず恐れを見せよう」
男の眉が、わずかに動く。
「だが――」
元親は、続ける。
「最後に残すのは、利ではなく、道だ」
男は、苦笑した。
「難しい主だ」
「だから、四国を一つにしたい」
男は、しばらく黙り、やがて言った。
「……様子を見よう」
それが、阿波の答えだった。
夜明け、元親は山の上から阿波の地を見下ろした。
広い。
土佐よりも、複雑で、荒れている。
ここでは、鬼だけでは足りぬ。
だが、夢だけでも足りぬ。
元親は、初めて実感していた。
――四国の夢は、
――土佐の延長では、決して叶わぬ。
それでも、引き返さない。
阿波への道は、
試練の始まりにすぎなかった。




