第一部 姫若子 第1章 土佐の春
土佐の春は、遅い。
山々に残る冬の名残が、ようやく緩みはじめるころ、国中には湿った風が吹き抜ける。
長岡郡の小高い丘に立ち、少年はその風を頬に受けていた。
まだ背は低く、肩幅も狭い。だが、目だけは妙に静かだった。
長宗我部元親――
この名が、いずれ四国を震わせることを、このとき誰が想像しただろうか。
丘の下には、田が広がっている。
土佐の国は豊かとは言いがたいが、痩せてもいない。山と海に挟まれ、狭い土地を奪い合うように、小さな領主たちが割拠していた。
元親は、争いの音が嫌いだった。
遠くで太鼓が鳴る。訓練をする兵たちの掛け声が、風に乗って届く。
だが少年は、そちらへ視線を向けようとしない。
「また、ここにおったか」
背後から低い声がした。
振り向くと、屈強な男が立っている。浅黒い顔に、鋭い眼差し。長宗我部国親――元親の父であり、この家の当主だった。
「父上……」
元親は頭を下げた。
その所作は丁寧だが、どこか弱々しい。
国親は、息子を見下ろし、わずかに眉をひそめた。
「兵の稽古を見に行けと言うたはずじゃ」
「……はい」
返事はするが、足が動かない。
国親はそれを見逃さなかった。
「戦が嫌か」
元親は答えなかった。
嫌なのではない。ただ、恐ろしいのだ。人が斬られ、血が流れ、命が消える。その現実を思うだけで、胸の奥が締めつけられる。
「武家に生まれた以上、逃げられぬ」
国親の声は厳しい。
この国で生き残るためには、剣を取らねばならない。情けや躊躇は、命取りになる。
「おまえは……優しすぎる」
国親は、そう言って背を向けた。
その言葉が、元親の胸に刺さる。
優しさは、罪なのか。
家臣たちの間では、すでに囁かれていた。
――姫若子。
――あれでは国は任せられぬ。
元親は、その声を知らないふりをしていた。
だが、心のどこかで、確かに聞いていた。
丘の上に一人残された元親は、遠く海の方角を見た。
土佐の海は、いつも静かだ。だが、その奥には、計り知れぬ力が潜んでいる。
(父上は、何を見ているのだろう)
強さとは何か。
国を治めるとは、何を背負うことなのか。
答えは、まだ見えない。
だが、この春の日を境に、元親の運命は、静かに動きはじめていた。
やがて彼は知ることになる。
優しさを捨てる覚悟と、
それでも守りたいものがあることを。
――土佐の風は、まだ穏やかだった。




