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第九話 胃弱の民間治療法

神田で晩飯を食ったボス。

「久しぶりに熱燗を二、三杯飲んだら、翌朝は胃の調子がやけにいい。胃弱には晩酌が一番だ」なんて言っている。

「胃薬? あれはダメだ、誰が何と言っても効かない」と、ひとりで胃薬に喧嘩を売っている。

今朝の怒りがまだ尾を引いてるらしい。

人間って日記に本性が出るんだろう。


『この前はA嬢が「朝飯をやめれば胃がよくなる」と言ったから、二、三日試してみた。

結果? 腹がグーグー鳴るだけで効果ゼロ。


B君は「漬物を食べるな」と忠告。胃弱の原因は漬物にある、食べなきゃ間違いなく治るという理屈。

一週間ほど漬物を食べなかったが、何の変化もなし。結局また食べ始めた。


C氏に聞けば「マッサージに限る」と言う。しかも皆川流という古流のマッサージ。

坂本竜馬のような豪傑も受けたとかで、上根岸まで出かけて揉んでもらった。

ところが「骨を揉まなければ治らない」とか「内臓の位置を一度ひっくり返さないと根治できない」とか言って、散々な揉み方をされた。

身体がグニャグニャになって失神しそうになり、一度でギブアップ。


D君は「固形物を食うな」と言うので、一日牛乳だけで過ごした。

結果? 腸の中でグルグル音がして腹を下して一晩眠れず。


E氏は「横隔膜呼吸で内臓を運動させれば胃が健全になる」と勧めた。

試したが、腹の中が不安定で困った。しかも五、六分で呼吸法を忘れる。忘れまいとすると横隔膜が気になって本も読めず、文章も書けない。

美学者の迷亭がその姿を見て「産気づいた男じゃあるまいし、やめろ」と冷やかしたので、結局廃止。


F先生は「蕎麦を食え」と言うので、カケとモリを交互に食った。

結果? 腹を下すだけで効果ナシ


胃弱を治すためにありとあらゆる方法を試したが、全部ダメ。

ただ昨夜、寒月と傾けた三杯の熱燗だけは確かに効いた。

これからは毎晩二、三杯ずつ飲むことにしよう』


――と、ボスは本気で決意していた。

まあ、これも長くは続かない。

ボスの決心なんて猫の眼みたいにコロコロ変わる。

何をやっても三日坊主なのだ。

しかも日記では胃弱をあれほど心配しているくせに、表向きは痩せ我慢ばかり。

この前、友人の美学者、金縁メガネの迷亭が訪ねてきて「すべての病気は父祖と自分の罪悪の結果だ」とご立派な説を披露した。

理路整然とした論理――さすがに人を騙す研究をしているだけのことはある。

だが、うちのボスには反論できるほどの頭脳も学もない。

それでも胃弱で苦しんでいる最中だから、何とか弁解して面目を保とうとしたらしい。

「君の説は面白いが、英国の歴史家であるカーライルも胃弱だったぞ」――と。

まるでカーライルが胃弱だから、自分の胃弱も名誉だと言わんばかりだ。

すると友人迷亭は即座に切り返した。

「カーライルが胃弱でも、胃弱の病人が必ず歴史家になれるわけじゃないぜ」

――ボスは黙り込んだ。

こうして虚栄心に富んでいるくせに、実際は胃弱でない方がいいと思っている。

それなのに「今夜から晩酌を始める」とか言い出すなんてメシ噴くわ!

考えてみれば、今朝あんなに雑煮を食ったのも、昨夜寒月と熱燗を飲み交わしたお陰かもしれないな。

俺も、ちょっと雑煮が食ってみたくなった。


俺は猫であるが、大抵のものは食う。

好き嫌いをしている余裕なんてないのだ。

しかし車屋のクロみたいに横丁の魚屋まで遠征する気力はないし、琴の師匠んちのミケ子みたいに贅沢できる身分でもない。

子供が食いこぼしたパンも食うし、餅菓子のアンコもペロリといける。

漬物はまずいが、経験のために沢庵を二切れほど試したこともある。

食ってみると妙なもので、大抵のものは食えるんだ。

「あれは嫌だ、これは嫌だ」なんて言うのはゼイタクなワガママなのだ。

とても教師の家に住む猫の口から出る言葉じゃない。

ボスの話によると、フランスにバルザックって小説家がいたらしい。

この男、口のゼイタクじゃなくて文章のゼイタク屋。

ある日、小説の登場人物の名前をつけようとしたが、どうしても気に入らない。

そこへ友人が遊びに来たので散歩に出かけた。

バルザックは看板ばかり見て歩く。

友人は訳も分からず付き合わされる。

朝から晩までパリを探検して、ようやく裁縫屋の看板に「マーカス」という名を見つけた。

「これだ! これに限る! マーカスはいい名だ。頭にZをつければ完璧だ。Z.Marcus!」

と手を打って大喜び。友人の迷惑なんて忘れて一人で舞い上がった。

……小説の登場人物の名前をつけるのに一日パリを探検しなきゃならんとは、随分と手間のかかる話だな。

ゼイタクもここまで来れば立派だが、俺みたいな自宅警備員的なボスを持つ身ではそんな気は起きない。

「何でもいい、食えさえすれば」って気になるのも、俺のハードな境遇がそうさせるんだろう。

だから今、雑煮が食いたくなったのも決してゼイタクだからじゃない。

食えるときに食っておこう。

そう思っただけ。

主人の食い残した雑煮が台所に残っていないか、ふと思い出したのだ。

よし、台所へ回ってみるか。

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