第七話 寒月という男
――と、玄関の鈴がチリンチリンと鳴った。エンカウント発生!
俺は魚屋が来るとき以外は出ないと決めているから、膝の上で大あくび。
しかしボスは闇金屋にでも踏み込まれたような不安顔で玄関を見ている。
どうやら年賀の客を受けて酒の相手をするのが嫌らしい。
人間もここまで偏屈になれば立派だが、それなら外出すればいいのに、その勇気もない。
まさに自宅警備員そのもの。
しばらくしてお手伝いさんが戻ってきて告げた。
「寒月さんがおいでになりました」
寒月――ボスの元生徒で、今では大学を卒業してボスよりクラスアップしたらしい。
この男、なぜか、よくボスのところへ遊びに来る。
来ると「自分に恋している女がいるような、いないような」
「世の中が面白いような、つまらないような」
意味不明な話ばかり並べて帰っていく。
人間として枯れているボスにわざわざそんな話をしに来るのも謎だが、自宅警備員ごときがフンフンと偉そうに相槌を打っているのも大草原wwwwwwwww。
――「しばらくご無沙汰してました。去年の暮から大いに活動してまして、なかなかこっちへ足が向かなくて」と寒月が羽織の紐をいじりながら謎めいたことを言う。
「どっちなら足が向くんだ」とボスは真面目な顔で羽織の袖口を引っ張った。
この羽織、木綿で丈が短いから下から安っぽい絹の衣がはみ出している。
……ダサすぎる。
「エヘヘ、ちょっと違う方向で」と寒月が笑う。
見ると前歯が一本欠けている。
「歯をどうしたんだ?」とボスが尋ねると、
「ええ、実はある所で椎茸を食べまして」と寒月が答える。
ボスはコクリと首を傾け「椎茸?」と問いただすと
「傘を前歯で噛み切ろうとしたら、ぼろっと欠けちゃったんですよ」と頭を掻いた。
「椎茸で前歯が欠けるなんか、ジジ臭いな。俳句にはなるかもしれんがね」
そう言ってボスは俺の頭を軽く叩く。
……いや、普通に痛いんだけど。
「その猫が例のですか。なかなか肥ってますね。車屋のクロにも負けないでしょう、立派なもんだ」
寒月は大いに俺をアゲる。
ボスは自慢げに俺の頭をポカポカ殴る。
褒められるのは嬉しいが、頭が痛てえ。
「昨夜も演奏会をやりまして」と寒月が話を戻す。
「ヴァイオリン三本とピアノ伴奏で、なかなか面白かったです。三本くらいになると下手でも聞けるものですね。二人は女で、私も混じりましたが、自分でもよく弾けたと思いました」
「ふーん、その女というのは何者なんだ?」とボスが羨ましそうに聞く。
ボスは普段は他人に塩対応だが、御婦人にはそうじゃない。
海外小説に「女を見ると見境なく惚れる人物」が出てきて、道ですれ違う婦人の七割弱に惚れちまう――そんな小説を見て「これは真理だ!」と膝を叩いた程度の男なのだ。
そんな浮気者がなぜ自宅警備員みたいな生活を送っているのか、俺には分からない。
失恋のせいだとか、胃弱のせいだとか、貧乏なうえに臆病だからだとか、いろいろと言われ放題だが、どっちにしても歴史に関わるほどの人物じゃないのは間違いなし。
ただ、寒月の女連れを羨ましそうに聞いていたのは紛れもない事実。
「二人とも某所の令嬢です。先生がご存じの方じゃないですよ」と寒月は他人行儀に答える。
「ふうん」と首を傾げてボスは考え込む。
寒月は頃合いだと思ったのか、「どうもいい天気ですね。お暇なら散歩でもしましょうか」と促した。
ボスは散歩より御令嬢の身元を聞きたそうな顔でしばらく考え込んでいたが、ようやく決心したらしい。
「それじゃ行くとしようか」と思い切って立ち上がった。
服装はいつもの羽織に、兄の形見だという二十年来着古した綿入ハンテン。
いくら丈夫でも着続ければボロボロ。
所々薄くなって日に透かすと裏の継ぎ目が丸見えだ。
ボスの服装には師走も正月もない。普段着もよそ行きもない。
外出するときは懐に手を突っ込んでぶらりと出る。
着る物がないのか、あっても面倒で着替えないのか、着替える必要のない俺には分からない。
これは失恋のせいだとか、胃弱のせいだとか、金がなくて臆病だからじゃないと思う。
……単に貧乏性なんだろうな。




