第四十三話 ニャン生最後の日
勝手口へ廻ると、秋風がガタついている戸の隙間から吹き込んだらしく、ランプの灯がいつのまにか消え、月の影が窓から差し込んでる。
盆の上に並んだコップの二つには茶色い水が半分ほど残っていた。
ガラスの中のものは冷たくみえるのは何故なんだろう。
寒空の月に照らされているこの液体、口をつける前から寒気がして、さして飲みたくもないんだが、ものは試しと人は言う。
三平君は、あれを飲んで、真っ赤になってプハ~と暑苦い息を吐いていた。
きっと猫だって飲めば陽気になるんだろう。
どうせ、いつか消える命、何でも命のあるうちにした方がいいに決まってる。
死んでしまってから、ああ残念と草場の影で後悔しても仕方がないじゃないか。
思い切って飲んでやれと、勢よく舌を入れてピチャピチャやってみたが、何だか舌の先を針でさされたようにピリリとした。
人は何が楽しくてこんな苦いものを飲むのか見当もつかないし、俺にはとても飲める代物じゃない。
どうやら猫とビールは相性が悪いようだ。
こりゃマズいと舌を引っ込めたんだが、ちょっと待て。
人間は口癖のように“良薬口に苦し”と言って、病気になると、苦そうに顔をしかめて変なものを飲んでいるじゃないか。
苦いものを飲むから治るのか、治すために苦いものを飲むのか、疑問だったんだが、丁度いい。
この問題をこのビールで解決してやろう。
飲んで腹の中まで苦くなったら、まあそれまでの事。
もし三平君のように前後を忘れるほど陽気になれば儲けもの。
近所の猫どもにも教えてやろうじゃないか。
まあどうなるかと、運を天に任せ、やると決めて再び舌を出した。
眼をあけていると飲みにくいから、しっかりと目をつぶって、またピチャピチャ舐め始める。
俺はガマンにガマンを重ねて、やっと一杯のビールを飲み干した時、妙なことが起きた。
始めは舌がぴりぴりして、口の中が外から押されるように苦しかったのが、飲むにつれて、だんだん楽になり、一杯目を飲み終えた時には苦も無く飲めるようになった。
もう大丈夫と二杯目は難なく全量制覇だ。
ついでに盆の上にこぼれたのもペロペロ舐め取る。
それからしばらくの間は自分で自分の様子を伺うため、じっとしていた。
するとだんだん体がポカポカしてきた。
目の前がポーとして耳がほてってくる。カラオケで歌がうたいたくなる。マイケルダンスが踊りたくなる。
今なら何でもやれる気分。
巨人だろうが使徒だろうがデッカイ二足歩行のトカゲだろうが、みんなまとめてかかってこい!
最後にフラフラ立ちたくなり、立ったらヨタヨタ歩きたくなり、こりゃ面白いと外へ出たくなってきた。
でてみりろ、じめんがクラクラゆれれいる。ちどうせつは、ただしいろ。おもしれるれー。
あてもなく散歩するような、しないようなで、フラフラする足をテキトーに動かしていくと、急にぼうっとしてきた。寝ているのか、歩いてのかわからない。
目を開けているつもりだけど、マブタがすごく重い。
こうなったら、この先に何があろうが驚かないぞ。
前足をぐにゃりと踏み出した途端、ボチャンと音がして……
しまったあー! って、この身になにが起きたのかわからないが、ただヘマをしたのだけはわかる。
冷たさに我に返った時には、水の中に浮いていた。
息苦しさに、爪をつかって必死にあがいてみたが、ズブズブと水に沈んでいく。
しょうがないので、後ろ足を使って飛び上がってみると、ガリッと音がして前足の爪に
僅かな手ごたえを感じた。
やっと水の上に頭を出して、あたりを見回すと、俺は大きな水瓶の中に落ちていた。
水面から水瓶の縁までは、12センチちょい。
前足は届かないし、飛び上がっても無理。
じっとしていれば、どんどん沈んでいくばかり。
必死にジタバタしても、どうにもならない。
そのうち、だんだん疲れてきて体が動かなくなってきた。
ついには水に潜るために水瓶を引っ掻くのか、引っ掻くために潜るのか、訳が分からなくなってきた。
そのとき俺は考えた。
こんなに苦しいのは、上にあがりたいと思うからだ。
まるで人生のように。
しかし上がりたいのは山々だが、どう考えても無理なものは無理。
俺の前足は、惜しいながら10センチにも満たない。
水に体を浮かせて、精一杯足を伸ばしても、水瓶の縁には届かない。
これじゃあ百万年足掻いていても出られる訳がない。
いくらジタバタしていても、苦しいばかり。
これじゃあ自分で自分を拷問にかけているようなもんだ。
無駄な抵抗休むに似たり。
……もうやめよう。ニャン生にも疲れ切ってしまった。
前足も、後足も、頭も尾も運命に任せて抵抗しない事にした。
次第に楽になってくる。苦しいのか、ありがたいのかわからない。
水の中にいるのか、座敷の上にいるのかすら、わからない。
……もうこの先どうなってもいい。
ただ楽になりたいだけ……
どうやら、俺はこのまま死んでしまうようだ……
……また転生できればいいな。
ああ、女神様の声が聞こえてきた……
―完―
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