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第三十一話 金の誘惑

ボスは「猫はどうでもいいが、着物を盗られたので寒くていかん」と大いに沈んだ様子。なるほど寒いはずだ。

昨日までは綿入上着を二枚重ねていたのに、今日は薄い上着に半袖シャツだけ。

朝から運動もせず座りっぱなしだから、血液は胃に集中して手足には手が回らない。

すると多々良君が豪快に言う。

「先生、教師なんかやってたらダメですばい。ちょっと泥棒に遭っただけで困るんだから。今から考えを変えて実業家になりなさい!」

奥さんがすかさず返す。

「先生は実業家が嫌いだから、そんなこと言ったって無駄よ」

……本音じゃ、ボスに実業家になってほしいくせに。

「先生、私が中学校を卒業して何年になりますか?」

「今年で九年目でしょう」と奥さんが答える。

ボスは肯定も否定もせず曖昧な顔。

多々良君は中学時代に覚えた詩を朗吟する。

「九年立っても月給は上がらず、いくら勉強しても誰も褒めちゃくれず、郎君独寂寞ですたい!」

──奥さんは『郎君独寂寞』の意味が分からず黙ってしまう。

……チート的頭脳を持つ俺が解説しよう。『旦那様、完全ソロプレイで寂しがってるわ!』 だ。

ボスはぼそっと「教師は嫌いだが、実業家はもっと嫌いだ」と言う。

奥さん「先生は何でも嫌いなんだから……」

多々良君「じゃあ嫌いじゃないのは奥さんだけですか?」と冗談を飛ばす。

ボス「一番嫌だ」

……即答かよ。

奥さんは横を向いて澄ましたが、再びボスを見て言う。

「生きているのも嫌いなんでしょう」

ボス「まあ、あまり好きではない」

……ノンキすぎる。これでは手のつけようがない。

多々良君はさらに説得を続ける。

「先生、少しは散歩でもして体を動かさないと壊してしまいますばい。そうして実業家になりなさい。金を儲けるなんて造作もないことです」

ボス「少しも儲けてないくせに」

「まだ去年やっと会社に入ったばかりです。それでも先生より貯蓄があります」

「どのくらい貯蓄したの?」と奥さんが熱心に聞く。

「もう五十円になります」

「一体あなたの月給はどのくらいなの?」──奥さんの質問は止まらない。

「三十円ですたい。そのうち毎月五円ずつ会社で積み立てて、いざという時に使います。奥さん、小遣いで鉄道の株を少し買いなさい。三、四か月で倍になります。ほんに少し金さえあれば、すぐ二倍三倍ですばい!」

多々良君は胸を張って豪語する。

……株の神様にでもなったのか?

奥さんはすかさず「そんなお金があれば泥棒に遭ったって困りゃしないわ」と返す。

……正論だな。

「だから実業家に限るんです。先生も法科をやって会社か銀行に出ていれば、今頃は月に三、四百円の収入ですよ。惜しいことでしたな。――先生、鈴木藤十郎という工学士をご存じですか?」

「うん、昨日来た」とボスは相変わらず短い返事。

「そうですか。先だって宴会で会った時、先生の話をしたら『君は苦沙弥君のところの書生だったのか。僕も昔、小石川の寺で苦沙弥君と自炊していたことがある。今度行ったらよろしく伝えてくれ』と言ってましたよ」

「近頃東京へ来たそうだな」

ボス少しだけ興味を示す。

「ええ、九州の炭坑にいたんですが、こないだ東京詰めになりました。なかなか旨い男です。私にでも朋友のように話します。――先生、あの男がいくら貰ってると思いますか?」

「知らん」

ボス素っ気なし。

「月給二百五十円、盆暮に配当がついて平均四、五百円ですばい!あんな男が高給取っているのに、先生は十年間も毛皮のコート一着だけじゃ馬鹿げておりますなあ」

「実際馬鹿げているな」

ボス激しく同意。

普段孤高を気取っていても、給料となると惨敗らしい。

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