第三十話 猫食い野郎
そんなところに勢いよく玄関を開けて多々良三平君が敷居を跨いてくる。多々良君は元々この家の書生だったが法科大学を卒業し、一流会社の鉱山部に勤めているエリートだ。
彼は実業家としてはまだ駆け出しで、鈴木藤十郎君の後輩である。
三平君は実業家ではあるが書生であったことから日曜などには一日遊んで帰るくらいボスの家族とは親しい関係にある。
「先生はどちらにおいでで?」
「相変わらず書斎に引き籠っておりますわ」
「しかし先生も変わってますな。この天気のいいのに家にじっとして……奥さん、あれじゃ胃病は治りませんよ。上野へ花見にでも連れ出した方がいい」
「あなたが連れ出してください。先生は女の言うことは絶対聞かない人ですから」
「そこで小耳に挟んだのですが、泥棒は災難でしたな。何を持って行かれたんですか?」 「山芋と着物を全部持って行かれました」
「それは困りますな。また借金しなければならんですか。この猫が犬ならよかったのに……惜しいことをした。奥さん、大きな犬を一匹飼いなさい。猫は駄目ですばい、飯を食うばかりで。ネズミくらい捕りますか?」
「一匹も捕ったことありません。本当に横着で図々しい猫ですよ」
「いや、それはどうにもならん。早く棄てなさい。私が貰って行って煮て食おうかと」
「えっ、多々良さんは猫を食べるんですか!」
「食いました。猫は旨いござります」
「……随分豪傑ね」
下等な書生の中には猫を食うようなバーバリアンがいると聞いたことはあった。
だが、俺が日頃敬愛している多々良君がその同類だったとは──夢にも思わなかった!
しかも彼はもう書生じゃない。
卒業したばかりとはいえ堂々たる法学士で、六井物産会社の役員だぞ。
そんな人間がキャットイーターだなんて、俺の驚きも並大抵じゃない。
「人を見たら泥棒と思え」という格言は昨夜の出来事で証明済みだが、「人を見たら猫食いと思え」という新しい真理を、俺は多々良君のおかげで初めて悟った。
世に生きれば事を知る。
事を知るのは嬉しいが、危険も増えるし油断もならなくなる。
狡猾になるのも卑劣になるのも、みんな“事を知る”の結果だ。
老人に碌な者がいないのもこの理だろう。
俺なんか今のうちに多々良君の鍋でタマネギと一緒に成仏した方が得策かも……と隅っこで小さくなっていたら、さっき奥さんとケンカして書斎へ引っ込んでいたボスが、多々良君の声を聞きつけてノソノソ茶の間へ這い出てきた。
「先生、泥棒に遭われたそうですな。なんちゅう愚かなことです」
「入る奴が愚かなんだ」とボスは相変わらず自分を賢人だと思っている。
「入る方も愚かだが、取られる方もあまり賢くはなかでごたる」
「何にも盗られるもののない多々良さんが一番賢いんでしょう」と奥さんが珍しくボスの肩を持つ。
すると多々良君が俺を指さして言った。
「しかし一番愚かなのはこの猫ですばい。ほんにまあ、どういう了見じゃろう。ネズミは捕らず、泥棒が来ても知らん顔をしている。――先生、この猫を私にください。こうしておいたって何の役にも立ちませんばい」
ボス「やってもいいが何するんだ」
多々良君「煮て食べます」
……おい!
俺は思わず背中の毛が逆立った。
まさか法学士で会社役員の好男子が、真顔で「猫を煮て食う」なんて言うとは!
この世は本当に油断ならない。




